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出雲市の自然史

■出雲市北浜地区の自然史

写真0 打ち寄せる日本海の荒波

地形の概要

 初めて北浜の地を訪れた旅人は、その絶景に驚きと感動を覚えることだろう。切り立つ急崖。眼下では青い波がうねり、岩に砕けて白く泡立つ。目線を上げると水平線を境に接する海と空のふたつの青が視界いっぱいに広がる。海上にぽつんと浮かぶのは漁船だろうか。振り返れば山肌を覆う木々の深い緑。湾奥の斜面には家屋が寄り添うように建ち、緑の中に屋根の赤瓦が映える。急峻な山の連なりと、その先の日本海。この環境が当地の歴史と文化を育んできたのだ。

 北浜地区は島根半島の一角に位置する。島根半島は中国山地と平行して東西に延び、その南側には出雲平野、宍道湖、中海、弓ヶ浜半島を抱く。全般に直線的で変化に乏しい山陰海岸にあっては当地一帯の地形は異質とも感じられる。島根半島の急峻な山々と広い平野、潟湖。島根半島を中心とする地形環境は出雲神話に象徴される古代文化の成立にも深い関わりがあると思われる。

写真1 唯浦の景観

写真1 唯浦の景観。急峻な山が海に迫り、湾奥の狭い緩傾斜地に家屋が集まっている。

 北浜地区を含む島根半島の地形は次の特徴がある。
 島根半島の山並みは、東西方向に延びる三列の山系と、嵩山・和久羅山の山塊に大別できる。3列の山系とは、日御碕から旅伏山(456m)東麓の国富町あたりまでの西列、十六島鼻から朝日山(342m)までの中列、松江市鹿島町の大堀鼻から美保関地蔵鼻までの東列である。これらの山系は空を飛ぶ雁の群れのように、少しずつずれながら平行している(図1)。

図1 島根半島の地形

図1 島根半島の地形。島根半島は山がちの急峻な地形で、西列、中列、東列の3山系に区分することができる。

 北浜地区は三山系のうち中列の西部にあたる。中列は尾根部が北に著しく片寄っている。そのため、尾根の北側、すなわち日本海側は急傾斜である。とりわけ、塩津海岸から標高415mの摺木山までは急傾斜である。平均勾配は20度を超え、海岸部では比高100mに達する急崖が発達する。北浜地区は小津地区を除いて尾根の北側にあたり、全般に急峻な地形である。

 中列山地の尾根の南側は、出雲平野または宍道湖の北縁からなだらかな丘陵地が続き、全体に傾斜が緩やかである。尾根の南北を比べると北浜地区の地形的特徴が浮かび上がる。北側斜面は河川がほとんどなく、平坦地にも乏しいことから住宅地や農地として利用可能な場所が限られる。そのため、集落は傾斜地やごく小規模な平坦地を利用して展開している。一方、南側斜面では幾本もの河川が流れ、その谷底には小規模ながら谷底平野が発達し、水田などに利用されている。また、丘陵地では畑地や果樹地として利用されている。

 中列山系以外の島根半島の地形は、次の特徴がある。西列は北山山系とも呼ばれ、全体に急峻な地形である。尾根が南に片寄っており、出雲平野からみると南斜面が屏風のように迫り、山並みがそびえ立つ印象を受ける。東列は日本海に面した海岸はリアス式海岸の特徴が顕著で、中小の湾が複雑に入り組み、小島が点在する。嵩山・和久羅山の山塊は500万年前頃に形成された火山体の名残で、島根半島では最も若い岩体である。西列、中列、東列からなる地形を作り出したのは、東西方向に延びる断層や褶曲構造を生み出した地盤変動である。3山系の境界は、断層や褶曲軸で区切られており、例えば中列山系と東列山系の境界をなす鹿島低地には境水道付近まで連続する宍道断層が通っている。これらの地形は、日本列島の成立にまで遡る壮大な自然史を秘めている。

険しい海岸地形

 十六島鼻から美保町にかけては海岸線が直線的で、急崖が連続する岩石海岸である。北西季節風が吹き荒れる冬季、荒波が繰り返し押し寄せ容赦なく叩きつける。この波の力が険しい海岸地形を創出する。その険しさは、出雲平野や宍道湖の低平な地形とは対照的である。

