1.はじめに
石見銀山から産出した銀の積出港として使われた沖泊と鞆ヶ浦は、いずれも両岸に急崖が迫った幅の狭い湾である。この地形が波浪波浪の影響を受けにくい、天然の港の役割を果たしたとともに、範囲が狭小であることが、外部からの人的侵入に備える上でも都合が良かったことが想像できる。本章では、この地の地形・地質と、その成り立ちについて述べる。
2.地形・地質の概要と地史
(1)周辺の海岸地形
仁摩から温泉津にかけては、海岸線が複雑に入り組んだリアス式海岸で、海浜の発達は貧弱である(第1図、第2図)。リアス式海岸は、陸上で形成された谷の末端が、海面の相対的な上昇によって海中に没したことで出来た沈水地形である。当地では、海岸は比高が数10mに達する急崖を成し、その背後には勾配5%未満のなだらかな低丘陵が続いている。そのピークは高度が良くそろっており、少し離れてみると平原に見えるほど平坦な地形面をなしていることがわかる(写真1)。この地形面の一部にあたるものが沖泊・鞆ヶ浦の湾に面した尾根の頂部にみられる平坦地で、ここに港を守る城が置かれていた(写真2)。
第1図 温泉津沖泊の地形図
第2図 鞆ケ浦の地形図
リアス式海岸の形成は、後で述べるように地史的背景が主因であるが、多量の土砂を供給する河川の影響を受けにくいことも重要な要素である。すなわち、土砂供給量が多い河川の河口近くには沖積平野が発達しやすく、リアス式海岸は成り立ちにくい。当地付近は、西方約10kmに中国地方随一の流域面積、流量を持つ江の川(注1)がある。しかし、この河川はその規模に対して沖積平野の発達がきわめて貧弱で、河口へ供給された土砂の大部分は沖へ運ばれているとみられる。また、江の川河口から当地までの間には、黒松海岸などの湾入部があり、これを超えて土砂が供給されるということは考えにくい。したがって、当地には江の川の土砂の影響は及んでいないといえる。
(注1)江の川は、広島県芸北町を源流とし、中国山地を横断して日本海に注ぐ河川である。
(2)周辺の地質分布
当地付近の基盤をなしているのは、新第三紀中新世(2600万〜650万年前)の地層(以下、中新統)である。中新世は日本海が形成された時代で、日本列島の地史の中で重要な位置を占める。日本海に面した島根県には、海岸部を中心にこの時代に形成された地層が広く分布している。島根県に分布する中新統は、日本海形成の過程において、海底および海岸部で形成された火山岩や火砕岩(注 2)、堆積岩が主体である。海底で堆積した火砕岩はしばしば緑色を帯びることが特徴で、このような岩石が分布する島根県以北の日本海岸地域は「グリーンタフ(緑色凝灰岩)地域」と呼ばれ、各種金属資源を含む黒鉱鉱床に代表されるように地下資源が豊富なことで知られている。温泉津町福光で現在も採掘されている「福光石」は軽石質の緑色凝灰岩で、当地や大森の建築物、街道の整備などに広く用いられている。
沖泊・鞆ヶ浦の湾に面した一帯には、中新統の流紋岩質の凝灰岩〜火山礫凝灰岩が分布している(写真3〜4)。ここに分布する凝灰岩は、海底火山の噴火にに伴う水底火砕流や海底における土石流的な流れによって堆積したものである(注3)。岩相をみると、しばしば明瞭な斜交層理が発達し、地層境界では下位の堆積物がブロック状に取り込まれたり、泥岩脈となって貫入している様子が観察できる(写真5)。岩質は柔らかく、加工も容易である。その分浸食に弱く、岩盤を削りだして作った係船柱(鼻グリ岩)の中には波打ち際の浸食によって半分位が失われたものもみられる。
中新統の上位には、新第三紀鮮新世(650万〜200万年前)末から第四紀更新世(200万〜1万年前)にかけて、海岸付近で堆積した地層と、同時期に活動した大江高山火山の噴出物が分布している。前者は、「都野津層(または都野津層)」と呼ばれ、海成層と陸成層が互層している。陸成の粘土層は古くから陶土として利用されており、当地付近から江津市にかけては瓦を主力とする窯業が盛んである。大江高山火山は、大江高山を最高峰とする溶岩円頂丘(注4)からなり、当地に近い馬路高山、城上山、堂床山もその一部である(写真6)。また、銀鉱床を胚胎する仙山も大江高山火山の溶岩円頂丘のひとつで、この火山群の活動によって石見銀山の鉱床(福石鉱床、永久鉱床)が作られた。
(注2)火砕岩は、火山灰や火山礫が堆積して出来た岩石のことで、粒子の大きさによって細かい方から順に、凝灰岩、火山礫凝灰岩、凝灰角礫岩、火山角礫岩と区分される。
(注3)鹿野和彦・宝田晋治・牧本 博・土谷信之・豊 遥秋(2001)温泉津及び江津地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所.
