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石見銀山関連の資料

■明治時代の測量資料にみる石見銀山坑道の特徴

1.はじめに

 大田市大森町の石見銀山(大森鉱山*注1)は,16世紀前半に本格的な開発が始まり,約400年間にわたって稼働した銀鉱山である.16世紀中頃には世界でも有数の銀産量を誇り,その銀が契機となって東アジアとヨーロッパの文化交流がはじまったとされ,歴史的に重要な価値を持つことから,2007年に産業遺産としては国内初の世界遺産に登録された.石見銀山は1923年に実質的に閉山した古い鉱山であるため,操業当時の資料は少なく,鉱山としての実態は解明が進んでいない点も多い.本報告では,明治時代に藤田組(現DOWAホールディングス)が作成した坑道測量図(図1)を解析し,三次元画像化を試みた.この測量図に記された坑道の大半は江戸時代末までに開発された部分とみられ,三次元化によって近世の開発状況を垣間見ることができる.
 本谷地区の図面には坑道名と鉱脈分布に加え,再開発時に品位分析を行った結果も記されている.また,地下に複数存在する大規模な採掘場「福石場」も明記され,この鉱山の特徴を物語る貴重な資料といえる.

図1 本谷福石上下層平面載面実測図(部分)

図1 本谷福石上下層平面載面実測図(部分)
本谷部の本間歩付近.広がりを持つ部分が福石場.薄く着色された部分(原図は青)は富鉱部を示す.丸は分析試料採取位置で,丸の内にその資料番号,分析値が記載されている.

2.鉱床と開発の概要

 石見銀山の中心は大田市南西部の仙ノ山(537m)で,銀および銅を産出した鉱床をもつ.仙ノ山は1.60〜1.70Ma頃に形成された火山で,山体の大部分は火砕物からなる(金属鉱業事業団,1990).鉱床は熱水鉱床で,山頂付近から南麓にかけての「福石鉱床」と西〜北麓にかけての「永久鉱床」の2タイプを有する.前者は鉱染型で輝銀鉱,自然銀,方鉛鉱,赤鉄鉱,菱鉄鉱などを産する銀鉱床で,後者は鉱脈型で輝銀鉱,黄銅鉱,黄鉄鉱,方鉛鉱,閃亜鉛鉱,菱鉄鉱,菱亜鉛鉱,赤鉄鉱などを産する銀銅鉱床である(鹿野ほか,2001).今回検討に用いた資料では,福石鉱床の地区を本谷部,永久鉱床の地区を永久部と記載されており,本稿では地区名をこれにしたがって記載する.
 石見銀山の本格的な開発は1526年に始まったとされる.1533年に灰吹法による製錬が行われるようになると産銀量が増大し,その多くは中国などとの交易に用いられ大航海時代の世界経済に影響を及ぼすほどの存在感を誇った.1600年代前半に産銀のピークを迎えるが,その後は銀鉱山としては衰退し,銅を中心に銀を産する鉱山として稼働した.江戸時代末には経営規模が縮小しており,1887(明治20)年に藤田組が再開発に着手するものの,1923(大正12)年に事実上閉山した.

3.検討資料について

 検討,解析に用いた資料は,明治時代に大森鉱山の開発を行った藤田組が作成した図面の一部である.個人宅で保管されていたもので,鉱業権が島根県に譲渡された後に大田市に寄託された.200点以上に及ぶ資料のうち,1896(明治29)年作成の「本谷福石上下層平面載面実測図」(以下,図面1),「大森鉱山永久部・本谷部坑内関係載面図」(以下,図面2),「大森鉱山永久部・本谷部坑内関係平面図」(以下,図面3)を用いた.また,解析の補足資料として1907(明治40)年作成の「大森鉱山概況一斑」(以下,図面4)を参考にした.図面1は,坑道測量の平面図と横方向からの載面図が1枚の図面の上下に描かれている.図面2,図面3は一組になったもので,いずれも坑道の位置を三次元的に把握できるものである.図面1には「明治二十九年十一月」と明記されている.図面2,図面3には作成年の沸がないが,図面4の坑内実測図に比べて永久部の掘削が深部まで及んでいないことから,図面1と同時期の作成と思われる.図面は,再開発時に調査対象となったもののみが記されており,これに記載されていない坑道もある.

