タイトルバナー

石見の火山

■石見の火山が伝える悠久の歴史〜22の構成文化財

 島根県大田市の歴史と景観の背景には、火山が作った地形と岩石、土壌、鉱物資源がありました。町の象徴として古くから仰ぎ見られてきた三瓶山を作った火山は、縄文時代の森を現代に伝える役割も果たしました。
 町の歴史の中核と言える石見銀山は、かつて世界の人と文化の動きに影響を及ぼした銀鉱山です。銀生産の原動力は、火山が作った特別な銀鉱石でした。
 銀以外にもさまざまな鉱物資源、岩石資源に恵まれている大田市は、鉱山の町という顔も持っていました。その資源をもたらすとともに変化に富んだ景観の源になったのは、日本列島が形成されたグリーンタフの時代の火山でした。
 日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史〜"縄文の森""銀(しろがね)の山"と出逢える旅へ〜」は、火山を中心とする大地の恵みを活かして暮らしを営んできた大田市の物語です。

■三瓶火山

 大田市の象徴であり、国引き神話に登場する神話の山でもある三瓶山。火山が作った峰は信仰の対象となり、麓に流れ下った火山灰は縄文時代の森を残しました。また、火山灰土壌を上手に使った人々の営みにより、たおやかな草原の景観が生まれたのです。

1.三瓶小豆原埋没林

三瓶小豆原埋没林

三瓶小豆原埋没林。地下空間で現地展示するさんべ縄文の森ミュージアム

 巨大な木々が茂っていた縄文時代の森。三瓶小豆原埋没林は、縄文の森の姿を今に伝える貴重な存在です。この森は、約4000年の間、地面の下に埋もれていました。

 発掘された森はスギが中心で、その多くは幹の太さが2m前後に達する巨木です。一部を発掘状態で公開する地下展示室には、当時の地面に根を張ったままの巨木が立ち並びます。まっすぐに伸びるスギの幹は、残っている部分だけでも高さ10mを超え、生きていた時の樹高は40m以上と推定されます。その木を見上げると、縄文人が見た森の風景が想像できることでしょう。その森には人による開発の手がまだ及んでおらず、数百年から数千年の時間をかけて壮大な森が育まれたのです。  この森を今に伝える役割を果たしたのは三瓶火山の噴火でした。木々は火山活動で発生した土石流と火砕流に襲われながらも、地形的な偶然が重なったおかげで倒されず、燃えずに深く埋もれ、奇跡的に現代まで残されたのでした。

※縄文の森の発見
三瓶小豆原埋没林は、1998年の発掘調査で発見されました。それ以前から、地元では地下に埋もれた木の存在は知られていて、地区内を流れる小豆原川の河床に頂部が露出した立木が2本あったほか、氾濫で河岸が削られた時などに立木が現れることがありました。

1983年に水田の圃場整備(区画整備)の工事で2本の立木が出現しました。その時の写真がきっかけとなり、三瓶火山を研究していた松井整司氏が調査を行い、立木状態で埋もれた森の可能性を指摘、その調査結果を受けて島根県が発掘調査を実施し、発見に至りました。

※樹木の種類
三瓶小豆原埋没林の発掘調査では約30本の立木と、大小あわせて150本を超える流木が確認されました。立木では73%、流木では54%をスギが占め、直径1mを超える大径木ではスギの割合が圧倒的に多くなります。ほかにはカシの仲間、トチノキなどが混じり、約4000年前の三瓶山麓には、巨大なスギを中心として広葉樹が若干混じる森林が存在していたことが推定できます。

※地形的偶然
三瓶小豆原埋没林は、いくつかの現象によって段階的に埋もれました。はじめに、火山体の崩壊による大規模な土石流が発生し、小豆原の隣の谷を流下しました。この時、隣の谷と小豆原の谷との合流部が土砂で埋め尽くされ、土砂の一部は小豆原の谷をさかのぼって埋没林地点まで達しました。木々が立ったまま埋もれた原因のひとつは、逆流によって土石流の勢いが衰えたことでした。小豆原の谷は土砂によって「土砂ダム」の状態になり、水がたまり始めた時に火砕流が直撃しました。高温の火砕流は水で急冷されたとみられ、木々は樹皮がわずかに焦げただけでした。その後、河川が運んだ細かな火山灰が土砂ダムに厚く堆積し、立木群は10m以上の深さに埋もれました。