(注4)溶岩円頂丘は、粘り気が強い溶岩が噴出して出来たこんもりとした山体で、山腹が急傾斜で、山頂がやや緩やかな形が特徴。
(3)地形発達の歴史
複雑に入り組んだ海岸線が形成されるまでの地史は、次のようだったと考えられる。 鮮新世末から前期更新世の頃、当地付近は海岸付近の環境にあり、低丘陵の原型となる広い平坦面が形成された。これは、当時の海面高度に対応して、岩盤が突出した部分は浸食され、相対的に低い部分には堆積が進んだ結果で、都野津層が堆積した時代に出来たことから「都野津面」と呼ばれる地形面である。その後、地盤の隆起や、氷期には海面が大きく低下したこともあって、都野津面を削り込む谷が形成された。氷期と間氷期は幾度か繰り返され、現地形の成立に関わりが深い最終氷期は2万〜1.6万年前に最も寒冷化していたことが知られている。当時、寒冷化に伴って日本列島付近の海面は100m前後も低下したので、谷の末端は現海岸線よりずっと沖合で海に続いていた。やがて、1万年前に氷期が終わると、海面が急速に上昇したために谷に海が入り込み、複雑に入り組んだリアス式海岸が形成された。
ところで、沖泊・鞆ヶ浦とも、湾に面した海食崖には凝灰岩類が分布しているが、凝灰岩の特徴として、水流による浸食に弱いために深い谷が形成されやすく、谷斜面が急角度であることが多い。このような岩質の特徴は、両岸が迫った細い湾の形成に関わりが深いといえる。
3.沖泊・鞆ヶ浦の立地
(1)湾の形状について
当地付近の海岸線は日本海に対して北西に面しており、北〜北西の風による波浪の影響を受けやすい。特に冬期には北西季節風が卓越するために時化の日が多くなる。沖泊・鞆ヶ浦の湾は、いずれも西に向かって開く細長い湾で、沖泊には櫛島、鞆ヶ浦には鵜ノ島が湾口の北にあって湾の奥行きを実質的に延長しているため、北〜北西の波浪の影響を受けにくい。特に、沖泊は湾奥に向かうと左手方向に向かって湾曲しているので、湾奥は波浪の影響はほとんど及ばない。
このように沖泊と鞆ヶ浦は湾の形状がよく似ていて、鞆ヶ浦の鵜ノ島の先端部を湾口とみなすと、規模的にも同程度である。付近には多くの湾があるが、湾口が北西に面したものが多い。北西に面した湾が波浪の影響を受けやすいことは明らかである。また、西〜西南に面したものもあるが、いずれも規模がきわめて小さく、港湾に関わる施設を設置する場がない。こうしてみると、両地点の地形は港湾として適した条件を備えているといえる。
(2)海岸の微地形
・沖泊
沖泊湾は湾奥の埋め立て部分を除いて近年の人工改変があまりされておらず、もとの地形が比較的良く残っている。
湾奥側は汀線まで急崖が迫っているが、湾口側では波食台がよく発達している(写真7)。波食台の高度は、高潮位時には海面下に没する低い部分から、海面から1〜2m高く常時離水した部分まで、場所によってかなりの差がある。高度の違いは連続した面の傾きによるものではなく、不連続な別の地形面とみられる。例えば、第2図のB地点とD地点の波食台はいずれも波食崖との傾斜変換点まで続く明瞭な平坦面であるが、その高度は明らかに異なっている(注5)。このように高度が異なる波食台が混在している理由ははっきり判らないが、それぞれの形成時期が異なるのではないだろうか。また、第2図のA地点やC地点のように尾根がせり出して岬状になった箇所には、ずっと古い時期の波食台の名残とみられる緩斜面が海面から2〜3mの高さに認められる。
波食台には、その各所に鼻グリ岩が点在している。鼻グリ岩の高度には様々なものがあり、中には高潮位時に完全に海中に没してしまうものもある。また、2〜3mの高さに緩斜面がある場所は鼻グリ岩が集まっている(写真8)。A地点からC地点にかけての湾には、現在も小型の漁船が係留されていて、波食台が岸壁がわりに利用されている(写真9)。
(注5)B地点は、波食台をある程度加工している可能性がある。しかし、同程度の高度の面はD地点の周囲や櫛島にも認められる。
第3図 沖泊の汀線付近の地形断面
・鞆ヶ浦
