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石見銀山の自然史

■石見銀山輝く(1)

石見銀山輝く〜その時、世界が動いた

 16世紀。富を求める西欧諸国の船が大海原を行き来した大航海時代。この時代に日本でひとつの銀鉱山が開発された。
その名は石見銀山。

 「石見銀山旧記」によると、石見銀山の本格的な開発は、1526年に博多商人・神屋寿禎が日本海沖を船で航行中に銀峯山(仙ノ山)に光をみたことがきっかけではじまったと伝わる。
灰吹き法という精錬法の導入によって、石見銀山の産銀量は飛躍的に増加し、16世紀半ばには銀は日本の輸出品の主力になった。
当時、日本銀は世界の産銀量の3分の1を占め、その主力が石見銀だった。多量の日本銀は東アジアの市場を席巻し、西欧諸国からも注目されるところとなった。数多の交易船が日本銀をめざして東アジアを訪れるようになり、ヨーロッパとアジアを結ぶ交易ルートが確立された。文化と物流の世界的な流れが始まったのである。

 日本国内においても、石見銀山は大いに注目された。毛利氏や尼子氏など近隣の戦国大名は、石見銀山を巡って激しい争奪戦を繰り広げた。
そして1600年、関ヶ原の戦に勝利した徳川家康は間髪を入れず石見銀山を直轄領とした。

 17世紀初頭、石見銀山の産銀量はピークを迎えた。その量は年間67トンにも達したと言われる。
しかし、盛期は短かったた。17世紀半ばにさしかかる頃には産銀量は急激に減少。明治時代には銅が主力の鉱山として稼働し、大正時代に事実上の閉山を迎えた。

 現在、石見銀山の地はその大部分が木々に覆われている。その地中には、盛時の面影を伝える坑道や生産に関わる遺跡が埋もれている。早い時期に鉱山として衰退したことで、結果的に貴重な遺跡の多くが残された。

 石見銀山の経営方式には、現代日本の産業構造の原型があると言われる。石見銀山は、工業大国日本の原点とも言うべき貴重な産業遺産だ。

 石見銀山は歴史の中でまばゆいばかりの輝きを放った。その輝きは世界を大きく動がした。そして今、世界遺産として新しい時代を迎えようとしている。 

(世界遺産登録前の2007年春に執筆。)


石見銀山遺跡の範囲

石見銀山遺跡の範囲

石見銀山遺跡は、鉱山としての主体部と、街道、港、城跡から構成される。主体部には、採掘跡と生産関連遺構などがあり、江戸時代には周囲を柵で囲まれていたことから「柵の内」と呼ばれた。


1.石見銀山の概要

(1)立地と地質概要

 石見銀山は、島根県の中央部にあたる大田市の西部に位置する。
鉱山の中心は仙ノ山(標高537メートル)を中心とする、東西約2km、南北約1kmの範囲で、ここに600カ所以上以上の採掘跡が確認されている。また、大部分が森林に覆われた山中には製錬に関する遺構や鉱山に関わった人々の生活跡が遺跡として残存している。直接鉱山に関わる遺跡のほか、銀や物資を運搬した街道と港湾、城跡が良好に残り、これらを含めて石見銀山遺跡と呼ばれる。その一角、大田市大森町には江戸時代後期の区割りを残す町並みが往時の面影を伝えている。

石見銀山の中心である仙ノ山は、大江高山(標高808メートル)を最高峰とする山塊の一角にあり、その周囲は低平な丘陵地が広がる。丘陵地の北側は日本海に接し、入り組んだリアス式海岸をなしている。南側には次第に高度を増し、中国山地脊梁部に続く。

 石見銀山一帯の山塊は、前期更新世(170万〜70万年前)に活動した火山群で大江高山火山群と呼ばれる。この火山群は、安山岩〜デイサイト質の溶岩によって形成された溶岩円頂丘群で、急峻な山腹斜面と比較的平坦な山頂部を特徴とする。その中にあって、仙ノ山は比較的なだらかな形状をしている。

 大江高山火山群周辺の丘陵地は、尾根の高度が一定の準平原状の地形をなし、石見高原と呼ばれる地形面である。丘陵地には、後期鮮新世から前期更新世(およそ300万〜100万年前頃)の堆積岩類からなる都野津層群が断続的に分布している。都野津層群からは陶土が採掘され、瓦を主製品とする石見焼の原料として利用されている。大江高山火山群の噴出物と都野津層群は、全体としては都野津層群が下位にあるが、一部で互いに重なりあう指交関係にあるとされている。
仙ノ山の地下では、山体を構成するデイサイト質噴出物の下位に都野津層群の堆積岩類が分布している。

 都野津層群の下位には、前期中新世(2000万年前頃)の久利層が分布している。久利層は火山岩類と堆積岩類からなり、日本海形成期にその海底で形成された、「グリーンタフ層」のグループに含まれるものである。

