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出雲平野の自然史

■斐伊川の古地理に関する最近の新知見

はじめに

 島根県東部を流れる斐伊川は、ヤマタノオロチのモチーフと言われることがある河川で、出雲神話の舞台そのものである。また、近世には鉄穴流しによる砂鉄採取とたたら製鉄が盛んに行われ、大ヒットした映画「もののけ姫」が描いた世界のヒントになったとも言われている。この斐伊川について、洪水を繰り返した暴れ川というイメージが強く、近世以前の状況はあまりわかっていなかった。しかし、最近の発掘調査によって河岸で遺跡が発見され、意外と穏やかな古代以前の様子が垣間みえてきた。本稿では、その斐伊川の古地理に関するいくつかの事例を紹介する。

 なお、本稿は島根県教育委員会が実施した発掘調査の現場において、地層を観察した結果によるものである。調査にあたって便宜を図っていただいた担当の皆様にお礼申し上げます。

1.調査について

 斐伊川中流の雲南市木次町と奥出雲町にまたがる地域では、国土交通省による尾原ダム建設事業が進められ、これに伴って予定地内における埋蔵文化財の発掘調査が島根県教育委員会と雲南市、奥出雲町の各教育委員会によって実施されている。ここでは、更新世末から完新世にかけての段丘堆積物とそこに包含される考古遺跡が確認されている。特に、同地内の原田遺跡では、後期旧石器から近世までに至る時代の遺物が各時代の地層から出土していて、河川に隣接した場所における生活の状況をうかがい知ることができる。

 また、下流の出雲平野でも、国土交通省による国道9号バイパス整備事業、国道431号バイパス整備事業に伴って、埋蔵文化財の発掘調査が島根県教育委員会によって実施された。

2.地形と地質の概要

 斐伊川は奥出雲町東部の船通山(1142m)を源流とし、出雲平野、宍道湖、中海を経て日本海に至る河川である(図1)。河川延長は152.7km、流域面積は2,070平方kmである。尾原ダム予定地付近は、標高350〜400mのピークを持つ山地で、河道は大きく蛇行を繰り返して流れている。蛇行部には河岸段丘が発達している。

斐伊川流域

図1.斐伊川流域
地質的には、斐伊川の上流域から中流域にかけての広い範囲に古第三紀の花崗岩類が分布する。尾原ダム予定地には花崗岩と閃緑岩が分布している。

 近代製鉄の普及以前は、斐伊川流域で磁鉄鉱(砂鉄)を原料とした製鉄が盛んに行われ、ダム予定地内にも砂鉄採取とたたら(製鉄炉)の跡が残っている。砂鉄採取にともなう山地の切り崩しと河川水を使った比重選鉱(鉄穴流し)と、薪炭材としての山林の伐採は多量の土砂流出を招いた。その結果、河道への土砂堆積が進み、洪水を誘発した。土砂の過剰流出は、流域での製鉄がほとんど行われなくなった近代以降も継続し、1960年代頃まで毎年のように洪水被害が発生していた。

3.古地理を示す事例

(1)尾原ダムにおける状況

・旧石器を包含する層序

 原田地区では、ヘアピン状に河道が曲流する内側に広い平坦面をともなう段丘があり、原田遺跡はその平坦面のほぼ全域に及ぶ。発掘調査前には、広い水田面が尾根側から河道側へ低くなりながら数段存在していた。その段は造成の影響が大きく、その面によって段丘面を識別できるわけではないが、高位側と低位側で構成する地層の年代に明らかな差が認められた。

