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石見銀山の自然史

■石見銀山の自然史

目次

世界を動かした石見銀山
銀を産出した仙ノ山と鉱床の特徴
石見銀山の町並みと大地
銀山の港、鞆ケ浦と沖泊の地形

世界を動かした石見銀山

 日本では戦国大名が覇権を争い、世界では大航海時代だった16世紀、石見銀山は国内外の社会経済に大きな影響を与えた存在でした。当時、世界では銀が通貨として用いられ、石見銀山が産出した多量の銀をめぐる人の動きが東アジアとヨーロッパの交易を確立させることになり、日本にキリスト教や鉄砲などヨーロッパの文化や技術の伝来につながったのです。その歴史的意義と、銀生産を示す遺跡がよく残り、景観や文化が現代の生活と一体的に存在していることが評価され、石見銀山遺跡は世界遺産に登録されています。
 江戸時代に記された「石見銀山旧記」によると、博多商人の神谷寿禎が1527年(以前は1526年とされていましたが最近は1527年が正しいと考えられています)に仙ノ山に銀鉱石を見つけ、開発に着手したとされます。
 本格的な開発が始まるとまもなく銀の量産に成功し、その銀は大内氏や毛利氏など戦国大名の資金となりました。石見銀山の開発が引きがねとなり、生野銀山(兵庫県)、佐渡金銀山(新潟県)などの開発が本格化し、一躍日本は世界有数の銀産国になったのです。
最盛期には日本の銀が世界の産出量の3分の1を占めたとされ、そのうちかなりの割合を石見の銀が占めていたと考えられています。日本の銀は中国や朝鮮に輸出され、その銀によって東アジアの市場は活気づきました。そして、大航海時代のヨーロッパ列強国がアジアへ交易船を向ける契機になりました。
石見銀山は近世から近代にかけての日本経済の根幹を支えた金銀銅鉱山技術の先駆的鉱山として、社会史的にも重要な存在です。

石見銀山遺跡の歴史年表

石見銀山周辺地図

石見銀山周辺の地図。

銀を産出した仙ノ山と鉱床の特徴

・土砂が積もってできた仙ノ山
 石見銀山の銀鉱床は仙ノ山(538m)にあり、鉱床の一部がその北側の要害山に続いています。仙ノ山は150〜170万年前に活動した火山です。周囲にある要害山、矢滝城山なども火山で、大小30個以上の「溶岩円頂丘」が集まっています。この火山の集まりは、最高峰の大江高山(808メートル)の名をとって「大江高山火山」と総称されます。
 多数の溶岩円頂丘が集まる大江高山火山にあって仙ノ山だけは溶岩のかけらである「火山礫」と「火山灰」が堆積してできた地形です。このような地形は「火山砕屑丘」(岩石のかけら=砕屑物)と呼ばれるもので、「火山性の土砂が積もってできた山」です。(→仙ノ山の火山砕屑岩
 石見銀山の銀鉱床は大江高山火山の活動によって生成され、火山砕屑丘という仙ノ山の地質的特徴がこの鉱床を独特のものとし、鉱床鉱石の特殊性が16世紀の銀量産に好影響をもたらしました。