 藤田組は1887(明治20)年に大森鉱山の経営をはじめ,再開発を行った.江戸時代末から明治時代前半の石見銀山は,生産量が低下して経営規模が小さくなっており,特に1872(明治5)年の浜田地震の震災以降は休山に近い状況であった.そこへ経営に乗り出した藤田組は,近代的な技術を導入して再開発を行った.藤田組は1895年に大田市大森町に清水谷精錬所を完成させており,これは本谷部の鉱石を対象に銀製錬を行う計画であった.検討資料のうち,図面1には本谷部の品位分析結果が記載されており,1886年の作成であることから,清水谷精錬所の操業と関連した資料とみられる.図面1では,本谷部の坑道で最下層に位置する金生坑の奥部に「金生鉄軌道」の記載が見られる.これは仙ノ山を貫通して北側の清水谷へつながるトロッコ道を指すものである.清水谷精錬所の設置と併せて整備されたものであり,明治時代に開発された部分である.しかし,藤田組が本谷部の再開発を手がけた期間は短く,清水谷精錬所の操業は1年余りで中止され,その後は本谷部では本格的な採掘は行われていない.したがって,この図面に記載された坑道には明治時代に開発された部分もあるものの,大部分は江戸時代末までに開発されたものと推定される.なお,清水谷精錬所の閉鎖後,大田市仁摩町大国に永久精錬所が建設され,1923(大正12)年まで稼働した.検討に用いた図面と,明治時代末〜大正時代に作成された図面を比較すると,永久鉱床は下方への採掘が進んだ状況が見てとれる.

4.測量図の記載について

1)「本谷福石上下層平面載面実測図」
 本図のトレース図を図2に示す.本図は,本谷部の測量図で,坑道と鉉(鉱脈),品位測定試料の採取位置と品位が記されている.主な坑口には名称が記載され,大久保坑(大久保間歩),中釜屋坑(釜屋間歩群の一部)などの名が認められる.地下の坑道には,例えば「大切青石壱番鉉西延」,「大切青石壱番鉉東延薄身横相」のように,地区名,鉱脈名,坑道の伸長の方向などを組み合わせた分類名が与えられている.坑道にはこぶ状に広がる部分が認められ,そのような箇所は福石場と記載されている.広いものでは長さ20m,幅10m以上に達する広がりを持ち,鉛直方向にも10m以上の高さを有するものがある.福石場は大久保間歩の奥から釜屋間歩の地下へかけての東西の配列を中心に,名称が付されていないものを含め10ケ所程度が認められ,天井三番鉉福石場,下四番鉉福石場,古道中中福石場,古道中奥福石場,旧坑道上福石場,矢吾福石場,壱番福石場,薄身福石場,厚身福石場の名称が記されている.特に名称を冠せず,福石場と記されているものもある.

 鉉は,主要なものは東北東ー西南西方向が中心である.坑道名から,鉉には南から北へ壱番,弐番,参番,四番,五番,六番と数字が充てられていることがわかる.鉉は細脈も表示され,傾斜方向も記載されている.五番鉉のみは露頭部を線で記してある.

 図面には,品位分析試料の採取位置が丸で囲まれ,その中に資料番号と分析結果が記されている.試料には「内」と「外」があり,坑道内と坑道外の露頭で採取されたものがあるとみられる.品位は小数点以下2桁までの数字で,値が大きなものでは5を超えるが,大部分は3未満である.本谷部は銀のみが採掘対象であり,この数字は銀品位を万分率で示したものとみられる.品位が概ね1.5から2を超える分析値が集まる部分は「富鉱部」として色が塗り分けられており,富鉱部に福石場が点在している.

 図面の西端(図面上左端)に記されている「栗林旧坑」は,坑口から鉉を追って斜めに掘り下げている.旧坑の名が示すように,ここに記載されている坑道の中では古い段階のものとみられる.

