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石見銀山の自然史

■石見銀山の歴史年表

【石見銀山の歴史以前の金属関連の動き】

弥生時代以前

自然金など元素鉱物を利用

弥生時代前半

鉄と銅(青銅)の利用が始まる(大陸から輸入?)

6〜7世紀

仏教の交流に伴い金属利用が活発化

675年

対馬で銀鉱山発見

691年

伊予から銀が朝廷へ献上

698年

各地から銅鉱、朱砂(水銀)、雄黄(ヒ素)が献上

700年

丹波から錫が献上

701年

大宝律令
国内に銅鉄を出せる処ありて官未だ探らざるは百姓私に探るを聴す。もし銅鉄を納めまたは庸調を折充するものには官採の地においても聴す。

701年

対馬から金の献納

708年〜

鉱山技術者を全国に派遣

708年

武蔵から自然銅の献上。和同開珎の鋳造

744年

大仏の鋳造開始

881年年

日本三代宝録に都茂の産銅記述

【石見銀山と国内外の動き】

1309(延慶2)年

大内氏による銀の採取
「石見銀山旧記」には、山口の大内弘幸が仙ノ山で銀を採ったと書かれています。

1338(暦応元)年

室町幕府の成立

1434(永享6)年

佐毘売山神社が銀山に勧請される
山口の大内氏が益田の比礼振山から、鉱山をまつる佐毘売山神社を勧請したと伝わります。

1492(明応元)年

コロンブスによる「アメリカ大陸発見」

1498(明応7)年

バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見

1515(永正12)年

大内義興が邇摩郡大国村八幡宮を建立する

1522(大永2)年

大内義興が巡村に訪れ、温泉津宝塔寺に止宿する

1527(大永7)年

筑前国(福岡)博多の商人、神屋寿禎が石見銀山を発見、開発する

1533(天文2)年

製錬技術の灰吹法が石見銀山に伝わる

1537(天文6)年

尼子詮久が石見銀山を攻略する

1539(天文8)年

大内義隆が尼子氏から石見銀山を奪回する

柳緒宗が罪に問われる
朝鮮人の柳緒宗は、鉛を使って銀を製錬する技術を倭人に伝授したとして、罪に問われました。朝鮮半島からの灰吹法の伝来を傍証する出来事です。

1540(天文9)年

尼子詮久が石見銀山を攻略する

1542(天文11)年

佐渡鶴子銀山(新潟)が発見される

生野銀山(兵庫)が発見される
石州の銀掘、下財、銀吹などによって、幾つもの間歩が開発されたと伝わります。

日本国王の使、安心東堂が朝鮮国へ銀8万両(約3200kg)を持ち込み、買い取るように要求する

仙ノ山の昆布山谷で大水がでて、1300余人が流される
石州の銀掘、下財、銀吹などによって、幾つもの間歩が開発されたと伝わります。

1543(天文12)年

ポルトガル船が種子島に漂着。鉄砲が伝来する

1545(天文14)年

南米のボリビアでポトシ銀山が発見される

1549(天文18)年

ポルトガル人の宣教師ザビエルが日本にキリスト教を伝える

1552(天文21)年

ザビエルが書簡で日本について「プラタレアス群島(=銀の島)」と記す

1556(弘治2)年

毛利元就が石見へ侵攻。銀山を領有する

メキシコで製錬法の一種、水銀アマルガム法が導入される

1558(永禄元)年

尼子晴久が銀山を領有する

1559(永禄2)年

毛利元就が正親町天皇即位式に際し、石見銀2000貫目(7500kg)を献上する

1562(永禄5)年

毛利元就が銀山を領有する

1570(元亀元)年

毛利元就が温泉津に鵜丸城を築くよう命じる

1587(天正15)年

細川幽斎が大田市五十猛町大浦から仁万、銀山を経由して温泉津恵コウ寺に止宿する

1590(天正18)年

豊臣秀吉が全国を統一する

1594(文禄3)年

豊臣秀吉は長崎に入港した明船から鉛硝を購入するため、蔵米12000石を石見銀山に送り、代わりに銀を長崎へ送らせる

