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しまねの自然スポット

石見地方

■久喜銀山(邑南町)

久喜銀山

大林地区の銅古間歩の坑口。

 久喜銀山(久喜大林銀山)は広島県と接する県境部にある鉱山です。16世紀に毛利氏が開発されたと伝わり、戦国時代末に描かれた「石見国図」にも記載されています。銀と鉛を主に産出した鉱山で、石見銀山での銀製錬に用いた鉛を供給した可能性がある点でも注目されます。江戸時代には石見銀山領として幕府直轄だったことがその重要性を物語ります。
 明治時代にあ津和野町の堀家によって再開発され、その時代には江戸時代の技術を踏襲しつつヨーロッパから導入された近代技術も取り入れた製錬所が設置されています。近代化の時代ならではの「折衷型」の製錬所遺構という点でも歴史的な価値があります。

 久喜銀山の名が残る資料として、宮城県仙台市で保管されていた「石見国図」があります。この地図は戦国時代末の石見の状況を記録しており、石見銀山の歴史を解明する上でも貴重なものです。この地図には久喜銀山の他に津和野町の「はたがさこ」や益田市美都町の「つも」などと大田市の石見銀山が描かれています。

 地質的には、新生代古第三紀(6500万〜2800万年前)に形成された流紋岩の分布域で、周囲には同じ時代の花崗岩が分布しています。鉱床は流紋岩を形成した火山活動に関連して形成されたと思われ、マグマの活動に伴ってもたらされた高温の熱水が岩盤の割れ目などに鉱物を沈殿させて形成された熱水型鉱床です。
 主要な鉱脈は北東-南西方向に延びており、主要な鉱物は方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄銅鉱、硫砒鉄鉱、方解石等とされます。銀は方鉛鉱から取り出されたと推定され、この鉱物は鉛が主ですが銀をともなうことが多く、銀生産の主要な鉱物のひとつです。世界的には銀生産の歴史は自然銀の採取に続いて方鉛鉱を対象とした採掘と製錬が行われており、灰吹法の原型といえる製錬技術が確立されました。

久喜銀山

久喜銀山付近の地質と主な間歩の分布。

久喜銀山

久喜、大林に隣接する岩屋地区で発見された炉の跡。鉛成分が検出されており、方鉛鉱を処理してそこに含まれる銀を取り出す製錬が行われた可能性があります。

久喜銀山

明治時代に作られた久喜製錬所の遺構の一部。この製錬所は、近世の日本的な技術と西洋の技術が混在した折衷型の施設だったとみられ、製錬技術の近代化を物語る遺跡として重要です。

 大林地区にある寺、銀吹山品龍寺の周辺には江戸時代以前のものとみられる製錬滓(からみ)が大量に残存しており、山の内製錬所(吹屋)があった場所とされます。製錬滓の量を比較することは難しいものの、石見銀山では江戸時代以前の製錬滓がまとまって大量に残存している場所は認められず、久喜銀山の製錬規模が大きかった可能性を示しています。
 方鉛鉱から銀を製錬した久喜銀山の場合、鉱石を溶かす工程(溶練)に供する鉱石量が多かったと考えられます。方鉛鉱の銀含有量は鉱石1トンあたり数百グラムのオーダーです。石見銀山の銀鉱石「福石」の含有量がこれと同程度ですが、福石の場合は粉砕して比重選鉱することで、精鉱(純度を高めた鉱石)の含有率が飛躍的に高まります。これに対して、方鉛鉱はほぼ総量を溶練に供するために発生する製錬滓の量も多くなります。

 石見銀山では粉砕の工程で台座に用いる「要石」が数多く残存していますが、久喜銀山では粉砕に関連する道具はほとんど見つかっておらず、細かく粉砕する工程をなしに溶練したことを物語ると考えられます。

銀吹山品龍寺の近くで見られる製錬滓

大林地区の銀吹山品龍寺の近くで見られる、積み重なった製錬滓。この地点から上方の山中にかけて大量の製錬滓があります。久喜地区にも江戸時代以前の製錬滓が大量に残存しており、溶練工程に供した鉱石が多かったことが推定できます。


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