このように堆積した土砂は、一般的には比較的短時間で浸食されて失われるものの、下流にある稚児滝の岩盤が浸食を防ぐ働きをしたことで、幹が長いままで残されたのです。

2.三瓶山

矢滝城山から見た三瓶山

三瓶山の遠景。大田市祖式町の矢滝城山山頂から

 国引き神話に登場し、昔も今も地域の象徴として親しまれている三瓶山。草花に富んだ自然観察フィールドとしても知られ、登山やキャンプに多くの人が訪れます。

 この山は幾度も繰り返された火山噴火で形成されました。火山活動は約10万年前にはじまり、約4000年前まで繰り返されました。古い時期の大噴火では直径4.5kmに達するカルデラが作られ、縄文時代以降の噴火でカルデラの内側に噴出した溶岩が男三瓶山(1126m)を最高峰とする峰々を作りました。男、女、子、孫と、家族の名が付けられた峰が並ぶ姿と、その山すそのなだらかな斜面に広がる草原が特徴的で、この景観が評価されて国立公園に指定されています。

※火山活動の歴史
三瓶火山の活動は約10万年前にはじまり、約4000年前までの間に7回の活動期があったことがわかっています。約10万年前の活動では多量の噴出物を高く放出し、降りつもった軽石や火山灰は、約50km離れた松江市内で50~100cm、遠くは東北地方でも確認されています。2回目の活動(約7万年前)では大火砕流が発生しています。この2回の活動がカルデラを形成する規模の大噴火です。約3万年前、約1万6000年前にも大きな爆発的噴火を行っています。現山体は、約1万6000年前以降の活動で形成されたものです。山体を作った噴火は、火口からゆっくりと溶岩を噴出して「溶岩円頂丘」という火山地形を作るものでした。その噴火は雲仙岳平成噴火と同じ様式でした。

3.三瓶山の牧野景観

三瓶山の牧野景観

三瓶山西の原の放牧風景

 こんもりとした峰のふもとに広がる草原の風景。放牧の牛がたたずむ姿を見られることもあります。草原はオキナグサやユウスゲ、リンドウなどの希少な草花の宝庫でもあります。

 草原が広がる景観は、長年にわたる牛馬の飼育で生まれました。火山灰土壌の土地は水に乏しく、田畑に利用できないものでした。この土地を使って牛馬を飼育することを奨励したのは、江戸時代の前半に石見銀山領内に置かれた吉永藩でした。農耕や荷物運搬の労働力として重要だった牛の飼育は、経済振興策でもありました。草原は旧日本陸軍の演習地にも併用された時期もあり、長い歴史を経て現在の景観が成立しました。

※火山灰土壌の土地
 三瓶山の山すそには、西の原をはじめとしてなだらかな斜面が広がっています。この地形は、カルデラの内側で溶岩が噴出して峰を形成した際、山すそに火砕流として流れ下った噴出物や、火山活動後の浸食によって流出した土砂がカルデラの窪地を埋めてできたものです。火山灰質の砂礫が厚く堆積してできた地盤は極めて水はけが良く、雨水は速やかに地中に浸透するために地表を流れる水がほとんどありません。そのため、田畑への利用が困難でした。

※吉永藩
江戸時代の大田市域は石見銀山領として幕府直轄地でしたが、1643(寛永20)年から1682(天和2)年の40年間は吉永藩が置かれ、会津藩主だった加藤家が藩主として陣屋を構えて三瓶地域を含む20ヶ所を治めました。吉永藩はさまざまな経済振興策を行い、そのひとつが三瓶山での牛馬飼育の奨励でした。