 波が打ち寄せる海岸の背後には急崖が迫る。断層によってできた崖が波の力によってさらに削られた海食崖だ。釜浦、塩津では海食崖の高さは30mにも達し、さらにその上方に急斜面が続く。波打ち際が浸食されると上部の斜面は不安定になり、やがて崩れ落ちる。それを繰り返すことで波の力が直接およぶ範囲よりもはるかに高い崖が形成されたのだ。

 波の力が崖が削っていくと、削り取られた部分には平坦な岩場が残される。海食台または波食台と呼ばれる地形である。平坦面は各所でみることができるが、特に十六島湾に面した海岸によく発達している。波浪の浸食作用は海面より高い部分では強く働くが、水面下にはあまり影響を及ぼさない。波によって削られるのは海面より上の部分だけで、海面下は取り残されるのだ。こうして海面の高さとほぼ等しいテラス状の平坦面が生まれる。

 当地の海食台では冬季にノリ漁が行われる。波に洗われる海食台に良質なノリが育ち、当地の特産品になっている。岩ノリは正月の「海苔雑煮」など、出雲地方の食文化にも欠かせない存在である。出雲國風土記には「但紫菜者、楯縫郡尤優也」とあり、出雲国で採れるノリのうち、当地のものが最も良質とされている。その岩ノリは十六島の名を冠して「ウップルイノリ」と呼ばれる。それは地方名ではない。ウップルイノリは食用にされるノリの代表種であり、その名は標準和名なのだ。荒波は当地の険しい海岸地形を創出すると同時に、全国に誇る特産の岩ノリを育むのである。

写真2 十六島の海岸地形

写真2 十六島の海岸地形。地層面に沿って岩盤が崩落し、崖の傾斜と地層が平行している。急崖の下には海食台が広がり、ノリ場を採りやすいようにコンクリートが張ってある。

十六島湾

 十六島湾は島根半島で最も大きな湾である。この湾は島根半島を構成する三列の山系のうち、中列と西列を隔てる低地の延長にあたり、北岸には十六島鼻の、南岸には北山の急峻な山並みがある。湾口は西に向かって大きく広がる。

 湾内の様相は、港湾として整備されている湾奥側と、大部分が自然海岸からなる湾口側で大きく異なる。湾奥側には幾重もの防波堤で囲まれた港内に埋立地が広がり、港湾施設が並ぶ。河下港はかつては鰐淵鉱山からの石膏の搬出で賑わい、現在も出雲地方の拠点的な商業港である。湾奥の海底は水深6〜8mの部分が広く、底質は海岸近くでは岩石質、湾の中央部では砂質である。海底は港湾整備に伴う改変箇所がある。航路にあたる部分は水深を確保するための浚渫が行われている。防波堤や埋立地の建設によって沿岸流が変化し、以前は岩石質だった海底に砂の堆積が進行している部分もある。

 一方、湾口側は人工的な改変が少なく、自然海岸が大部分を占める。北岸の十六島町側は岩石海岸で浜はあまり発達していない。南岸の河下町から猪目町一帯は礫浜が発達する。海底地形は、北岸は急深で南岸はやや遠浅である。湾の中央部では、沖防波堤付近では水深10m未満、湾口付近では水深35m前後でごく緩く傾斜している。底質は、岸近くでは礫や岩礁が主体である。急深な北岸では岸から100m程沖合で砂質の海底に変化し、遠浅な南岸では500m以上沖まで礫と岩礁が分布する。湾央部は砂質の海底で、全体になだらかな地形である。

 十六島湾から外海へ出ると、そこは対馬海流の枝流が流れる海域だ。暖かい海流は島根半島をかすめるように流れ、気候にも影響を与える。暖流の影響で、当地一帯は内陸に比べると温暖で、気温変化が小さい気候である。

写真3 猪目側からみた十六島湾

写真3 猪目側からみた十六島湾。西に大きく開口した湾は島根県を代表する港湾として利用されている。

地質の特徴

 北浜地区の各所で目にする幾重にも層をなす地層。地層には大地の歴史が刻まれている。当地の地層は2000万〜1400万年前頃に海底で形成されたものである。それは地質の時代区分では新生代第三紀中新世の中頃にあたる。海底に堆積した地層は、断層や褶曲を生んだ地盤の構造運動によって隆起し、その過程で大きく傾いた。それは10〜40度の傾斜で南に傾いていることが多く、塩津から美保町にかけての海岸部だけは逆に北に傾いている。