 載面図には,地層境界が記載されており,凡例は「タフサンド及タフシェール」(tuff sand,tuff shale, 比較的細粒な凝灰岩類と凝灰質頁岩〜砂岩か),「アンデサイトブレクシャー」(breccia, 安山岩質凝灰角礫岩)とある.地表部は後者で,前者を楔状に挟んで,その下位にも後者が分布すると描かれていて,坑道の多くは上下の「アンデサイトブレクシャー」部分にある.図面名にある「福石上下層」は,2層に分けられる富鉱部を意味するとみられる.

図2 本谷福石上下層平面載面実測図のトレース図(平面図部分)

図2 本谷福石上下層平面載面実測図のトレース図(平面図部分)
元図には,坑道とその名称,鉱脈,分析試料の採取位置が記されている.鉱脈は薄い色の線で示している.鉱脈は東西方向が卓越するが,小規模なものは様々な方向のものが認められる.分析試料の採取位置は省略.

2)「大森鉱山永久部・本谷部坑内関係平面図」
 本図の永久部のトレース図(図3)に示す.本図は,「大森鉱山永久部・本谷部坑内関係載面図」と一対になっている図面である.本谷部については,「本谷福石上下層平面載面実測図」にはない北側の坑道が記されており,「蔵之丞坑」,「上蔵之丞坑」,「元亀坑」,「藤田坑」,「元藤田坑」,「中藤田坑」の名称が認められる.蔵之丞坑は清水谷精錬所が置かれた清水谷に開口し,仙ノ山を貫いて本谷の金生坑に通じる坑道である.

図3 大森鉱山永久部・本谷部坑内関係平面図(永久部)

図3 大森鉱山永久部・本谷部坑内関係平面図(永久部)
元図には1枚の図面中に永久部と本谷部が記されている.ここでは永久部のみを示している.永久部で最長の坑道の永久坑は途中までしか描かれず,坑口は省略されている.

 永久部の坑道は,坑口に付された名称として,蔵本坑,新横相坑,新横相水道,村上坑,三木坑,龍源寺坑がある.明治時代に永久精錬所が置かれた永久坑の坑口付近は図面上省略されている.永久部には他にも多数の坑道が存在しているが,本図の作成時点で利用されていた主要坑道のみを記載したものとみられる.坑道の方向は,東西方向に延びる鉱脈を追う採鉱用の坑道と,それに直交する形で坑口から南北方向に伸びる坑道に大別できる.後者は「横相」と呼ばれる坑道の形態で,深部を採掘する採鉱用の坑道からの排水と通路を兼ねたものである.坑口に向けて下り傾斜を確保するために,標高の低い谷部に開口している.石見銀山で最長の横相坑道の永久坑は長さ1500mにも達する.

 採鉱用の坑道は,永久部で最大の鉱脈である佐藤鉉に関係するものが中心である.山上(1897)によると佐藤鉉の最良部は「三賞番」地点で,当時,採鉱の主力は「出鉉西延」としている.本図にはこれらの名前が記載されている.佐藤鉉に関係する坑道の北には,中瀬鉉と馬之背鉉を採鉱した「永久坑中瀬東延」,「二住番馬之背東延」といった名称も認められる.

 永久部と本谷部の坑道は,本図に記載されている限りでは連絡するものはみあたらない.これは2つの鉱床が連続しておらず,個別に開発されたことを物語っている.

 永久部と本谷部を比較すると,永久部は採鉱用坑道と横相が直交し,全体に直線的であることに対し,本谷部は複雑な形状である.この違いは,東西の方向性が明瞭な鉱脈型の永久部と,東西の方向性を持つものの,細脈が入り組んだ鉱染型の本谷部の,鉱床型の違いを反映している.特に,本谷部にはこぶ状に広がった富鉱部があり,そこでは広く掘り広げられている.また,本図に記載された永久部の坑道は,横相の技術によって地下深くを採鉱したものが主体で,地付近の鉱脈を追った古い時期の坑道は記載されていない.本谷部は鉱床が比較的浅いことから,永久部の龍源寺坑や永久坑のような長大な横相はなく,トロッコ道としての金生坑が唯一直線的な坑道である.