※旧日本陸軍演習地
三瓶山の草原は、1880年代から旧日本陸軍の演習地としても使われました。大田市三瓶町志学に兵舎が置かれ、広島や浜田から演習に訪れた兵士が西の原、東の原、北の原で砲撃などの訓練を行いました。

4.三瓶そば

三瓶山麓のそば畑

三瓶山麓のソバ畑。9月に山麓のあちらこちらで白い花を見ることができる

 細めに切られたそばをかみしめると芳醇な香りが広がる三瓶そば。そば通をもうならせる味わいは、江戸時代から伝わる三瓶在来種を大切に守ってきた農家とそば店主たちに支えられています。

 そばが水や栄養分に乏しい土地でも育ち、短時間で実ることから、火山灰土壌の三瓶地域で昔から盛んに栽培されてきました。寒暖差が大きい高原気候が風味を育み、明治時代には西日本で唯一、そばの名産地に数えられています。2020年には、地域産品を保護する地理的表示(GI)に登録され、全国的な評価が再び高まっています。  薬味として欠かせないワサビも三瓶山の特産品で、山麓に点在する豊富な湧水を使って上質なワサビが栽培されています。

※在来種そば
「在来種そば」は、地域毎に古くから栽培されてきたソバを指し、品種改良された種と区別されます。三瓶在来種は、他品種との交雑を防いで育てられ、農林水産省の地理的表示(GI)では、大田市三瓶町と山口町で栽培されたものだけが、「三瓶そば」とされます。

ソバの原産地は中国南部が有力とされ、縄文時代には日本列島でも栽培が始まっていました。

※湧水とワサビ
山すそには地表を流れる水がない三瓶山ですが、地下に染みこんだ水の一部はカルデラの縁あたりで湧き水として流れ出します。水量が豊富な湧き水が何カ所もあり、その水を使ってワサビ栽培が行われています。

5.三瓶温泉

三瓶温泉の源泉から流れる湯谷川

三瓶温泉の源泉から流れる湯谷川。温泉の湯が流れ、薄茶色に濁っている

 薄茶色の濁り湯が体を温めてくれる三瓶温泉は、火山の熱の恵み。孫三瓶山と日影山の間にある源泉からは毎分3000リットルを超える湯がわき出し、中国地方随一の自噴量を誇ります。泉質はナトリウム-塩化物泉、源泉温度は37度C前後。わき出た直後には無色透明だった湯は、やがて鉄分などのミネラルによって濁り湯に変わります。源泉掛け流しの湯に身を沈めてしばらくすると、体を包む小さな泡はマグマからやってきた二酸化炭素。じっくりと体が暖まります。

 三瓶温泉の熱源は、地下に残るマグマです。そのマグマは噴火につながるほどの熱さではないとみられますが、染みこんだ地下水を暖め、温泉として地表へ送り返す役割を果たします。

6.浮布の池

浮布の池

浮布の池と三瓶山

 静かに水をたたえる浮布の池の先に男三瓶山と子三瓶山がそびえ、風がない日には湖面に「逆さ三瓶」が映ります。この池は西の原の下方にあり、面積約13.5ヘクタールの天然湖沼です。三瓶火山の噴出物が谷の出口を塞いだせき止め湖で、大田市の平野部へ流れる静間川の源流点とされます。田畑を潤す水源としても大切な池で、湖岸の邇幣姫神社は流域の農家からの信仰を集めます。池に流れ込む水はわずかで、湖底からの湧水が池の水の多くをまかなっているとみられます。

 大蛇と娘にまつわる伝承が伝わり、入水した娘の衣が湖面に浮いたことが名称の由来とされます。また、柿本人麻呂の万葉歌にある「浮沼池」の候補地のひとつです。

※せき止め湖
西の原を頂部に、静間川の谷に多量の火山噴出物が堆積しており、浮布の池はその土砂でせき止められています。684年に発生した白鳳地震の時に三瓶山が崩れて土砂が流れ下り、池をせき止めたという伝承もあり、火山活動以降の崩壊も池の拡大に影響していることも考えられます。

