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石見銀山の自然史

■石見銀山旧記が伝える発見伝承 〜旧記の概要〜

石見国銀山開発のいきさつは次のようなものである。
建治2(1276)年に日本を訪れた蒙古の使者を、幕府は鎌倉で殺した。その5年後、蒙古の軍勢24万人が4千艘の船に乗り九州に攻め寄った。
帝は大変驚き、急いで官軍を繰り出して九州で蒙古の軍勢を防ごうとした。しかし、蒙古の軍勢は強く、日本の軍に打ち勝ち都へ攻め寄ろうとした。
その時、我が国の神の力によって大波が起こり、蒙古の船はことごとく壊れて、我が国は無事であった。


その後、花園天皇の世、将軍は守郡、北条貞時が執権の時、幕府に恨みがあった周防の大内弘幸は、謀反を起こして蒙古に援軍を頼んだ。蒙古は鎌倉幕府への昔の恨みを晴らそうと、軍兵2万騎が数千艘に分乗して石州に上陸した。
時貞はこれを恐れ、和睦を請うたが弘幸が聞き入れなかったため帝に相談した。帝は陽録門院(陽禄門院)を弘幸の子、弘世に嫁がせた上、石州を領地として渡した。


弘幸は和解に応じ、蒙古軍を帰そうとしたが、幕府に恨みがある蒙古軍は戦を続けようとして帰らなかった。困った弘幸は、大内家代々の守護神である防州氷上山に祭る北辰星に祈り託宣を受けた。託宣は、石州の仙山は多くの銀を出す。この銀を採って百済の軍兵に与えてなだめ帰らせよ、その山は銀峯山ともいう、というものだった。


弘幸が神のお告げにしたがって銀峯山に登ったところ、山の下から上まで白く輝き、積雪した冬山の雪を踏むかのようであった。弘幸は多量の粋銀を得て百済の軍兵に与えたところ、蒙古は怒りを鎮め、喜んで国へ帰った。
それから銀峯山は引き続いて銀を産し、大いに繁栄した。隣国の有力者達がこれを奪おうと狙うので、山吹山に城を築いて銀山を守った。


その後、建武延元の大乱に足利直冬が石見国を攻めて48城を攻め落とし、銀山を押領し、ことごとく銀を採り尽くした。その時までは地を掘って間歩を開けることを知らなかったので、地表にある鉱脈を採り尽くして銀山は衰退してしまった。


大永年間、大内義興が石見国を領有している時、筑前の博多に神谷寿亭(神谷寿禎)という人物がいた。彼は雲州(出雲)へ向かう途中、船で石見の海を航海し、暗闇に南方の山を眺めるとまばゆいばかりの光があった。


南の山に赤く明るい光があるが、あれは何か、と寿亭は船子に聞いた。
船子はこう答えた。
これは石見の銀峯山と語り継がれる山である。昔、あの山では銀が採れたが今は絶えてしまった。清水寺という寺に観音像だけが祭られ、この山を鎮護していて、時々姿を現す。この山が再び銀を出す吉兆なのか、今夕の霊光はいつもの10倍もの輝きである。あなたさまの信心が観音様に通じたのであろう。


寿亭は大変喜び、帆を巻いてとも綱を繋いで、温泉津湊へ入港した。そして銀峯山に登って観音へ参り、また船に乗って雲州の鷺浦に入港した。 その浦には銅山があり、寿亭は赤金(銅)の取引のために銅山主の三島清右衛門<清右衛門は雲州田儀の住人である>に会い、石見の銀峯山の霊光のことを話した。
これを聞いた三島はこう言った。それは白銀ではないだろうか。200年前、周防の国主大内弘幸が北辰の託宣でたくさんの銀を採ったことがあるとの言い伝えがある。その山へ登って銀であるかを確かめ、また霊光を拝みたいものである。


そして大永6年丙戌(1526年)*注3月20日、神谷と三島の2人は、吉田与三右衛門、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門の3人の穿通子(ほりこ)を連れて銀峯山の谷々で石を穿ち、地を掘って大いに銀を採った。寿亭は掘った銀を持って九州へ帰った。
それからは、石見国馬路村の古龍と鞆岩の浦には売船が多く訪れるようになり、銀鉱石を買い取った。寿亭の家は大きな財をなし、繁栄した。銀山にも諸国から多くの人が集まって、花の都のようであった。


****以下、略****


注)旧記にはこの年が書かれているが、最近の見解では神屋寿禎が石見を訪れた年を大永7年(1527年)とすることが主流です。


○参考資料:島根県教育委員会(2003)石見銀山史料解題 銀山旧記.56p.

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