1595(文禄4)年

佐渡鶴子銀山の本口間歩が石州忠左右衛門、弟の忠四郎、石田忠兵衛によって開かれる

1600(慶長5)年

関ヶ原の戦い

徳川家康は銀山周辺の7ヶ村に禁制を発し、直轄化を図る

1601(慶長6)年

大久保長安が初代銀山奉行となる。銀山附役人の吉岡隼人が銀山調査のため、伊豆(神奈川県)の湯ヶ島へ派遣される。

1602(慶長7)年

安原伝兵衛が釜屋間歩を開発し、1年間に3600貫(約14トン)の運上銀を徳川家康に上納する

石見国内の検地が始まる

1603(慶長8)年

江戸幕府の成立

安原伝兵衛は将軍家康に面会し、「備中」の称号と辻ヶ花染丁字文胴服を拝領する。

石見銀山附役人宗岡弥右衛門が佐渡金山へ派遣される。

1605(慶長10)年

邇摩郡小浜村、温泉津村の検地が行われる。

銀山と温泉津の地銭免除の高札が建てられる。

1607(慶長12)年

大久保長安から銀山役人の長野勘右衛門に対し、「水かねなかし」(水銀精錬)の様子を見回るよう指事する。

1614(慶長19)年

竹村丹後守による検地が始まる(寅のお縄)

大坂の陣に、石見の銀掘300人が大坂城の堀水抜きのために動員される。

1618(元和4)年

石見銀山役人の静間甚左衛門、野田三郎兵衛が佐渡役人となる。

1624(寛永元)年

1200貫目余りの諸運上灰吹銀を上納するという。

1637(寛永15)年

銀山山役が大幅に減少する(銀山の衰退)。銀山衰退により、小浜村「馬札役」が減額となる。

1639(寛永16)年

ポルトガル船の来航禁止(鎖国完成)

1641(寛永18)年

奉行すぎた九郎兵衛の時、銀山を取り囲む木柵の代わりに松を植えさせる(垣松という)。

1672(寛文13)年

温泉津が西回り航路の寄港地となる。

1673(延宝元)年

灰吹銀高の記載が始まる(灰吹銀と丁銀引替制の実施。

1675(延宝3)年

拓殖伝兵衛以後、奉行から代官による支配となる。

1681〜1684(天和年中)年

銀山領の江戸・大坂廻米始まる。

1693(元禄6)年

柑子谷元泉山(仁摩町大国)の掘削が開始される。

1697(元禄10)年

銀山領において山役が設けられる。

1698(元禄11)年

幕府が諸国の金銀銅山の試掘を奨励。

1714(正徳14)年

銀山総間歩数は127口

1715(正徳5)年

休谷に新切山が掘削される。

1716(享保元)年

徳川吉宗が将軍となる(享保の改革が始まる)。

1731(享保16)年

“芋代官”井戸平左衛門が大森代官となる。

1732(享保17)年

享保の大飢饉

1747(延享4)年

温泉津町大火、本屋30軒、借家58軒、土蔵9棟が消失。

1749(寛延2)年

半田銀山(福島県)へ石見銀山附役人が派遣される。

1765(明和2)年

銀山領の長崎廻米始まる。

1776(安永5)年

永久稼所の始まり。

1784(天明4)年

足尾銅山(栃木県)へ石見銀山附役人が派遣される。

1790(寛政2)年

銀山役人7名が罷免される。

1799(寛政11)年

大久保山が五ケ山となる。

1800(寛政12)年

「寛政の大火」によって大森町3分の2が消失。

1816(文化13)年

銀山附役人、大賀覚兵衛が「石見銀山要集」(石見銀山旧記)を著す。

1856(文政3)年

通気管図面及び「済生卑言」など鉱山病対策に関する諸書類を但州、羽州、奥州、野州等の諸鉱山へ送る。

1868(明治元)年

明治維新  大森県が置かれる。

1887(明治20)年

藤田組(現DOWAホールディングス)による経営の開始。

1895(明治28)年

清水谷製錬所の完成。

1923(大正12)年

休山となる。

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