5.三次元解析

 坑道分布の三次元解析は次の方法で行った.市販の比較的廉価なグラフィック系のソフトウエアを用い,坑道のひとつひとつについて,図面のコピーとモニタ上で確認しながら手作業で解析したものである.


・図面のスキャニング:スキャナーを用いて,図面を部分毎にスキャニングし,コンピュータ上でつなぎあわせて全体の画像データを作成.


・ベクトルデータ化:ドローソフトウエア(CanvasX)を用いて図面をコンピューター上でトレースし,坑道図面をベクトルデータ化. 


・3Dフトウエアへの移行:ベクトルデータを3Dグラフィックソフトウエア(Shade8.5)へ読み込み,平面図および載面図を1つのファイル内に統合.


・三次元情報化:平面と載面のデータを比較しながら,3Dグラフィックソフトウエア内で坑道の三次元分布を解析.本谷部は図面1を基本に,図面2と図面3の情報を加えて解析した.永久部は図面2と図面3を基本に,一部,図面4を参考にした. 


・データの立体化と書き出し:空間的位置が判明したベクトルデータを立体オブジェクト化し,画像データまたは動画として出力.

図4 3次元解析データから描画した坑道分布(1)

図4 3次元解析データから描画した坑道分布(1)
坑道を南側から見た様子.本谷部と永久部の間に仙ノ山山頂がある.本谷部の坑道が高い位置にあり,永久部は地下深部まで開発された状況がうかがわれる.

図5 3次元解析データから描画した坑道分布(2)

図5 3次元解析データから描画した坑道分布(2)
坑道を永久部側(西側)から俯瞰した様子.龍原寺坑,永久坑と採鉱坑道の直交関係がわかる.永久部の採鉱坑道は上下に何本も平行している.永久部は閉山までにさらに深くまで採鉱された.

図5 3次元解析データから描画した坑道分布(2)

図5 3次元解析データから描画した坑道分布(3)
坑道を永久部側(西側)から俯瞰した様子.龍原寺坑,永久坑と採鉱坑道の直交関係がわかる.永久部の採鉱坑道は上下に何本も平行している.永久部は閉山までにさらに深くまで採鉱された.

 三次元的に視覚化することで,情報量が増加するものではないが,坑道分布を直感的に把握することが容易になることが大きな利点といえる.例えば,平面図から水平坑道,斜坑,竪坑の関係を一目で読み取ることは難しいが,三次元画像ではそれが明確である.図4は南側からほぼ水平に見通したもの,図5は西から俯瞰したもの,図6は東から俯瞰したものである.書き出した図は平面であるが,異なる角度からの見え方を比較することで,坑道分布の状況がわかりやすい.図5では,永久部の佐藤鉉を上下に平行する坑道で採鉱している状況と,それに直交する龍源寺坑,永久坑との関係がよくわかる.図6は,本谷部の富鉱部に坑道が集中している状況がわかる.富鉱部は大久保坑の奥から釜屋間歩へと東西に延びる.本谷部の富鉱部の延長上に永久部の主要鉱脈があり,両者は連続はしていないものの,平面的にはほぼ直線上に位置することがうかがわれる.

 解析結果を3Dグラフィックソフトから動画や方向が異なる複数の静止画として書き出すことで,視覚的な資料として活用でき,映像素材や展示素材としての応用が可能である.本検討で作成した動画は,島根県立三瓶自然館2007年春の企画展で映像資料として展示した.また,NHKの特別番組等,石見銀山遺跡の世界遺産登録記念に放送されたTV番組等に活用された.

6.福石場にみる石見銀山の特徴

 石見銀山の坑内における大きな特徴として,本谷部に10ヶ所程度認められる福石場の存在がある.福石とは石見銀山固有の名称で,鉱染された凝灰岩類の微小な空隙に輝銀鉱,方鉛鉱といった含銀鉱物を含む鉱石である.自然銀を伴うこともある(写真1).脈石の細脈が見えるものもあるが,外観はごく普通の凝灰岩類である.福石の平均的な品位は0.02%とされ(山上,1897),銀鉱石としての品位はそれほど高くない.本谷部の鉱石は,細脈部分以外は基本的に福石と言える.福石場は鉱染が立体的に広い範囲に及んだ富鉱部を採鉱した場所であろう.福石場が複数点在する状況からみて,富鉱部はこぶ状にいくつか点在していたとみられる.