 大田市仁摩町から温泉津町にかけての海岸は、複雑に入り組んだ湾が連続するリアス式海岸である。
その一角 仁摩町の「鞆ヶ浦」と温泉津町の「沖泊」のふたつの湾は、16世紀に銀鉱石や精錬した銀の積出港として使われた。
これらの湾は、間口に比して奥行きが深く、ほぼ真西に向かって開き、北からの波浪が湾奥に入りにくい地形である。両岸は急崖が迫っている。尾根の上には港を守った城があり、防御のしやすさも、これらの湾が港として選ばれた条件と思われる。

 リアス式海岸は、氷期に陸上で形成された谷が、後氷期の海面上昇で海中に没してできた地形である。
仁摩町から温泉津町の海岸には凝灰岩が分布している。当地に分布する凝灰岩は流水によって浸食されやすい岩石であるために深いV字谷が形成され、その後の海面上昇で入り組んだ地形が形成された。
また、近くに多量の土砂を供給する河川がないため、三角州や砂州の発達が貧弱なことで、入り組んだ地形がそのまま維持された。このような自然史的背景によって、天然の港湾が成立した。

【溶岩円頂丘】安山岩〜デイサイト質の粘りけが強い溶岩の噴出で形成される火山地形。釣り鐘型火山とも呼ばれる。

【指交】異なる地層が一部で互いに重なり合っていることをいう。同時期に異なる堆積条件で形成された地層の場合に見られる。

【グリーンタフ】海底火山の噴出で形成された火砕岩で、緑色を呈する。日本海が形成された中新世の海成層に特徴的にみられる。

【氷期と間氷期】地球は過去数百万年間に寒冷な気候の氷期と、温暖な間氷期を繰り返してきたことが知られている。そのサイクルは十数万年である。最終氷期は1万年に終わり、現在は間氷期にあたる。

【凝灰岩】火山灰が固結してできた岩石。仁摩から温泉津にかけては比較的軟質な凝灰岩が分布している。


石見銀山周辺の地質略図

石見銀山周辺の地質略図

石見銀山の本体仙ノ山は、グリーンタフのグループに含まれる新第三紀中新世の地層と、大江高山火山群噴出物の境界部にある。山頂付近の破線は、鉱床の範囲を示す。
図は新編島根県地質図編集委員会編(1997)を簡略化。


鞆ヶ浦

鞆ヶ浦

銀山開発の初期には、鞆ヶ浦から博多へ向けて鉱石が運ばれた。湾の入口の北側に鵜の島があり、北からの波浪を防ぐ防波堤の役割を果たしている。
写真は鵜の島から湾奥をみた様子。奥に見える山は馬路の高山。


沖泊

沖泊

沖泊は、毛利氏が支配した時代に銀の搬出港として使われた。
湾は幅が狭く、少し屈曲しているため、湾奥まで波浪の影響が及びにくい。湾の両岸には、多数のはなぐり岩(係留柱)が残る。

(2)歴史の概要

 石見銀山の発見については、江戸時代に書かれた「石見銀山旧記」に、花園院の時代(1308〜1317年)に周防国(山口県)の大内弘幸氏が妙見神の託宣によって仙ノ山で銀が採れることを知ったと記されている。
当時は採掘や精練の技術がなく、地表に露出した自然銀の採取だけで終わったと推定されている。その後、博多の商人・神屋寿禎が鷺銅山(出雲市大社町)に銅の買い付けに向かう途中、海上から仙ノ山を発見、1526年に技術者を伴って再訪し鉱石を九州へ持ち帰ったという。

 神屋寿禎は大内氏の守護のもとで石見銀山の開発を行った。開発当初は、採掘した鉱石をそのまま博多に運んでいたが、寿禎は1533年に「灰吹き法」という精錬技術を導入し、石見銀山で精錬が行われるようになった。
この技術の習熟と労働集約型の経営方式によって石見銀山の産銀量は飛躍的に向上した。灰吹き法は石見銀山から生野銀山、佐渡金山などにも伝えられ、日本は一躍、世界屈指の産銀国となった。その銀が東アジアの市場へと流れ、アジアとヨーロッパの交易を促す原動力となった。その中で、石見銀は日本銀の代名詞ともいえる存在で、ヨーロッパでは良質の銀を指して「ソーマ銀」という言葉が使われていた。これは、当時の石見銀山の地名「佐摩(さま)村」で産した「佐摩銀」がなまった言葉だといわれている。

 多量の銀を産出し、巨額の富をもたらす石見銀山は、勢力争いを繰り広げていた戦国大名にとって羨望の的であった。
大内氏の衰退とともに、近隣の大名による争奪戦が始まった。地元川本の小笠原氏の支配と大内氏の奪還、出雲の尼子氏の略奪の後、1551年に大内氏が滅びると毛利氏(広島)と尼子氏による争奪戦が激しさを極めた。1562年、ついに毛利氏は石見を平定し、関ヶ原の戦い(1600年)まで石見銀山と、銀山への物流拠点であった温泉津を直轄支配した。