原田遺跡の発掘調査

写真1.原田遺跡の発掘調査
左手に残された土手に、黒色土壌とその下位に三瓶浮布軽石が露出している。トレンチの床面に旧石器時代の遺物が点在している。

 尾根に近い高位側では、後期更新世の三瓶火山噴出物と、その風化物に由来する古土壌が互層し、古土壌にはAT火山灰(町田・新井,1976)が挟まれていることが確認された。三瓶火山噴出物は、AT火山灰の上位にあるものは三瓶浮布軽石(松井・井上,1971)とみられ、層厚は最大40cmに達する。全体に黄色く風化した軽石質の火山灰で、下底部付近には直径3cm程度までの黄色く風化した発泡のよい軽石が含まれている。ATは層厚は最大15cmまでで、黄色く風化した細粒な火山灰である。AT火山灰を挟む古土壌は厚さが50cm以上に達し、その下にも三瓶火山噴出物が存在する。層厚は最大40cmに達し、全体に黄色く風化した軽石質の火山灰である。層序からみて、三瓶池田軽石に相当するとみられるが、詳細な観察は行っていない。それぞれの火山灰の噴出年代は、三瓶浮布軽石が1.6万年前頃、AT火山灰が2.7万年前頃、三瓶池田軽石が3〜4万年前(注)と考えられている(町田・新井,1992)。

 旧石器時代の遺物は、おもに三瓶浮布軽石とAT火山灰の間から出土しており、石器、薄片、こぶし大の石を集めた集石などが発見されている。 旧石器が確認された地点の地層は、上記のように火山灰層とその風化物からなる古土壌で、河川成の砂や礫は認められない。

(注)三瓶火山噴出物およびATの年代値はその後見直され、下記の値が用いられるようになっていますが、ここでは原文まま掲載しています。

三瓶浮布軽石:1.9万年前
AT火山灰:2.9万年前
三瓶池田軽石:4.6万年前

・縄文時代〜弥生時代の黒色土壌

 上記の原田遺跡では、厚い黒色土壌が発達していている。そこに三瓶火山の完新世の噴出物が挟まれることもある。同様の黒色土壌は北原本郷遺跡、林原遺跡といった段丘上に立地する遺跡で認められ、縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけての遺物を包含している。

北原本郷遺跡の堆積層

写真2.北原本郷遺跡の堆積層
縄文時代から古墳時代まで3000年以上をかけて形成された黒色土壌。その直下には完新世前半に堆積した礫層がある。

 原田遺跡では、縄文時代後期(4000〜3000年前)の柱穴等の遺構が検出されていて、段丘面上が居住の場であったことがわかる。  この時代の黒色土壌は、当時の河道に近い位置にありながら、長期間にわたって継続的に土壌化が進んでいることが特徴である。粒度的には中粒砂程度までの比較的細粒な砂と泥分からなり、礫を含むことは少ない。原田遺跡の場合、縄文時代後期の遺構が存在する面と、当時の河床礫の高度差は約2mである。このことは、河道に隣接した低い段丘面が、長期間にわたって居住可能な安定した条件だったことを示すといえる。

 北原本郷遺跡においても、縄文時代前期以前の河床礫を厚く覆う黒色土壌が確認されている。河道状の落ち込みを充填している部分では厚さが2m以上に達し、縄文時代後期から古墳時代の遺物が出土している。この地層は、上記の黒色土壌に比べると泥分を多く含み、後背湿地の堆積物とみられる。ここでも、数千年に及ぶ長い期間、氾濫によって粗粒な堆積物が供給された状況は認められない。

黒色土壌に挟まれる火山灰

写真3.黒色土壌に挟まれる火山灰
林原遺跡の黒色土壌に挟まれていた三瓶火山起源の火山灰層。層厚は10cm以下。三瓶大平山火山灰とみられる。

・近世の砂質堆積層

 原田遺跡の上流端の調査区では、中世の河道を充填する近世の砂層が確認された。この砂層は、層厚が1.5m以上に達し、粗粒砂を主体とする。特徴として、風化した長石などが残存していて、全体に粘性を持つことがある。この堆積物は、基盤の風化物が河道に供給され、水流による淘汰や研磨をほとんど受けないうちに堆積したものとみられ、砂鉄採取によって排出された土砂に由来する可能性が高い。なお、より古い時期の河道堆積物の場合、石英粒子の比率が高く、ほとんど粘性を持っていない。