※柿本人麻呂の万葉歌
万葉集第7巻1249番、「君がため浮沼池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも」。柿本人麻呂は石見にゆかり深く、浮布の池は「浮沼池」の候補地とされます。

7.物部神社

物部神社

物部神社。写真は本殿

 大和の豪族、物部氏の始祖とされる宇摩志麻遅尊をまつる物部神社は、三瓶山から流れる静間川が忍原川と合流する大田市川合町に鎮座します。その社殿は荘厳で、春日造として国内最大の本殿を有します。物部氏との関わりと同時に、三瓶山の名称の由来とされる「瓶」が御神体の「一瓶社」を境内社としてまつるなど、古くからの三瓶山への信仰をうかがわせる神社でもあります。7月に行われる御田植祭は、童女を三瓶山から招いた田の神「サンバイサン」の化身を見立てて執り行われます。童女のサンバイサンは、三瓶山の古名、佐比賣山が示す「サ(農耕)の姫」も連想させる存在です。

※三瓶山の名称由来伝承
物部神社に伝わる伝承では、三瓶山から3つの瓶が現れ、物部神社と浮布の池、三瓶大明神(現高田八幡宮)に収まったという。この3つの瓶が、「三瓶」の名称由来とするもの。

※サの姫
「早月」、「早乙女」のサは農耕を意味する。三瓶山の古名、佐比賣山に関わる伝承に、雁の背に乗ってやってきた小さな姫神「サヒメ」が三瓶の地で種を蒔いたというものがあり、この伝承でもサヒメは農耕の姫神とされる。

8.佐比賣山神社と多根神楽

・佐比賣山神社

佐比賣山神社

佐比賣山神社。例大祭の夜

 三瓶山の古名「佐比賣山」の名は、古くは733年に編纂された『出雲國風土記』に記載され、国引き神話の杭に見立てられています。その古名を今に伝えるのが、大田市三瓶町多根に鎮座する佐比賣山神社です。古代には信仰の対象でもあった三瓶山の鎮守に位置づけられてきた神社で、891年の創建と伝わります。祭神には大己貴命、少彦名命 、須勢理毘売命をまつります。三瓶山の山麓では8ヶ所の湧水ごとに集落ができ、それぞれの集落に三瓶山をまつる神社があったと伝わります。佐比賣山神社のほか、高田八幡宮(三瓶町池田)や八面神社(三瓶町志学)などがその流をくむ神社とされます。

・多根神楽

佐比賣山神社

佐比賣山神社で奉納される多根神楽。演目は「大蛇」

 三瓶町多根地区に伝わる神楽で、明治時代に神職による神楽舞が禁止された後、佐比賣山神社の神職から多根の住民に受け継がれ、継承されてきました。石見神楽はテンポが速い八調子が主流になっていますが、多根神楽は原型にあたる六調子の優美な舞を伝え、大田市の無形民俗文化財に指定されています。佐比賣山神社の例大祭や、7年ごとに執り行われる農耕神事の大元祭でこの神楽が奉納されます。他にも各種の行事や競演大会などで舞を披露しているほか、定期公演の取り組みも行われています。

9.小笠原流田植囃子

物部神社で奉納される小屋原の小笠原流田植囃子

物部神社の御田植祭で奉納される小屋原の田植囃子

 小笠原流田植囃子は、中国地方に伝わる民俗芸能で、その歴史は戦国時代までさかのぼります。色鮮やかな衣装をまとって太鼓、鼓、笛などを奏でる華やかな芸能で、豊穣を祈る農耕神事でもあります。三瓶山の地域では、三瓶町池田と三瓶町小屋原に伝わり、両地区を校区とする池田小学校でも継承の取り組みが行われています。7月に物部神社で行われる御田植祭では、小屋原の田植囃子が奉納され、水源の山である三瓶山への信仰の一端を物語ります。大田市では、大代町の小笠原流田植囃子が市の無形民俗文化財に指定されているほか、水上町で花田植が継承されています。