 福石は品位としては特に高くないが,立体的な広がりを持つために採鉱の効率がよく,短い時間で多くの鉱石を採掘でき,生産効率の高さにつながったと考えられる.福石場の大きなものは長さ20m,幅10mにも及ぶ.一度に多数の人員で採鉱作業が可能で,細い鉱脈を掘り進む場合よりも効率的である.また,福石の岩質は軟質でもろい.石英質のような緻密で硬質な鉱脈を採掘する場合に比べて,採鉱が容易である.これらの要素は,鉱山としての規模は決して大きくない石見銀山が,16世紀から17世紀初頭にかけて,銀の量産を成しえた理由としてあげることができる.石見銀山の産銀のピークは17世紀初頭とされ,その時期の主力坑道は釜屋間歩(群)と伝わる.釜屋間歩に隣接する本間歩の奥にはかなり大きな福石場がある.図面1によると,中釜屋坑,元釜屋坑は坑内で本間歩奥の福石場に通じており,ここは石見銀山の最盛期を支えた採鉱場の可能性が高い.なお,本間歩の坑口脇には,大きく開口した浅い採掘跡がある(写真2).これは地下の福石場のほぼ直上にあたるという位置関係からみて,露天掘りによる福石場の跡の可能性が考えられる.開発初期には地表に福石場と同様の富鉱部が露出していたと思われるが,現地形には写真2の採掘跡以外には認められない.なお,溝状の露頭掘り跡は数多く残されている.開発初期には地表に露出した富鉱部で採鉱することで,効率良く銀を生産できた可能性が十分に考えられる.

写真1 九州大学所蔵の福石

写真1 九州大学所蔵の福石
大正時代以前に採取されたとみられる福石.稼働時に採取された福石の標本は極めて珍しい.この鉱石は井澤ほか(2007)により銀品位0.04%の,福石としては平均的な品位であることが明らかになっている.

写真2 本間部脇にある広く開口した掘削跡

写真2 本間部脇にある広く開口した掘削跡
左の開口部は幅5m以上,高さ約2m,奥行き約5mの採掘跡としては異質の形状を持つ掘削跡.その右手に本間歩の坑口があり(現在は落盤により半ば閉塞),その奥には広い福石場が存在する.

おわりに

 本検討で用いた坑道測量図は,鉱山としての石見銀山の実態解明に貴重な資料である.古い鉱山の資料がまとまって保存されていることは少なく,存在しても鉱山所有者が公開することは稀である.この資料が個人宅で90年以上もの間,大切に保管されてきたことは特筆すべき事例であろう.
 本検討は,島根県立三瓶自然館2007年春の企画展「石見銀山〜鉱山遺跡と自然」での展示資料作成を目的に行い,鉱山学的に深く掘り下げたものではないが,資料の存在とその重要性の記録として拙稿に記した.資料を保管されてきたこと,解析と展示への利用をご快諾いただけたことについて,上野治子氏に深く感謝いたします.また,資料借用にあたって便宜を図ってくださった大田市石見銀山課(当時)の遠藤浩巳氏に感謝します.

*注1 藤田組が経営した明治時代以降は,大森鉱山の名称で呼ばれた.本報告では,江戸時代以前または総称として「石見銀山」,明治時代以降の開発に関連する場合は「大森鉱山」とわけて呼ぶ.

*注2 一部の坑道しか記載されていないことは,「本谷福石上下層平面載面実測図」も同様である.

参考文献

井澤英二・吉川竜太・木村慶信・中西哲也(2007)石見銀山の高品位鉱石の特徴と製錬,日本鉱業史研究,No. 53, p.36-55.
鹿野和彦・宝田晋治・牧本 博・土谷信之・豊 遥秋(2001)温泉津及び江津地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅).地質調査所,129p.
金属鉱業事業団(1990)平成2年度精密調査報告書北島根地域.72p.
山上萬次郎(1897)三瓶山圖幅地質説明書.地質調査所,140p.

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