鞆ヶ浦湾は北岸がコンクリート岸壁になっていて、南岸もかなり人の手が加わっていて、もとの地形はあまり残されていない。現在の状況から推定すると、湾内は波食台の発達が貧弱で、汀線のすぐ近くに波食崖が迫る急な地形だったとみられる。地形改変が進んでいることもあって、湾内には明瞭な波食台はみられないが、第3図に示すように海面から0.5〜1m程度の面が汀線に沿って認められる。そこには最近設置されたコンクリート製の係船柱があり、現在も船が係留されている(写真10)。海中部分は水深2m程度まで急に深くなっている。
第4図 鞆ヶ浦の汀線付近の地形断面
(3)沖泊湾の水深について
沖泊湾の水深分布は第4図のようになっている。この図に示した値は、2004年7月16日11:30〜12:30に航行し、位置は山立てによって決定、魚群探知機が示す水深値を読み取ったものである。したがって位置の精度はあまり高くないが、水深分布の傾向を示すには十分と思われる。 沖泊湾の水深をみると、湾口の櫛島付近では水深10m程度、幅が約40mの湾奥部でも水深2.5m前後ある。底質は砂が主である。汀線部分では、第2図からわかるように、水深1mまでの所に岩盤が平坦面をなすテラス状の地形があり、場所によっては汀線から数m沖まで続いていることがある。櫛島との間は、船の進入出来ないほど水深が浅い。
ところで、1640年代の正保の石見国絵図には沖泊の水深は4間(7.2m)と記述されているということである。これが湾内のどこを示すものか判らないが、現在の水深は湾の中ほどに消波堤が設置されて以降だけでも、かなり浅くなったといわれており、17世紀当時は全体にもっと深かったと推定できる。消波堤設置以降に急速に湾内への堆積が進行したということは、設置以前は供給された土砂の多くは沿岸流によって沖に運搬され、堆積量が小さかったとみられる。
第5図 沖泊湾の水深分布
(4)集落の立地と用水
沖泊、鞆ヶ浦ともに、湾奥のごく狭小な沖積地に集落が立地している。その広さは似通っているが、集落の海側端から山側端までの地形勾配は沖泊が2.4%、鞆ヶ浦が7.8%で、鞆ヶ浦の方が明らかに勾配が大きい(第5図)。このことは、用水として利用できる地下水の量に影響があると考えられる。
用水の確保は、集落の立地において重要な要素のひとつで、沖泊、鞆ヶ浦とも沖積地に井戸があり、飲用水などはこれに頼っていた。この井戸によってくみ上げる地下水の帯水層は沖積地を構成する土砂である。その土砂の層の厚さがそれぞれの地区で大きく異なることは考えにくいので、両地区の土砂の厚さと、土砂粒子間の空隙率が同じと仮定すると、地形勾配が緩い沖泊の方が貯留できる地下水量は多いはずである。また、谷の集水範囲は沖泊の方が明らかに広く、供給される水の量もこちらが多い。さらに、基盤の岩盤に含まれるある程度深い地下水が地表地形の集水域の範囲外から供給される可能性について検討すると、鞆ヶ浦は周辺をとりまく丘陵の範囲が狭く、地下水を貯留できる余地が限られている。つまり、鞆ヶ浦の北側は狭い半島状で、南側も尾根の先は低い沖積地となって孤立した丘陵地であるため、岩盤から供給される地下水を期待できない。以上の点からみて、用水の面において鞆ヶ浦よりも沖泊の方が有利と考えられる。
第6図 沖泊と鞆ケ浦の地形縦断面
写真1 海岸から続く定高性の丘陵
緩く傾斜した平坦な丘陵の向こうが鞆ヶ浦。手前は馬路の琴ヶ浜。
写真2 斜交層理が発達する岩相(沖泊)
基質は細粒な火山灰で大小の軽石礫、火山礫凝灰岩のブロックが配列している。堆積の過程で比重選別を受けていることを示す。
写真3 層理に沿って風化した凝灰岩(鞆ヶ浦)
層理は波打つような形状を示す。所々にレンズ状に押しつぶされた他の凝灰岩のブロックを含む。
写真4 火山礫凝灰岩の泥岩脈(沖泊)
斜めの地層境界の上は、下位にある火山礫凝灰岩。泥岩脈として貫入したとみられる。
写真5 鞆ヶ浦湾と馬路高山
都野津面の低平な地形面の形成と、大江高山火山の活動は時代的には重なっている。
写真6 波食台と海食崖
この波食台はほぼ常時海面上に現れている。写真の左側は櫛島。
写真7 尾根のせり出し部分
断面でみると海面から2〜3mの緩斜面があり、先端に大型の鼻グリ岩が集まっている。
写真8 船が係留されている波食台
波食台が岸壁として使われている。荷の上げ下ろしなどは湾奥のコンクリート岸壁で行われる。
写真9 現在の係船柱
コンクリート製の係船柱が岩盤に直接設置されている。