10.定めの松

定めの松

定めの松

 西から三瓶山に続く道(三瓶山公園線)を上り、西の原の草原が眼前に広がると、幾百年の年月を経た老松「定めの松」が出迎えてくれます。この松は、石見銀山の初代奉行、大久保長安が行った石見検地の時に、一里塚の塚松として植えられたと伝わり、以前は道路の両側に対になっていました(一方は2007年に枯死)。根上がりした根がいくつもの岩を抱え、もとは塚の上に植えられていたことを物語ります。

 西の原は大雪の時には雪原に変わり、昔は吹雪の時などは進む方向さえわからなくこともありました。道の目印として、定めの松を起点に数100m間隔で松が植えられ、道行く人々を見守る役割を果たしてきました。

 (補足)2023年に残っていたもう一方の松も枯死しましたが、「定めの松」は一里塚があった場所として歴史的な意味があります。

■大江高山火山

 大江高山を筆頭に大小30以上の火山体で構成される大江高山火山は、石見銀山の銀鉱床を作る役割を果たし、銀の積み出し港の地形形成などにも影響を及ぼした火山です。

11.大江高山火山

大江高山火山遠景

大江高山火山の山群。右端が大江高山。江津市の浅利富士からの眺め

 大江高山(808m)は、春には多くのギフチョウが飛び交い、ミスミソウやイズモコバイモという希少な山野草の花が見られ、多くの登山客が訪れます。この山の北側には急峻な山が連なり、石見高原と呼ばれるなだらかな地形の中で目をひく山群を構成しています。これらの山々は、約200万年前から約60万年前頃にかけて繰り返された火山活動によって形成されたもので、大江高山火山と総称されます。粘り気が強い溶岩によってできた30個以上の「溶岩円頂丘」が集まり、その中で唯一、仙ノ山(537m)は火山灰や火山礫が降りつもった「火山砕屑丘」です。峰々の一角に石見銀山があり、矢滝城山、前矢滝には銀山守衛の城が置かれました。

※石見高原
中国山地には、遠くから見ると平坦に見える高原状地形が数段発達しています。島根県中部〜東部には、標高200〜300m台の平坦面が認められ、石見高原と呼ばれます。

12.石見銀山遺跡(仙ノ山の福石鉱床)

石見銀山本間歩

石見銀山仙ノ山にある間歩(坑道)のひとつ「本間歩」付近。右側の坑口が本間歩

 石見銀山は、16世紀に本格的な開発が始まり、量産された銀は国内外の政治経済に影響を及ぼしました。その成功の理由として、「福石」という独特の鉱石を見逃せません。福石は、火山灰や火山礫が堆積してできた岩石が銀の鉱石になったものです。仙ノ山の山頂付近から東側の山腹にかけての福石が分布する範囲が「福石鉱床」と呼ばれました。福石は大きな広がりを持って分布していることがあり、石自体がそれほど硬くないために、効率良く掘ることができました。16世紀に導入された「灰吹法」という製錬技術で銀を取り出しやすい鉱物の組み合わせだったこともあり、16世紀から17世紀前半にかけての銀の量産につながりました。

※仙ノ山
大江高山火山の一角をなす仙ノ山は、約150万年前の噴火によって火山灰や火山礫が堆積してできた「火山砕屑丘」で、この山に噴出した温泉(熱水)が銀などを沈殿させて鉱床を形成しました。土砂状の火山砕屑丘に熱水が浸透してできた福石は、16世紀当時の技術での銀生産に適していました。

※灰吹法
銀や金の製錬(精錬)技術。1533年に石見銀山に導入された技術は、鉱石を溶かす段階で鉛または鉛鉱石を加えて鉛と銀の合金を作り、灰を敷き詰めた炉で銀鉛合金を溶かすと灰の上に銀が残るものです。

13.大森銀山地区

石見銀山遺跡大森銀山地区

大森町の町並み。観世音寺からの眺め。奥が仙ノ山

 石見銀山の鉱山町として成立した大森町は、銀山川が流れる谷に沿って赤瓦の家並みが連なります。江戸時代の町割をとどめる町並みは、往時の面影を残しつつ、現代の暮らしが営まれています。江戸時代には大森代官所が置かれ、幕府が直轄した石見銀山領の政治経済の中心地でした。