鉱床
こうしょう。地層(岩盤)中に資源として利用可能な鉱物が採れる(集まった)部分。

溶岩円頂丘
ようがんえんちょうきゅう。デイサイトなど粘り気が強い溶岩が作るこんもりとした火山地形。

火山礫、火山灰
かざんれき、かざんばい。火口から放出される粒子のうち、直径2mm(または4mm)より大きなものが火山礫、小さなものが火山灰。

海から見た仙ノ山

大田市仁摩町の沖からみた仙ノ山。「石見銀山旧記」は1527年、博多商人の神屋寿禎が沖から仙ノ山に”光”をみて銀山を発見したと伝えます。

・熱水の作用でできた鉱床
 仙ノ山の銀鉱床は、火山活動にともなう「熱水」で生成されました。熱水とはマグマの周辺で加熱された地下水やマグマから放出された水です。高い圧力がかかる地下では水は数百度の液体で存在します。この高温の水には周辺の岩盤から溶けた成分やマグマから供給された成分が溶けていることがあり、資源として使える成分が沈殿、結晶化して濃縮されると「鉱床」になります。熱水の作用で生成される鉱床は「熱水鉱床」と呼ばれます。石見銀山の銀鉱床は熱水鉱床です。
 約150万年前の火山活動で仙ノ山が形成された後、地下にあった高温のマグマ付近から熱水がもたらされました。その熱水は仙ノ山の山体に達し、さらに山頂付近からもうもうと湯気を立ち上らせて温泉として噴出していたと考えられます。この熱水には銀などの成分が溶けていました。熱水が上昇して温度が低下すると、成分の沈殿、結晶化が生じます。熱水からガス成分が抜けたり、地表付近の浅い地下水と混じることで生じる化学的な変化も成分の沈殿を生じさせます。これらの作用によって資源となる成分が濃縮されたものが熱水鉱床です。
 一般的な岩盤では、熱水の通り道は断層など岩石の割れ目で、熱水から晶出した鉱物がこの割れ目をうめたものが鉱脈になります。仙ノ山の場合も、深部の固結したマグマや古い時代の岩盤中では割れ目を熱水が流れましたが、火山体の大部分は「火山礫」と「火山灰」が堆積してできた「火山砕屑岩」です。熱水が上昇してきた時点では固まっていない土砂状の堆積物だったので、熱水はその中に広くしみ込みました。ここが一般的な鉱脈とは大きく異なる部分です。

鉱脈
こうみゃく。資源として使える鉱物を含む岩脈。割れ目を埋めてできた鉱脈は板状の形状。

・土砂に銀鉱物がちりばめられた
 仙ノ山の火山砕屑岩にしみ込んだ熱水は、温度、圧力の低下と浅部の地下水との反応による成分変化によって「輝銀鉱」などの銀鉱物を沈澱、結晶化させました。熱水は広い範囲にしみ込んでおり、銀鉱物が沈殿した範囲も広く立体的でした。熱水鉱床の鉱脈が数mの幅を持つことはまれですが、仙ノ山の富鉱部は幅10m以上にも達したと推定されます。
 こうしてできた鉱石は「福石」と呼ばれ、鉱床としては「福石鉱床」と呼ばれました。これらの言葉は石見銀山での固有名詞です。この福石鉱床には大きな脈石(鉱脈)がなく、その幅はせいぜい数cmです。脈としてはごく小さいものの、周辺の岩石中に微小な銀鉱物が「ちりばめられた」状態になっており、質が良い部分は大きく掘り広げて採掘されました。
 質が良いとは言っても、火山砕屑岩中に小さな銀鉱物が入り込んだものなので、銀の含有量はそれほど高くはなり得ません。脈石では銀鉱物が濃縮されて高い含有率になることがありますが、福石は高含有率になりにくい鉱石です。空のバケツに水を入れた場合と、砂が詰まったバケツに水を入れた場合を比べたら、どちらがたくさんの水が入るかを想像すると高含有率になりにくい理由が理解できるでしょう。
 大正時代のデータによると、福石の銀含有量は0.02%(鉱石1トンあたりの銀が200g)で、当時としても中品位の鉱石でした。福石が鉱石として使われなくなった時代の値のため、古い時代にはもっと高品位の鉱石を採っていたと思われますが、それでも鉱床全体の品位としてはそれほど高くはなかったでしょう。