 1600年に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、直ちに石見銀山を直轄地(天領)として支配した。そのことは、家康が石見銀山の経済価値を大きく評価していたことの表れといえる。

 17世紀前半、石見銀山の産銀量はピークを迎えた。この頃、徳川家に納められた運上銀は年間13.5トン、年間の総生産量は67.5トンに達したと試算されている。しかし、ピークは長くは続かず、17世紀中頃には産銀量は減少に転じ、江戸時代の後半には年間数100キログラムを産出するに過ぎなくなっていた。1872年には浜田地震によって多くの坑道が使用できなくなり、経営が困難になった。1887年には大阪の藤田組が銅鉱山として再開発するが、1923年に休山。その後幾度か再開発を目指して調査が行われ、第二次世界大戦中の1943年には事業化されるが、水害等により本格的な開発に至らないまま閉山、現在に至っている。

【妙見神】北辰星と呼ばれた北極星や北斗七星を信仰する妙見信仰の神。

【運上銀】税金として幕府におさめた銀。運上銀は総生産量の5分の1から3分の1と推定される。67.5トンという総生産量は、運上銀13.5トンを5倍した推定値。

【浜田地震】浜田市沖の日本海を震源とする地震で、マグニチュード7.1と推定されている。浜田市を中心に、島根県の広い範囲で被害があった。


石見銀山に関する歴史年表

石見銀山に関する歴史年表


沖から見た仙ノ山

沖から見た仙ノ山

大田市仁摩町馬路の沖から仙ノ山の全容を見ることができる。中央のなだらかな峰が仙ノ山。右手のこんもりした山は高山。江戸時代にかかれた銀山旧記は、神屋寿禎が船上から仙ノ山に光をみて銀山を発見したと伝える。

(3)世界を動かした石見銀

大航海時代は、15世紀末にコロンブスやバスコ・ダ・ガマらがヨーロッパからアメリカやアジアへ航海したことがきっかけとなって幕が開けた。香辛料や金銀などの富を求めてヨーロッパ人たちが先を争うようにアジア大陸やアメリカ大陸へ進出し、人と物が世界的に動くようになった時代である。

 神屋寿禎による石見銀山の開発期は、大航海時代の黎明期にあたる。石見銀山で産出した銀は、日本の重要な輸出品として中国へ流出した。この銀により東アジアの貿易市場は大いに活性化し、スペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国からも石見銀山の存在は注目されるところとなった。それは、16世紀にヨーロッパで作られた地図において、石見の位置に「銀鉱山」「銀王国」などの記載がみられることからもうかがい知ることができる。

 石見銀を中心とする日本銀を求めて、日本列島周辺にヨーロッパ人が訪れるようになり、それによって、様々な西洋文化が日本に伝えられた。その例として1543年の鉄砲伝来や1549年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられたことが挙げられる。すなわち、石見銀山の開発によって始まった銀の量産が、東アジアの市場に活力を与えた。その市場へそこへヨーロッパ諸国が参画することでヨーロッパとアジアの交易の確立という世界的な動きへと発展した。このことは日本がヨーロッパの文明に接する機会をもたらし、日本人の世界観を大きく変えることにもつながったともいえる。

【銀の輸出】 石見銀山の開発によって、日本は銀の輸入国から輸出国に転じた。日本は銀を輸出し、絹糸や陶磁器などを得た。

【コロンブス】 15世紀中頃〜1506。 1492年に中米のサンサルバドル島に到達。アメリカ大陸の歴史上の発見者とされている。

【バスコ・ダ・ガマ】 15世紀後半〜1524。 1497年にポルトガルを出航し、喜望峰を回って1498年にインドに到達。インド航路の開拓者。


銀の道とサツマイモ

 サツマイモの日本への伝来は、銀をめぐる人の動きと関わりが深い。

 大航海時代、ヨーロッパの交易船は、金銀を多量に産出する南米をめざした。長い船旅は、船員たちにビタミン不足による壊血病を招き、航海を続けるためにはその対策が急がれた。そこで目をつけられたのが南米原産のサツマイモだった。ビタミンに富み、日持ちがすることから航海用の食料として交易船に積み込まれ、壊血病対策に効果を発揮した。

 日本銀を求めてアジアを訪れるようになったヨーロッパの交易船は、中国にサツマイモを伝えた。日本へは、中国経由で1605年に琉球(沖縄県)、1607年に薩摩(鹿児島県)に伝わった。

 1732年の享保の飢饉では、石見銀山領の住民も飢えに苦しんでいた。銀山領の19代目代官・井戸平左衛門は九州では食糧難の解消にサツマイモが大いに役立っていることを知り、これを薩摩藩から導入した。そして、イモは石見銀山周辺に植えられ、住民たちを飢餓から救った。南米から銀とともに旅立ったサツマイモは地球を半周して、石見銀山にたどり着き、この地の人々を助けたのである。

サツマイモの日本への伝播ルート

サツマイモの日本への伝播ルート

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