石見銀山オープン・エア・ミュージアム

石見銀山本谷地区にある金生坑内部。本谷地区の下底部にあり、明治時代には鉱石を清水谷製錬所選鉱場へ運ぶためのトロッコ軌道が通されていた。

石見銀山遺跡とその文化的景観について

「石見銀山遺跡とその文化的景観」は、16世紀中頃から17世紀初頭に銀を多産した石見銀山を中心に、関連する鉱山街、港、街道、城、そして現代に息づく文化を一体として、世界遺産に登録されています。

石見銀山遺跡について

石見銀山遺跡、大森町一帯の空撮画像

石見銀山遺跡の範囲

石見銀山遺跡は、鉱山の中心、仙ノ山と鉱山街の大森町、開発初期の銀の積み出し港だった鞆ヶ浦(大田市仁摩町)、銀積み出しと物流拠点だった温泉津町、これらをつなぐ街道、防御のための城跡から構成されています。

明治時代に銀を精錬する目的で建てられた清水谷製錬所。しかし、1年半で操業を中止した。

石見銀山の歴史

「石見銀山旧記」の記載によると、石見銀山の本格的な開発は、1526年に博多の商人、神屋寿禎によって始まったとされます。製錬技術「灰吹法」を導入したことで銀の量産に成功し、一時は世界で1、2を争う生産量をほこりました。

→石見銀山の歴史年表

銀生産の主力坑道のひとつ、大久保間歩の坑内。巨大な採掘空間が残り、石見銀山を象徴する坑道

遺跡・史跡などの紹介

石見銀山遺跡内の遺跡、史跡、おもな建造物、地形などの基本情報を紹介します。

→石見銀山関連の遺跡・史跡等リスト

石見銀山の銀生産量のピーク(17世紀初頭)に開発された釜屋間歩一体。最盛期の面影を伝える遺構が残る

鉱山としての特徴

精錬技術「灰吹法」の導入によって、一躍世界的な銀鉱山となった背景には、石見銀山の鉱山としての特徴が深く関係していました。

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世界遺産について

石見銀山協働会議が作成した石見銀山遺跡のロゴマーク

世界遺産とは

世界遺産は、「世界遺産条約(世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づいて定められています。国や人種をとわず、人類全体にとって価値がある遺産を、損傷、破壊等の脅威から保護し、保存することを目指すものです。

佐毘売山神社の清掃風景。石見銀山遺跡の世界遺産登録に先立ち、住民は長年にわたって史跡の保護に取り組んできた。

世界遺産登録へのあゆみ

昭和32年に大森町民による「大森文化財保存会」の設立以来、石見銀山遺跡は住民の手で守られてきた歴史があります。その後、国史跡指定、大森地区・銀山地区の重要伝統的建造物群保存地区選定を経て、世界遺産へのあゆみが始まりました。

→世界遺産登録までの年表

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