輝銀鉱
きぎんこう。銀とイオウの鉱物(Ag2S)。福石の主要な銀鉱物。

鉱石
こうせき。資源として役に立つ鉱物を、利用可能な量含む石。

品位
ひんい。鉱石の質を表す言葉。含有量が高いものは高品位、低いものは低品位。

・品位は高くないが良い鉱石だった福石
 鉱石(鉱床)の質としては際だってはいないながらも16世紀に他鉱山に先駆けて銀の量産に成功したのは、次のような事情が考えられます。
 まず、鉱石が広く立体的に存在していたことで、採掘効率が高かったことが考えられます。福石鉱床の地下には「福石場」と呼ばれる巨大な採掘空間が残されています。鉱石の分布範囲を掘り広げた結果、巨大な空間が生まれたものです。広く立体的に鉱石が分布していることで、細い脈を追いかけながら掘る場合に比べてはるかに効率的に採掘が可能です。地下の福石場は江戸時代以降の採掘跡ですが、開発初期の16世紀には地表でも同じように広く採掘できる場所があったと考えられ、地表に残る採掘跡(露頭掘の跡)の幅の広さがそれを物語っています。
 また、仙ノ山の火山砕屑岩は岩石としては柔らかいものです。土砂状の堆積物が熱水からの沈殿物で膠着(くっついた)したものなので、一般的な石より柔らかく、熱水鉱床に多い石英質の脈石に比べてずっと柔らかいものです。石の柔らかさは、たがねと金槌による手作業で掘る時代には採掘効率に直結します。製錬の行程では石を細かく砕きますが、この工程でも石が柔らかいことが作業効率に直結します。
 柔らかい石は割れ目が発達しにくい特徴もあります。岩盤に力が加わっても、岩石自体が変形することで割れ目ができにくいのです。そのため採掘時に落盤する危険性が低く、このことも採掘効率に直結します。
 さらに、福石は銅をほとんど含まない鉱石でした。銀と銅が混在する鉱石の場合、16世紀の製錬技術でこれを分けることは困難でした。しかし、福石は16世紀に石見銀山に導入された「灰吹法」という技術で純度が高い銀を生産することができました。このことも16世紀の成功につながったと考えられます。すなわち、広く立体的に分布して柔らかく、銅を含まない福石の特徴のおかげで16世紀の石見銀山が世界に影響を及ぼすほどの銀山になり得たのです。

 石見銀山の歴史的な輝きの源は火山と言って過言ではなく、石見銀山に関わる港や山城などの地形もまた火山が直接、間接的に関わっています。
石見銀山の輝きの源は火山だった!?

 なお、石見銀山では銅の生産も行われました。その銅は、福石鉱床よりも相対的に低い位置にある鉱脈型の「永久鉱床」の鉱石から生産されたものです。永久鉱床は銅を中心に銀を産出した鉱床でした。

石見銀山の鉱床

仙ノ山の地質と鉱床の位置。(鹿野和彦ほか(2001)5万分の1地質図幅「温泉津及び江津」.地質調査総合センター刊をもとに加筆)

大久保間歩奥の空間

大久保間歩奥部の採掘跡。明治時代の測量図面では、「福石場」と記された地下空間が7か所、記名のない空間も含めると10ヶ所以上描かれています。その中で大きなものは長さ20メートル以上、幅10メートル以上、高さ10メートル以上もの広がりをもつ大空間です。画像の空間は測量図面には福石場として記されていないものの、福石場に相当する採掘空間です。

灰吹法

 石見銀山では国内の他鉱山に先駆けて1533年に製錬技術の「灰吹法」が導入されたと伝わります。灰吹法の原理は紀元前から使われており、石見銀山に導入されたものは銀鉱石を溶かす段階で鉛または鉛鉱石と加える「合わせ吹き」でした。
 石見銀山の銀鉱石には鉄やケイ素などが含まれており、溶かすだけでは銀はこれらと混ざったままです。そこに鉛を加えると、銀は鉛との合金になり、他の成分から引き離すことができます。含銀鉛(貴鉛)を灰の上で空気を送りながら溶かすと、鉛は酸化して灰の中に染み込み、銀が灰の上に残ります。

 灰吹法は朝鮮の技術者が伝えたとされます。仙ノ山の山頂に近い石銀地区では発掘調査によって灰吹きに使った鉄製の鍋が出土しており、朝鮮の鉱山でも同様の鍋が使われたことがわかっています。

 合わせ吹き以前の灰吹法は、銀を含む方鉛鉱(鉛鉱石)を用いた製錬技術でした。長時間かけて方鉛鉱を加熱して硫黄分を飛ばして得られた含銀鉛を灰の上で加熱する方法です。674年に朝廷に銀を献上した記録が残る長崎県の対馬銀山(対州銀山)は方鉛鉱が主力鉱物で、原始的な灰吹法によって銀を製錬したと考えられます。島根県の久喜銀山も方鉛鉱型の銀山で、石見銀山とほぼ同時期に銀と鉛を生産し、鉛は石見銀山に供給されたと推定されています。

 また、灰吹法は近現代の金銀の試験製錬でも使われている技術です。これは骨灰などで作った器(キューペル)に貴鉛を入れて加熱し金または銀を取り出すもので、工程としては精錬(製錬の最終工程で金属の純度を高める)にあたります。これらの技術と、石見銀山での灰吹法は言葉は同じですが区別して考える必要があります。

