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石見銀山の自然史

ミュージアムライブラリー

書庫には、石見銀山の解説資料等を掲載しています。

■石見銀山の銀鉱床 〜仙ノ山で銀が採れた理由〜(2)

鉱床のタイプ

石見銀山の鉱床は、大江高山火山群の一角、仙ノ山火山の活動に伴って形成されました。高温の地下水(=熱水)の循環によって鉱床ができたもので、タイプ的には「熱水性鉱床」に分類されます。


銀が採掘された鉱床は2つあります。ひとつは、仙ノ山山頂から東側山腹にかけての「福石鉱床」、もうひとつは仙ノ山地下深部の「永久鉱床」です。平時一般公開されている龍源寺間歩は永久鉱床を掘った坑道(間歩)です。


いずれの鉱床も、熱水の活動で形成されましたが、型は少し異なります。
福石鉱床は、母岩の岩石そのものに銀を溶かした熱水(鉱液)が染み込んで鉱石に変化した「福石」を産する鉱床です。鉱脈も存在しますが、その幅はせいぜい数cmと細く、一般的にはこの規模の鉱脈では採掘の対象になりません。ところが、母岩自体が鉱石に変化しているため、鉱脈以外の部分も採掘対象となることが、福石鉱床の大きな特徴です。
仙ノ山山頂付近の岩石は、火山灰と火山礫が降り積もってできた火砕岩で、がさがさですき間だらけです。
そのすき間に銀を含む鉱物が含まれており、このような型の鉱床は「鉱染型鉱床」と呼ばれます。鉱脈は幅数センチまでのごく細いものしかありませんが、その周辺の岩石中にも銀が染み込んでいます。質がいい部分は大きく掘り広げられており、大久保間歩や釜屋間歩群の奥には「福石場」と呼ばれた大空間が存在します。


福石場は鉱石を掘り出した跡で、大きなものは長さ20メートル以上、幅5メートル以上、高さ10メートル以上の広がりを持っています。ちなみに、福石とは石見銀山のローカルな呼び名で、岩石名ではありません。福をもたらす石という意味で付けられた名前かもしれません。

大久保間歩奥の空間

大久保間歩奥部の採掘跡。この空間もかなり広いが、福石場の大きなものはさらに規模が大きい。


福石鉱床の岩石は比較的柔らかく、掘りやすいことが特徴です。
石見銀山で16世紀に本格的な開発が始まると間もなく銀の量産に成功した理由には、この掘りやすい鉱石の存在を見逃すことはできません。また、含まれる鉱物の種類は、自然銀のほか、銀鉱物の輝銀鉱、方鉛鉱、菱鉄鉱、マンガン鉱などで、比較的簡単な製錬工程で銀をとり出すことができる鉱物構成でした。
1533年に伝わったとされる灰吹法の導入からそれほど時間がかからずに高純度の銀を生産することができたのは、製錬しやすい鉱石だったことも一因といえるでしょう。


一方、永久鉱床は「鉱脈型鉱床」に分類されます。鉱脈の幅は最大で30〜50センチ程度でした。国内の金銀銅鉱脈で大きなものは幅数メートルに達することに比べると小さな部類です。
産出する鉱物は、輝銀鉱、自然銀のほか、閃亜鉛鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、菱鉄鉱、赤鉄鉱などを伴います。福石鉱床が銀を主体だったことに対し、永久鉱床は銅を主体として銀を伴う鉱床でした。


灰吹法の技術では、銀と銅を含む鉱石から銀を取り出すことはできません。融点の差を使って銀と銅を吹き分ける「南蛮吹」という技術が16世紀末から17世紀初頭に導入され、これによって銀銅鉱石から銀生産が可能になりました。


永久鉱床の開発は、南蛮吹導入以前から行われており、15世紀に遡る可能性があります。
その段階で、銀、銅のいずれが採掘対象だったかということは、石見銀山の開発史の謎です。
銀を主体とする鉱物を肉眼で選鉱して銀を製錬することも可能であり、永久鉱床は開発初期から銀を主に生産していた可能性があります。
また、銅鉱山として開発された可能性、選鉱によって銀と銅の両方を産出した可能性もあります。将来的に、発掘調査によって証拠が得られることが期待されます。

龍源寺間歩

永久鉱床を採掘した 龍源寺間歩。作業坑道と水抜き坑を兼ねた坑道で、入り口から直線的に約400m進んだ先に主要な鉱脈がある。

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