(2)出雲平野における状況

 出雲平野東部は、斐伊川の三角州および扇状地堆積物によって構成されている。ごく最近まで、このエリアでは古い時代の遺跡があまり知られていなかった。その理由として、斐伊川が「暴れ川」であるために居住に適さない地域であったという漠然としたイメージが持たれていた。

 ところが、出雲市中野の中野美保遺跡では、2m以上に及ぶ厚い砂層の下から弥生時代の方形周溝墓と呼ばれる墓を始めとする遺構や遺物が数多く出土した。この発見は、弥生時代には斐伊川に近い場所に大型の墓を造るような人々が居住していたことを示すもので、従来のイメージを大きく覆すものであった。その後、出雲市の青木遺跡では同じく弥生時代の四隅突出型墳丘墓と呼ばれる大型の墳墓が低地から発見された。

出雲平野での発掘調査

写真4.出雲平野での発掘調査
国道431バイパス予定地の山持川遺跡。この東側に隣接して青木遺跡がある。

3.検討

 近世の斐伊川は、氾濫を繰り返した暴れ川だったことが知られているが、これまで、中世以前の状況についてはほとんどわかっていなかった。ところが、近年の遺跡の発掘調査によって、古い時代の斐伊川の状況を示すいくつかの事例が得られた。

 尾原ダム予定地内の原田遺跡では、河道に隣接した比高が低い段丘面上で、長期間にわたって安定的に土壌の形成があり、そこで人が居住していたことが明らかになった。また、北原本郷遺跡においても、後背低地において2000〜3000年間にわたって粗粒堆積物がほとんど供給されることなく形成された土壌が確認された。これらの状況は、少なくとも古代以前の斐伊川は、近現代のそれと比べて洪水頻度がそれほど高くない河川だった可能性を示していると考えられる。このことは、斐伊川下流の出雲平野において弥生時代の重要な構造物が出土したことと調和的である。すなわち、中野美保遺跡や青木遺跡が立地する河岸に近い低平地が頻繁に洪水被害を受けるような環境ではなかったことから、当時の人々がそこに集落を形成し、そこに有力者の墓を建造するに至ったと考えられる。

 大西ほか(1990)は、宍道湖湖底ボーリングから完新世における花粉組成の変遷を報告している。この組成からは、6000年前頃から500年前頃までの斐伊川流域の山地には広い範囲にカシ・シイ類からなる照葉樹林が広がっていたことが推定できる。この段階では、森林による流量の調整機能が働いたことが予想され、それによって近現代よりも洪水頻度が低かったことは十分に考えられる。

4.まとめ

 近年の発掘調査で得られた情報は、古代以前の斐伊川は近現代よりも「おとなしい」川だった可能性を示している。それを数量などで具体的に示す証拠は得られていないが、遺跡から推測される人と川の関係は、近世の開発を境に大きく変化したように見える。しかし、頻度の違いこそあれ、ひとたび氾濫を起こすと流域に大きな被害を引き起こすことには変わりはない。古代の人々にとっての斐伊川は、ヤマタノオロチのように恐れるべき存在でもあっただろう。

文献

町田 洋・新井房夫,1976:広域に分布する火山灰―姶良Tn火山灰の発見とその意義―.科学,46,339-347.

町田 洋・新井房夫,1992:火山灰アトラス―日本列島とその周辺.276p.

松井整司・井上多津男,1971:三瓶火山の噴出物と層序.地球科学,25,147-163.

大西郁夫・干場英樹・中谷紀子,1990:宍道湖湖底下完新統の花粉群.島根大学地質学研究報告,9,117-127.

中村唯史(2006)斐伊川の古地理に関する最近の新知見.島根県地学会誌,21,17-20.

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