わたしたちの三瓶山

もくじ

大昔の人々と三瓶山

多量の旧石器が発見された原田遺跡(奥出雲町)の発掘風景

多量の旧石器が発見された原田遺跡(奥出雲町)の発掘風景

 火山灰は短時間で降りつもり、地面をすばやくおおうために、その下からは、しばしば土器や石器が見つかることがあります。
 斐伊川中流の尾原ダムの建設工事が行われている時に発掘調査された原田遺跡(奥出雲町)では、約1万6,000年前の三瓶山の火山灰の下から、たくさんの石器がみつかりました。
 また、神戸川中流の志津見ダムの工事で発掘された板屋III遺跡(飯南町)では、縄文時代に噴出した三瓶山の火山灰層が3層見つかり、噴火した時代と縄文土器の形の変化との関係が詳しく調べられています。

三瓶山の火山灰層(庄原市高野町)

三瓶山の火山灰層(庄原市高野町)


 火山灰層は地層の時代を知る有力な手がかりになります。多くの火山灰の時代が分かっていて、遺跡の調査などに有効です。


約1万6000年前の三瓶山の火山灰の下から見つかった旧石器

原田遺跡で約1万6000年前の三瓶山の火山灰の下から見つかった旧石器。


古代出雲と三瓶山

中海宍道湖周辺地域の古地理図

 弥生時代から古墳時代の出雲地方は、大きな勢力を持った地域だったと考えられています。それは、出雲神話や、多量に出土した銅剣や銅鐸などから推定されています。
 出雲平野には、弥生時代の集落の遺跡がたくさんあり、古代出雲の中心地のひとつと考えられています。その集落の多くは、約4,000年前に三瓶山が噴火した時に、神戸川が運んだ火山灰が堆積してできた地盤の上に作られています。三瓶山の噴火によって、古代出雲の人々が暮らしやすい安定した土地が生まれたのです。


大田市の縄文遺跡・弥生遺跡

 大田市は縄文・弥生時代の遺跡は多くありません。しかし、山陰自動車道の建設工事にともなって、次々にこの時代の遺跡がみつかってきています。


解説

 三瓶山のふもとでは、古くから人々が暮らしていました。その歴史は、少なくとも、およそ1万年前にまでさかのぼることができます。
 三瓶山の東には神戸川が流れています。その川岸にある板屋III遺跡の発掘調査では、三瓶山の火山灰層の上下からたくさんの土器や石器が発見されていて、およそ1万年も前から、人々が暮らしていたことがわかっています。三瓶山の噴火に驚いて逃げた人もいたかも知れません。しかし、この遺跡では、噴火が終わってしばらくすると、再び人々が暮らし始めたようです。また、板屋III遺跡では、イネの実(籾)の跡がついた3,000年前頃の土器もみつかっていて、縄文時代が終わりに近づく頃には、イネを育てていたこともわかっています。
 大田市内でも、縄文時代の遺跡がいくつか見つかっています。三瓶山のすぐふもとで暮らしていた人もいたことでしょう。また、奥出雲町では、三瓶山の火山灰の下から2〜3万年も前の旧石器が見つかっています。
 短い時間の間に広い範囲に降る火山灰は、遺跡の時代を知る手がかりです。今後も、三瓶山の火山灰をきっかけに、歴史に関する新発見があるかも知れません。


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