 石見銀山型の灰吹法で銀と銅を含む鉱石を製錬した場合は最終段階が銀銅合金となり、高純度の銀を得ることができません。融点の差を使って銀と銅を吹き分ける「南蛮吹」という技術が16世紀末から17世紀初頭に導入され、これによって銀銅鉱石から銀生産が可能になりました。

鉱床の形成について

鉱床とは、資源として役に立つ成分が「利用可能な量と濃度(質)」に濃縮していて、産業として採掘対象となる場所(部分)のことを言います。地表の岩石中には様々な物質が含まれていますが、利用可能な、すなわち取り出して収益になるだけの量が濃縮している鉱床の存在は限られます。

下の表は、地表(地殻)の岩石中に含まれる物質の割合の平均的な量です。鉄の場合、「そこら辺の石」でも平均6%の量が含まれています。もし、6%の銀を含む鉱石があれば、それは超高品位鉱ですが、鉄はこの量では産業には到底ならず、70%を超えるあたりでようやく「鉱石、鉱床」と呼べる水準です。銀の場合は、平均は0.000007%とごく少なく、0.02%を超える程度まで濃縮されれば鉱石として使える水準になります。

○元素の存在度と鉱石の品位

1位  酸素     46%
2位  ケイ素    27%
3位  アルミニウム 8%
4位  鉄      6%
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26位  銅  0.006% ※銅鉱石の平均的な品位 1〜2%
37位  鉛  0.0014%
60位  銀  0.000007% ※銀鉱石の平均的な品位 0.02〜0.05%
67位  金  0.0000003%

特定の物質が濃縮する過程にはいくつかあり、地下にある高温の熱水による熱水鉱床、マグマが固化する過程で特定の物質が集まるマグマ鉱床、風化と侵食、堆積の作用によってできる風化残留鉱床、堆積鉱床に大別できます。
石見銀山の場合は、熱水の作用によって火山体が鉱床になったもので、「熱水鉱床」に区分されます。

龍源寺間歩

永久鉱床を採掘した 龍源寺間歩。作業坑道と水抜き坑を兼ねた坑道で、入り口から直線的に約400m進んだ先に主要な鉱脈があります。

石見銀山の町並みと大地

 石見銀山遺跡には、大森(大森町)と温泉津(温泉津町)のふたつの歴史的な町並みが残ります。大森は石見銀山の鉱山町として成立し、江戸時代には代官所が置かれて近代に至るまで島根県央部(石東地区)の政治経済の中心地として栄えました。温泉津は石見銀山への物資供給の港町として栄え、温泉街でもある町です。両地区とも重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、現在も人が暮らしつつ古い町の様子を伝えています。この町は石材として凝灰岩が多く使われ、赤瓦の屋根が景観を特徴づけています。
 大田市西部には柔らかくて加工しやすい凝灰岩が広く分布しており、大森、温泉津ともその分布域にあたります。町並みの各所に採石の痕跡があり、町の中で石を調達して石垣や建物の土台などに使いながら、墓石や高度な加工を要する石製品には近隣の石材産地の良質な石を使ったことがわかります。当地一帯の凝灰岩は日本列島形成の地殻変動に関係する火山活動でできたもので、約1600万〜1500万年前のもので、グリーンタフに相当します。切石を用いた整然とした石垣や建物の土台石は町並みの景観を特徴づける存在で、当地一帯の地質あっての景観と言えます。
 近隣産地の石材としては、温泉津町福光の「福光石」、温泉津町温泉津の「大畑石」、久利町の(赤波石)があります。福光石は江戸時代から近代までの大森、温泉津とも墓石などに多く使われています。現在も生産されており、新たな建造物や修理にも使われます。大畑石は16世紀前後の石塔や墓石に使われ、赤波石は大森の城上神社などの石垣に使われています。

 また、鞆、沖泊、温泉津の港には、岩盤を直接加工して削り出した「はなぐり岩」と呼ばれる船舶繋留用の穴や柱があります。海岸部に柔らかく均質な凝灰岩が分布していたことで、このような施設を作ることが可能だったのです。温泉津町の海岸では小規模な石切場も各所に残ります。その状況からは、温泉津で米や炭などの荷を下ろした船が安定を保つための重り(バラスト)として石を使ったことが考えられます。