 地層は同時期に形成されたもの毎に細かくグループ分けされ、それぞれに名前が付けられている。当地に分布している地層は、古い方から順に「成相寺層」、「牛切層」、「古江層」の三グループである(図2)。島根半島全体では成相寺層より古い「古浦層」と、古江層より新しい松江層を加えて五グループに区分されている。地層名に付けられた地名は、その地層が典型的に分布する場所(模式地)を示している。

図2 北浜地区周辺の地質分布

図2 北浜地区周辺の地質分布。当地には日本海が拡大しつつあった新第三紀中新世の地層が分布している。「新編島根県地質図(20万分の1)」、新編島根県地質図編集委員会(1997)をもとに作成。

 成相寺層は釜浦町以東の海岸部に分布し、頁岩と凝灰岩類からなる地層である。頁岩は新鮮なものは黒色をしているが、地表では風化して黄褐色を呈することが多い。凝灰岩類は流紋岩〜デイサイト質で、淡い緑色を帯びる。緑色の凝灰岩はこの時代の海底火山の噴出物に特徴的なもので、「グリーンタフ(緑色凝灰岩)」と称される。

写真4 グリーンタフ

写真4 海岸に露出するグリーンタフ。岬状のせり出し部分の中央に緑色の緑色凝灰岩が露出する。凝灰岩が熱水変質を受けた岩石。

 牛切層は当地に最も広く分布する地層である。砂岩と泥岩が交互に重なる砂泥互層が特徴である。砂泥互層は、地震によって海底で地滑りが発生し、普段は泥が堆積している海底まで砂が運ばれて形成されたもので、砂と泥の繰り返しは地震が頻繁に起きたことを示している。牛切層が露出する小伊津町の海食台には洗濯板を思わせる凹凸が発達する。柔らかい泥岩の部分が浸食され、砂岩が残ったために凹凸が形成されたもので、同様のものでは宮崎県青島海岸の「鬼の洗濯岩」がよく知られている。当地でも小規模ながら洗濯岩状の海食台をみることができる。

 古江層は小津町の一部に限って分布し、泥岩を主体とする地層である。本層は当地から宍道湖北岸、松江平野北部にかけて帯状に分布している。宍道湖と出雲平野の南側には本層に連続する「布志名層」が分布し化石を多産するが、島根半島側では化石は少ない。

 北浜地区の地層が形成された新第三紀中新世は、日本列島が大陸から離れ、日本海が生まれた時代である。成相寺層は広がりつつあった日本海の深い部分で形成されたものである。牛切層は成相寺層よりも陸地に近い部分で形成され、古江層は内湾的な浅く静かな海で形成された。当地の地層は日本海形成の大変動の歴史の一端を物語っているのである。

写真5 小伊津の砂泥互層

写真5 小伊津の砂泥互層。海岸の急崖に砂岩と泥岩の見事な互層が露出している。海食台は「洗濯岩」状になっている。日本海形成期の地殻変動を物語る地層。

北浜の地史1「日本海の形成」

 地球誕生から四六億年。私たちの感覚ではつかみ所がないほど長い時間だ。長い長い地球の時間。不動とも思える大地の姿も、地球的なタイムスケールではめまぐるしく変化する。海岸に打ち寄せる日本海の波。寄せては引き、悠久の昔から変わることなく繰り返されているかのようだが、日本海の誕生すらも地球の時間ではごく最近の出来事なのだ。私たちが目にする自然景観は、刻々と動き変わり続ける大地の一瞬の姿なのだ。

 2500万年前。ユーラシア大陸の東には太平洋が広がり、そこに日本列島の姿はなかった。大陸の東端では火山が噴煙を上げ、その活動は次第に激しさを増した。それは日本海と日本列島が形成される大規模な地殻変動がはじまる合図だった。

 日本海の原形が概ね完成したのは1500万年前頃。火山噴火を合図に始まった地殻変動によって大陸の一部が裂けるように開き、裂け目が日本海になった。引き裂かれて移動した大陸の岩盤の一部が日本列島の土台である。およそ2500万年前に始まり、およそ1000万年をかけた大変動だ。この変動をもたらした大地のエネルギーの一部は火山活動として地表に現れ、激しい噴火が繰り返された。島根半島にはその火山活動によって形成された岩石が多く分布し、荒々しい地殻変動の歴史を暗示する。

