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鬼村鉱山と鬼岩

地層から学ぶ
大地の歴史

■鬼村鉱山〜日本の近代化を支えた石こう鉱山〜

 大田市大屋町鬼村にあった鬼村鉱山は明治42年に開発が始まった石こう鉱山で、国内では明治35年の戸田石膏採掘所(山形県)などに次ぐ古い段階から近代的な開発が行われた石こう鉱山のひとつです。石こうはコンクリートの主要原料として大量に用いられたほか、医療用ギブズ、石こうボードなどの建材などに幅広く使われ、生藥として使われることもある鉱物資源です。
 明治時代から昭和40年代まで、大田市は国内の主要な石こう生産地のひとつで、出雲市の鰐淵鉱山などとともに国内生産量の半分以上を産出した時期もありました。土木建築に欠かせない資源であり、日本の近代化から高度成長の時代までの明治時代から昭和40年代にかけてのインフラ整備において鬼村鉱山をはじめとする大田市の石こう鉱山は重要な役割を果たしました。

 石こうは硫酸カルシウム(CaSO4)の水和物で、透明なもの(透石こう)や線状のもの(繊維石膏)、細かな結晶が集まる白色の雪花石膏があります。鬼村鉱山は透明度が高い透石こうを産出し、国内の主要生産地だった島根県でももっとも良質だったと伝わります。

 鬼村鉱山の石こう鉱床は、日本海が拡大して日本列島の原型が形成された新生代新第三紀中新世の海底火山の噴出物(おもに凝灰岩類)と海底に堆積した泥などの地層に挟まれています。海底での火山活動にともなって噴出した熱水(高温の地下水で資源となる物質を含んでいることがある)から硫酸カルシウムが沈殿してできた鉱床で、一連の熱水活動によって形成された黒鉱鉱床(様々な金属鉱物の集合体からなる黒い鉱石を産する鉱床)の縁辺に形成さたものです。
 大田市には鬼村鉱山のほか松代鉱山(久利町)、延里鉱山(長久町)、長谷鉱山(大田町)、石見鉱山(五十猛町)で石こうを産出し、地域の主要産業のひとつでした。

 鉱山の記録は閉山とともに急速に失われることが多く、鬼村鉱山の歴史に関する資料も限られます。その中、鉱山に従事した夏野金次郎氏(1898-1975)が晩年に記した手記「石膏山記」は貴重な記録で、「石東史叢」において桜井貞光氏が手記をほぼ原文で紹介しています。
 以下に参考として石膏山記の概要を引用します。

鬼村鉱山の開発は、1909(明治42)年に鵜鷺村(出雲市大社町鵜鷺)の山師商人・岡 有市氏が仁万に宿泊した際、以前に鬼村で石こうを採って薬品として販売していたことを知ったのがきっかけだった。
1918(大正7)年、鉱山所有者の塩田万市氏が大阪石膏株式会社を大阪に創立し、鬼村鉱山、松代鉱山、出雲市の鰐淵鉱山、鵜峠鉱山の経営を行うようになった。島根県の主要な石こう鉱山を一手に経営していたことになる。
昭和初期には、島根県の石こう生産量は全国の7割に達した。
その後、品位が低い出雲の鉱山は閉山となったが、高品位の松代鉱山、鬼村鉱山は稼働し、第二次世界大戦中には海軍の兵器用としての指定も受けたりもした。
1943(昭和18)年の水害で坑道がすべて水没したもののの半年で復旧し、1967(昭和42)年まで操業された。


鬼村鉱山から産出した石こうは、開発当初は人が静間まで背負って運び、そこから荷車で和江港へ運んで船積みしていた。
大正時代に鬼村ー静間間の道路がつくられ、のちにトロッコ軌道が整備された。トロッコは1940(昭和15)年まで使用された。


鬼村鉱山の石こうは品位が高く、その鉱体は黒色頁岩中に4つの塊状に存在した。
石こうに「石膏」の文字をあてて最初に使ったのは鬼村鉱山という。

鬼村鉱山鉱区見取略図

「夏野金次郎の「石膏山記」について」(桜井貞光)をもとに作図した鬼村鉱山の配置図

鬼村鉱山

2010年頃まで残っていた鬼村鉱山の現場事務所の建物

鬼村鉱山

現場事務所などがあった平坦地の一段上に残るトロッコ軌道のレール

「迩安の姿」 昭和27年版 邇安統計研究会

※P31「鉱業」のページから以下を引用

 石膏は簸川郡とともに、邇摩郡の特産で中でも久利町の松代鉱山は月産千数百万トン、品質優秀で用途は壁、陶器の型、像、セメント、ペンキ、肥料、プラスター原料、医薬品原料などに利用せられる。なお、本県の石膏は全国第2位の産額を占めている。

 福波村及び温泉津町に凝灰質石材を産し、俗に福光石といわれ、水に耐える力は弱いが火熱に強く、質が軟らかく加工しやすい箱坂産のものが上等である。

鬼村鉱山

邇安統計研究会編(1947)「邇安管内図」

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