 火山の作用でできた「福石」が石見銀山隆盛の原点になったことに加えて、町並みには日本列島形成の時代の火山が作ったグリーンタフ(緑色凝灰岩)が石材として多く使われ、形を整えた石で組んだ石垣などが整然とした景観を生み出しています。町並みの中でも採石が行われ、各所に残る石切り場の跡が独特な雰囲気につながっています。

※石見銀山領
現大田市を中心とする石見東部と、主要鉱山の笹ヶ谷(津和野町)、日原(津和野町)、都茂(益田市)、久喜・大林(邑南町)が幕府の直轄地(天領)でした。

14.琴ヶ浜

琴ヶ浜

夕暮れ時の琴ヶ浜(仁摩町馬路)

 延長1.4kmにわたって白砂が続く琴ヶ浜は、踏みしめると音を奏でる鳴り砂の浜です。石英質で大きさが揃った砂が擦れ、ぶつかり合うことで音を発しますが、汚れてしまうとすぐに音は失われます。鳴り砂は浜がきれいであることの証でもあります。浜は半円状の湾にあり、その両側にはグリーンタフの岩盤が岬状に突き出します。この形が波の力をほどよくさえぎり、砂は湾内で波に洗われ続けていると考えられています。湾そのものが火山の噴火口という説もあります。

 浜の背後には馬路地区の家並みが迫ります。伝統的な盆踊りが催されるなど、生活に関わり深い浜を住民が大切にしてきたことが、日本一と言われる鳴り砂の美しさを守っています。

※石英
きれいなものは水晶と呼ばれる鉱物。多くの岩石に含まれ、丈夫で風化に強いことから長時間波に表れた砂は石英の比率が高くなる。琴ヶ浜では砂の70%以上が石英。

※盆踊り
馬路の盆踊りは、8月13日から15日の3晩、深夜まで催されます。大田市の無形民俗文化財に指定されており、3種の口説きとそれに合わせた踊りが特徴です。

■グリーンタフの火山

 大陸の端を裂き、日本海が拡大した日本列島形成の大地殻変動は、激しい火山活動を伴いました。その火山噴出物に特徴的な緑色凝灰岩(グリーンタフ)が大田市に広く分布し、さまざまな鉱物資源と岩石資源、変化に富んだ景観をもたらしました。

15.松代鉱山の霰石産地

松代鉱山の霰石

松代鉱山産の霰石。大田市所有の資料

 半透明の結晶が集まり、大きなものはバレーボールほどの球状になる松代鉱山の霰石は、世界でも他に例がない形と大きさが特徴です。霰石は炭酸カルシウムからなる鉱物で、成分的にはセメントの主原料になる石灰岩(方解石)と同じです。

 霰石を産出した松代鉱山は、明治時代から1960年代まで石こうが採掘された鉱山です。かつて島根県は日本一の石こうの生産量を誇り、大田市と出雲市の鉱山が生産を支え、松代鉱山は主力鉱山のひとつでした。霰石は石こう鉱床の近くから産出し、形の珍しさから観賞用に珍重されました。「松代鉱山の霰石産地」の名称で国の天然記念物に指定されていますが、坑道は閉鎖され、現在は立ち入りできません。

※セメント
セメントの主原料は石灰岩で、固結時間を調整するための副原料として石こうが3%程度用いられます。山陽と北九州は国内有数の石灰岩産地でセメントの生産地で、大田市の石こうは山口県などのセメント工場が主要な出荷先でした。

16.福光石の石切場

福光石の石切場

福光石の石切場の坑内(温泉津町福光)