 岩盤を押し広げて日本海を形成したメカニズムを解釈する説として、地下深部から巨大なマグマの塊が上昇してきたという「プリューム説」が提唱されている。この説は、直径100km以上もの巨大なマグマがマントルの深部からぽっかりと浮かび上がり、大規模な地殻変動を引き起こしたというものだ。巨大なマグマの塊がマントルの上部まで上昇することによって地殻が押し広げられて裂け、マグマの一部は地殻の割れ目を伝って地表まで達し火山活動をもたらしたという。現在、アフリカの大地溝帯では大陸が引き裂かれつつあり、内側にはいくつもの火山が列をなしている。この変動もプリュームによると考えられている。日本海形成の初期には、大地溝帯とよく似た風景が広がっていたと想像される。その時、広がり始めた地溝帯の低所には水が溜まり、湖が出現した。島根半島に分布する地層で最も古い古浦層はこの段階で淡水から汽水の湖で形成された。古浦層からはシジミの仲間の化石が産出し、地溝帯に湖が存在したことを示している。

 ユーラシア大陸の東縁に出現した地溝帯。それは次第に広く深くなり、溝の端から少しずつ海が侵入しはじめた。いよいよ日本海の誕生である。海底でも火山は盛んに噴火を繰り返し、海は拡大を続けた。成相寺層は深い海の底で噴出した火山灰が堆積した凝灰岩類や、火山岩を伴っている。また、海底の火山活動によって形成された黒鉱鉱床が島根半島に点在しており、かつて日本一の石膏鉱山として栄えた鰐淵鉱山はその代表といえる。

 日本海の広がりによって、日本列島の原形は現在の位置へと移動した。その時、西日本と東日本では動き方が少し違っていたと考えられている。それは、両開きの扉が開くような動きであった。西日本は時計回り、東日本は反時計回りに回転しながら別々に移動し、フォッサマグナ部分で合わさったのである。

 こうして、1500万年前に日本海と日本列島はほぼ現在の位置に落ち着いた。しかし、当時の日本列島は現在とは全く異なる姿だった。島根半島付近はまだ海底にあり、牛切層の堆積が進行していた。中国山地もまだない。地形が現在の姿になるまでには、まだ長い時間が必要なのである。

写真6 成相寺層の頁岩の露頭

写真6 成相寺層の頁岩の露頭。形成されつつあった日本海の海底に堆積した地層。鰐淵地区ではこの地層中に黒鉱鉱床を胚胎している。

北浜の地史2「島根半島の隆起」

 日本地図を広げて日本海側の海岸線を九州から北海道まで見渡すと、島根半島がかなり目立つ存在であることに気付くだろう。山口県西部から丹後半島までの山陰海岸は全般に直線的だが、この部分だけに東西に延びる島根半島の山列が孤立して存在する。そして、山陰海岸は島根半島を頂点に「ヘの字」になっている。海底地形にも注目すると、島根半島から隠岐へ向かって馬の背状の高まりがあり、それは隠岐よりもさらに先まで続いている。これらの地形をみると、島根半島の成立には中国山地を生んだ大地の大きな力と関係があるように思われる。

 島根半島の地層は大部分が海底で形成されたものである。北浜地区に広く分布する牛切層が堆積したのはおよそ1500万年前。それが標高400mを超える山地に露出しているので、その隆起量は小さく見積もっても1500万年間で500m以上に達することになる。島根半島に何本も走る断層を伴う構造運動がこれほどもの隆起を生じさせ、急峻な山並みが誕生したのだ。

 島根半島を隆起させた構造運動。そのエネルギーはプレート運動に起因する。プレートとは大陸や海洋底を作っている固い岩盤のことで、何枚かの断片に分かれて地球の表面を覆っている。プレートはその下にあるマントルに浮かんだ状態である。マントルはゆっくりと対流しており、プレートはその流れに乗って動いている。プレートはゆっくりと動き続けながら互いにぶつかり合ったり、一方の下に潜り込んだりし、マントル対流の上昇部では新たなプレートが生まれている。日本列島付近ではフィリピン海プレートと太平洋プレートという海洋プレートがユーラシアプレートにぶつかり、その下に潜り込んでいる。