石見銀山遺跡で使われた石材

大森の町並み

大森の町並みでは、石垣や建物の基礎などに切り石が多く使われ、整然とした町並みの景観を作り出しています。

代官所前広場

代官所前広場に立つ西南役戦没者慰霊碑の土台となっている岩盤にも石を切り出した痕跡が残ります。

 大森、温泉津の町並みでは赤茶色の瓦が目立ちます。津和野城下町など石見地方の古い町並みではしばしばこの赤瓦の風景があり、大田市から益田市まで各地で作られてきた瓦です。この地域に断続的に分布する地層(都野津層)から陶土に適した粘土がとれることから窯業が盛んになり、瓦や「はんど」と呼ばれる水がめが主要な製品でした。赤瓦は石州瓦と呼ばれ、全国有数の瓦生産地です。
 都野津層はおおむね300〜150万年前に海岸近くで堆積した地層で、石見銀山に南接する水上町の地層(水上層と細分することもあります)は特に良質な粘土が採れ、主要な瓦生産地のひとつです。温泉津もかつては多くの登り窯があり、今も使われている「温泉津やきもの館」の窯は全国最大の登り窯です。地元産の粘土を使い、宍道湖の南岸に分布する「来待石」の粉を用いた釉薬をかけて高温で焼成することで、丈夫な赤い瓦が作られます。
 石見銀山の象徴的な風景のひとつである赤い瓦が地元産であることも当地が地下資源に恵まれた地域であることを物語っています。
 なお、大森の町並みで瓦屋根が多くなったのは、江戸時代に何度かの大火を経て延焼防止のために町屋でも瓦葺きを奨励したことが始まりです。

登り窯

水上町で平成の初め頃まで使われていた瓦用の登り窯。

銀山の港、鞆ケ浦と沖泊の地形

 石見銀山が世界の経済に大きな影響を及ぼしたのは16世紀でした。銀は16世紀前半は仁摩町馬路の鞆ケ浦、後半は温泉津町の沖泊から船で運び出され、赤間関から大坂へ運ばれたり、博多からは東南アジアの市場へと流通していきました。
 鞆ケ浦、沖泊のいずれもリアス海岸の狭く奥深い湾を利用した港です。仁摩から温泉津にかけてはリアス海岸になっており大小の湾が複雑に入り組んでいます。その中で鞆ケ浦と沖泊が銀を積み出す港として選ばれたことには、地形的な理由が考えられます。この2つの湾の共通点として、湾口が西へ向いていることがあげられます。当地の海岸は日本海に対して北面しているために多くの湾口が北向きで北-北西風による波が入りやすい形状です。その中で、鞆ケ浦は湾口の北側に鵜ノ島、沖泊には櫛島があって防波堤の役割を果たす地形となっており、波浪の影響を受けにくい形状です。

 鞆ケ浦、沖泊の湾は狭い割に水深があり、両岸は切り立った崖になっていることも共通します。両岸が切り立っていることは、当地に分布する凝灰岩は水流によって侵食されやすいことと、その割りに崩れにくいことから切り立った崖を作りやすい特性によります。氷期に海面が大きく低下した時に陸上で形成された中小の谷が海没して、細かく入り組み急崖のリアス海岸を形成しました。水深が深いことは、湾内の土砂堆積が進んでいないことによります。いずれの湾も谷奥から流れる水がごく少なく、波浪の影響も小さいことから土砂の供給量が少ないのです。
 リアス海岸が成立したこと自体、付近に大きな河川がないことが一因です。海岸近くに山が迫っているために集水範囲が狭くなっており、その山は石見銀山を生んだ大江高山火山の火山体です。火山は銀鉱床を作り出し、その銀が世界へ旅立つ出発点になった良港をもたらしてくれたのです。

鞆ケ浦"

大内氏が銀山を支配した16世紀前半に銀の積み出し港に使われた鞆ヶ浦。

沖泊

毛利氏が支配した16世紀後半の銀の積みだし港、沖泊

福光石石切場

鞆ケ浦(左)と沖泊(右)。湾の形状や規模が似ています。

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