 斜めに掘り進められた手掘りの採石跡の歴史は室町時代にまでさかのぼり、その奥の地下空間では現在も採石が続く福光石の石切場。採られる石は淡い緑色を帯び、暖かみがある手触りのグリーンタフ(緑色凝灰岩)です。1500万年以上前、日本列島形成の地殻変動で激しい火山活動がありました。その時、火山灰や軽石などが海底に堆積してできた石が福光石です。柔らかく加工しやすいことから多くの用途に使われ、石見地方を中心に流通しました。特に石見銀山では墓石などの石造物に多量に使われています。

 かつては全国各地で凝灰岩が採石されましたが、現在も操業が続く石切場は数少なく、福光石は貴重な存在になっています。

※石材としての凝灰岩
セメントなどの建材が普及するまで、石は土木建築の資材として大きな需要があり、柔らかい凝灰岩がよく使われました。大谷石(栃木県)や笏谷石(福井県)など、全国的に流通した石もあります。大田市には凝灰岩が広く分布し、福光石の石切場のほかにも大小多数の石切場がありました。

17.鬼村の鬼岩

鬼村の鬼岩

鬼岩の鬼岩(大屋町鬼村)

 道端にそびえる巨岩は、上部が傘のように広がり、えぐられたような側面に5つの穴が並びます。穴は鬼がつかんだ指の跡という伝承が伝わる岩はその名も鬼岩。海底火山の噴火でできた凝灰岩からなり、岩に含まれる塩類の作用によって風化が進み、特徴的な形状と側面の穴が形成されました。このような風化は、海岸ではしばしばみることができますが、海から離れた場所で鬼岩のように明瞭なものは珍しく、岩石中に溶け出しやすい状態の塩類が多く含まれているとみられます。近くには、石こうを産出した鬼村鉱山の跡があります。この岩を作った火山活動に関係して形成された鉱床を採掘したものです。

※塩類の作用による風化
岩石中に染み込み塩類を溶かした水が蒸発する時、硫酸マグネシウムや硫酸カルシウムなどの結晶が晶出して岩石表面を破壊することで生じる現象で、塩類風化と呼ばれます。

18.立神岩

立神岩

波根海岸から見た立神岩(波根町)

 海岸に面した断崖は高さ50mに達し、岩を切り取ったような形の島と、はっきりとした地層が印象的です。山陰本線の車窓からもよく見え、大田市東部のランドマーク的な存在です。火山灰と軽石が堆積した凝灰岩が明るい色の層、礫岩が暗い色の層で、約1500万年に海岸で形成された地層です。地層から、近くで火山の噴火が繰り返されたことがわかります。

 岩の西には1950年まで波根湖という湖が存在しました。中世までは港として使われた湖で、湖岸にある古代寺院の遺跡が古くからの交易を物語ります。港の目印や航海の安全を祈る岩を立神岩と呼ぶ例が他地域にいくつもあり、この立神岩も港の目印としての役割を果たしてきたのでしょう。

※山陰本線
山陰本線が石見大田駅(現大田市駅)まで開通した1915年、若き日の芥川龍之介が鉄道で波根を訪れ、私信に辺りの景色が美しかったことを記しています。

19.仁万の硅化木

仁万の化木

仁万の硅化木(仁摩町仁万)。2個体のうち東側の波食台上にあるもの

 緑色が鮮やかなグリーンタフ(緑色凝灰岩)を見ることができる仁万海岸の波食台に、2個の大きな樹木化石(珪化木)が露出し、「仁万の硅化木」として県の天然記念物に指定されています。波食台上に横たわる珪化木をよく見ると、割れ目に小さな石英(水晶)がびっしりと並んでいることに気づきます。石英は二酸化ケイ素からなる鉱物で、この成分が樹木を石に変化させました。1500万年以上前、火山灰に埋もれた樹木に温泉水が染み込み、その中に溶けていた二酸化ケイ素が樹木の中で固まることで硬い石になりました。形は樹木ですが、成分はほとんど置きかわり、石英やメノウなどの二酸化ケイ素の鉱物の塊になっています。

※波食台
海岸の岩盤が波の作用で浸食され、海面高度付近に形成された平坦な地形。海食台ともいう。仁万港と琴ヶ浜の間の仁万海岸は比較的広い波食台が広がり、1500万年以上前の火山活動による火砕流や降下火山灰、火砕物岩脈、メノウ脈などを見ることができる。