 海洋プレートが移動する早さは年間で数センチで、非常にゆっくりとした動きと思える。しかし、100万年、1000万年という地球史的なタイムスケールでみると、その間の移動量が大きなものであることに気付く。その運動によって日本列島付近の地盤は押され、強大な力が加え続けられている。この力こそが構造運動のエネルギーなのだ。伝わった力によって岩盤は曲げられ、壊れ、ずれる。この変形が繰り返されることで山脈が形成される。島根半島の隆起をもたらしたのも同じ力である。

 あらためて中国地方の地形をみてみよう。島根半島を頂点とした山陰海岸の屈曲は、中国山地の軸の曲がりとも共通する。海洋プレートの運動で加えられた力の伝わり方が、中国地方の東西で少し異なるためにこのような地形になったとみられる。島根半島付近はその境にあたる。ここでは局所的に歪みが蓄積され、地盤を圧縮する力が南北方向に加わったのだ。この力が1000万年以上に渡って加わり続け、東西方向の断層や褶曲を生じながら地盤が隆起し、島根半島の山々が形成されたのである。

写真7 三瓶山山頂からみた島根半島の急峻な山並み

写真7 三瓶山山頂からみた島根半島の急峻な山並み。その先には隠岐の島影がかすかに見えている。

北浜の地史3「出雲平野と宍道湖の形成」

 島根半島の南側には出雲平野と宍道湖が広がる。外海に面して急峻な北浜地区とはがらっと趣が異なる景観だ。これらの地形は古代から出雲の歴史と文化に関わりが深く、隣接する北浜地区の人にとってもふるさとの風景のひとつと言えるだろう。

 出雲平野と宍道湖の形成にいたる自然史のタイムスケールは数千年からせいぜい数万年である。島根半島が隆起するまでの時間に比べるとケタ違いに若い地形だ。地球史的には「ごく短い時間」で広い平野と湖が形成された要因は、気候変動と河川による堆積作用である。その要因はこの地域に限ったものではなく、全国の沖積平野は同時進行的に形成された。出雲平野の場合、その形成には火山活動と製鉄に関連した人の活動という2つの大きな要素が加わり、全国的にも例をみない稀な地形発達史を持っている。

 気候変動が出雲平野と宍道湖の形成に関わる要因という理由は次のようなものである。地球は過去に幾度もの氷期を繰り返してきた。氷期には海面が大きく低下し、陸上では谷の浸食が進む。氷期が過ぎ、温暖な気候になると海面が上昇し、谷の末端は水没して湾に変わる。その湾に川や沿岸流によって土砂が供給されて堆積することで沖積平野が形成され、湾の一部が海から遮断されて取り残された水域は潟湖と呼ばれる。つまり、気候変動によって海面高度が変化することで沖積平野と潟湖が形成されるのである(図3)。

図3 出雲平野・宍道湖一帯の古地理変化

図3 出雲平野・宍道湖一帯の古地理変化。最終氷期以降の環境変化によって低地の環境は大きく変化した。原図は中村(2006)

 地球に訪れた今のところ最後の氷期は、10万年前頃に始まり一万年前に終わった。この期間で最も寒かったのは2万年前頃で、当時の海面はおよそ100mも低下していた。出雲平野と宍道湖の地下にはその頃に形成された谷地形が埋もれている。この谷は東から西へ深くなっており、松江付近から流れでた川が斐伊川、神戸川と合流して大社湾側の海に流れでていたことがわかる。1.1万年前に氷期が終わった時、海面は40mほど低い位置にあり、その後の温暖化とともに海面は急速に上昇した。7000年前には現在とほぼ同じ高さまで達し、大社湾から松江平野付近まで続く広い湾が出現した。出雲平野から宍道湖の一帯が海だったのである。

 7000年前以降、斐伊川と神戸川が運んだ土砂が湾に堆積して平野の拡大が始まった。その過程で、火山噴火と製鉄により土砂の供給量が著しく増大した時期があり、出雲平野の地形発達に大きな影響を及ぼした。

 神戸川の流域にある三瓶山は火山である。約5500年前と約4000年前の活動では、多量の噴出物が神戸川にもたらされ、泥流や洪水によって河口部まで運搬された。神戸川下流にあたる出雲平野西部では、地表近くに三瓶火山の噴出物に由来する土砂の厚い地層が広く分布している。このことは、三瓶火山の活動に伴って平野が急激に拡大し、現地形の原形を形作ったことを意味している。周辺には、平野が一気に広がっていく光景を、驚きと恐怖を感じながら見ていた縄文人がいたはずだ。それまでは湾の対岸だった島根半島も広がった平野によって陸続きとなり、国引き神話の物語さながらの光景だったと思われる。

 弥生時代に水稲農耕が伝わると、人々にとって平野の利用価値が高まった。すでに出雲平野はかなりの広さを持っており、遺跡の分布からあちらこちらに集落があったことがわかる。その後、製鉄技術が大陸から伝わると、砂鉄を使った製鉄が行われるようになり、斐伊川流域は全国でも屈指の製鉄地帯へと発展する。山を崩した砂を川に流して砂鉄を集め、木炭を燃料として製錬が行われた。特に江戸時代には盛んに行われ、斐伊川には製鉄に伴って直接または間接的に排出された砂が大量にもたらされた。この砂が出雲平野の拡大を促したのである。砂は洪水の原因となり、中〜下流では毎年のように氾濫した。平野部では頻繁に川の付け替えを行なって洪水を防ぐとともに、宍道湖の浅瀬に砂を導いて半人工的な埋め立てを行なった。多量の砂による平野の拡大と、川の付け替えの痕跡は現在の地形や堆積物に認められる。地形では旧河道の微高地が幾条もあり、堆積物では鉄さいの有無で製鉄の影響で排出された砂を識別できる。以上のように、出雲平野の地形発達には、自然の力である火山活動と、産業としての製鉄の二つが大きく影響しているのだ。

 出雲平野の発達は、宍道湖形成の歴史でもある。最終氷期以降の海面上昇によって宍道湖一帯に海が広がりはじめたのは1万年前頃である。水域が最大に広がった7000年前には周囲の平野の大部分が湾の一部になっていた。その後、平野の拡大によって湾の入り口が狭まり、汽水環境へと変化した。三瓶火山が活動した4000年前頃には外海との直接の連絡を絶たれたが、湾奥の大橋川を通じて中海から海水が流入するため、汽水の環境は継続した。江戸時代には大橋川から海水が入り難くなり、淡水に近づいたが同時に氾濫することも多くなった。そこで、直接海に通じる佐陀川運河が開削され、再び汽水環境となって今日に至っている。

写真8 出雲市西林木町の鳶ヶ巣山からみた出雲平野と宍道湖

写真8 出雲市西林木町の鳶ヶ巣山からみた出雲平野と宍道湖。出雲平野の地形発達には三瓶山の噴火と製鉄が大きな影響を及ぼした。

自然がもたらす災害

 突如自然が牙を剥く。自然は時に災害をもたらす。急峻な地形が続く北浜地区では、崖崩れや土石流といった土砂災害が生活を脅かすことがある。北浜地区には全般に急な崖が多い。特に海岸に面した斜面は垂直に近い崖もある。集落の背後や道路の傍らに切り立った岩壁が迫り、その崩壊は人命にも関わる災害に直結する。

 急傾斜の斜面は不安定である。岩盤が硬い岩石からなる場合でも、崩れの原因となる顕在的、潜在的な割れ目を持っている。例えば、節理と呼ばれる亀裂、断層、そして地層の境界面などだ。これらが雨水の浸入による風化で滑りを生じたり、凍結によって開口すると崩落につながる。また、地震の強い揺れによって岩盤が緩み崩落することもある。そのような崩壊の危険を回避するために様々な対策工が施されている。崖面からの落石を防ぐためには、金属ネットで覆ったりモルタルの吹きつけが行われる。大きな崩壊や地滑りが予測される箇所では、鋼鉄製のワイヤーを地中に張って岩盤を固定したり、井戸を設置して地下水を排出する方法が採られる。地区内の斜面には状況に応じてこれらの対策工が施されていることが多い。

 相代川のように急勾配の渓流では土石流が発生する可能性がある。土石流は水と土砂が一体となって滑り落ちる現象で、大きな破壊力を持つ。土石流が発生するメカニズムは次のようなものだ。谷に面した斜面が崩壊し、その土砂によって一時的にせき止められた状態になり水が溜まる。それが決壊すると多量の水と土砂が一気に排出されて土石流となる。急傾斜の谷底に堆積した土砂や倒木が土石流を引き起こすこともある。土石流の予兆現象として、川が急に濁ったり、流量が急減したりすることが知られている。急な濁りは斜面の崩壊、流量の現象はせき止めが生じたことを示している可能性が高く、要注意というわけだ。ちょっとした情報が災害の危険から身を守ることにつながると言える。