※石英やメノウ
石英とメノウはいずれも二酸化ケイ素からなる鉱物で、ひとつの結晶が大きな石英に対して、メノウは微小な結晶の集合体。蛋白石(オパール)も二酸化ケイ素の鉱物で若干の水を含み、珪化木はおもにこの3つの鉱物でできています。

20.波根西の珪化木

波根西の珪化木

波根西の珪化木(久手町波根西)

 国の天然記念物「波根西の珪化木」は、海岸の海食崖から斜めに突き出し、一方の端が海底の岩盤に続く産状が目を引く大型の樹木化石です。ブナ科の樹木と推定されるこの化石は、1500万年前より少し新しい時代の火山噴火で埋もれました。珪化木の樹木は噴火に伴う土石流で押し流され、当時の海岸付近で埋もれました。珪化木周辺の海底にも多数の珪化木が横たわっていることがわかっており、土石流が森林の樹木をなぎ倒して流れたことが想像できます。昭和のはじめに近くの久手漁港が建設された時には、海底から何本もの珪化木が引き上げられたといいます。そのひとつで大型のものが久手小学校の校庭に設置されています。

※当時の海岸付近
珪化木の樹木が埋もれた時代は、日本列島形成の地殻変動の後半にあたります。日本列島はほぼ現在の位置になっていましたが、その形は大きく異なり、現在の地形とは全く別だったと言えます。

※「硅」と「珪」
仁万の硅化木と波根西の珪化木では使われている文字が異なります。古くは「硅化木」と表記することが多く、仁万の硅化木は文化財(県天然記念物)の指定名称にならって「硅」を用いています。波根西の珪化木も指定当時は「硅」だったと思われます。

21.静之窟

静之窟

静之窟(静間町)。2穴が開口していて奥で通じて広い空間になっている

 『万葉集』に生石村主真人(おおしのすぐりまひと)が詠んだ「志都乃石室(しずのいわや)」は、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が国造りの際に仮住まいした地で、静之窟はその比定地とされる洞窟です。洞窟には口がふたつあり、奥行45m、高さ13mもの広さを持ちます。古くは信仰の場で、昔は静間神社が洞窟にまつられ、今も一方の口に鳥居が建てられています。洞窟の岩盤は約1500万年前の火山噴出物が堆積してできたもので、断層や岩脈が複雑に入り組み、日本列島形成の地殻変動の激しさを物語ります。断層による破壊でもろくなった部分が波に削られたことで、洞窟の広い空間が形成されました。

※志都乃石室(しずのいわや)
比定地として、静之窟のほかに「石乃宝殿」(兵庫県高砂市)と「志都岩屋」(島根県邑南町)があります。

22.龍巌山(龍岩)

龍巌山(龍岩)

龍厳山(龍岩)(仁摩町大国)

 龍眼山は、空へ伸びるような巨岩が波のように幾重も重なる奇岩で、その頂上は石見銀山守衛の山城のひとつ、石見城の跡です。この岩は約1500万年前に火山が噴火した時、マグマが地を割って上昇した火道の部分にあたります。マグマが上昇する方向に沿って伸びた時に「流理」と呼ばれる筋ができ、その筋に沿って風化が進んだことで空へ伸びるような形が生まれました。岩には風化によってできた穴がいくつかあり、その内側は酸化鉄の沈殿によるとみられる赤色をしており、龍の口のようにも見えます。最大の岩壁は市の天然記念物のノウゼンカズラが覆い、夏には朱の花、晩秋には鮮やかな紅葉を見ることができます。

※石見城
龍巌山は石見銀山から仁万の海岸に至る道の中程にあり、銀山の守衛に重要な場所でした。その山頂に置かれた山城は石見城として世界遺産の構成資産に含まれています。

22の構成文化財以外にも、大田市では変化に富んだ地形地質を見ることができます。
→ジオサイト石見大田のページへ

inserted by FC2 system