 土砂災害以外にも自然の脅威には様々なものがある。地震もその一つだ。島根県は過去の地震被害が比較的少ない地域である。しかし、そのことが明日の安全を保障しているわけではない。島根半島は地盤変動によって隆起してできた地形で、新旧何本もの断層が存在する。断層は地震によって地盤がずれた傷跡だ。同じ断層が繰り返しずれることも少なくない。

 地震は地盤が破壊する現象である。日本列島の地盤は海洋プレートによって押され続けている。その力で歪みが生じ、限界に達すると地盤が破壊されて地震が発生する。歪みが蓄積されやすい場所では幾度も地震が発生し、同じ断層を動かすことが知られている。地震の頻度は場所によって異なるが、新しい断層は再活動する可能性が高いと考えられる。そこで、過去260万年(第四紀更新世以降)に活動した断層は将来も再び動く可能性がある生きたものとして、「活断層」と呼ばれている。この定義に当てはまる断層の全てが確認されているわけではなく、断層が存在しない場所で地震が発生する可能性もあるのだが、活断層がある地域は要注意ということは言えるだろう。

*活断層は、「過去数10万年間に活動したもの」とする定義もあるが、広義には「第四紀」に活動したものを指す。

 北浜地区には十六島湾の海底から小津町を通り東へ続く「万田断層」があり、活断層と考えられている。島根半島には他にも多くの活断層があり、中でも松江市北部を東西に走る「宍道断層」は規模が大きく活動性も高い。これらを震源とする地震が発生した時には大きな被害が発生するかもしれない。また、遠隔地で発生した地震でも、その規模が大きな場合には被害を被る可能性がある。例えば1872年の浜田地震(マグニチュード7.1)では、北浜地区では目立った被害の記録はないが、出雲平野では液状化現象が発生していることから強い揺れがあったことが判る。

 地震が発生した場合、北浜地区で予測される被害は家屋の倒壊や変形に加えて前述の土砂災害がある。強い揺れで崖崩れが生じたり、緩んだ地盤が水を含んで崩壊することが予想される。また、海岸部では地震に伴う津波も脅威である。地震はいつどこで発生するかを予測できないので、事前に非難することは不可能である。それだけに日常の用心が大切なのだ。

 土砂災害や地震の他にも、台風や竜巻、高潮、豪雨、豪雪など、自然現象がもたらす災害には様々なものがある。思いもよらない現象が起ることがあるかもしれない。これらの現象を未然に防ぐことは出来ないが、被害を最小限に食い止める工夫は出来るだろう。それには、防災用品の準備や避難経路の確保などに加えて、自分が暮らしている地域の地形や地質などの特徴を知っておくことも大切だ。また、過去の災害は、将来起り得る現象とその対処方法を教えてくれる教訓と言える。

写真9 釜浦の急崖

写真9 釜浦の急崖。崩落を防ぐための対策工が施されている。北浜地区は急傾斜地が多く、落石災害が少なくない。

北浜の気象

 空が黄色くかすむ春、水平線に入道雲が立つ夏、筋雲うろこ雲が高くなびく秋、荒波猛る冬。自然豊かな北浜地区では鮮やかに移り変わる四季を感じることができる。

 山陰の一角に位置する北浜地区は、日本海型の気候帯に属する地域である。日本海型気候の特徴は冬季の多雨多雪にあり、海を越えて吹きつける北西季節風の影響が大きい。東アジアから太平洋にかけての広範囲な大気の動きが当地の四季と密接な関わりを持っているのだ。

 山陰の冬は雲に覆われる時間が長く、しばしば雨や雪が降る。観測記録を山陽と比べると、冬季の日照時間と降水量に明らかな差がある(図4)。山陰の冬は日照時間が短く降水量が多い。その違いの原因が北西季節風である。これはシベリア高気団が吐き出す冷たい風だ。冬季のシベリア一帯は強く冷え込み、冷えて重くなった空気は下降気流を生じる。降りてきた空気は周囲へ流れ出し、その一部が日本海を越えて吹きつける北西季節風になる。この風は海を渡る時に海面から蒸発した水蒸気を取り込む。この水蒸気によって海上で幾つもの積乱雲が生まれ風に運ばれる。風が山陰の陸地にぶつかるとそこでも雲がわき起こる。これらの雲が雨と雪をもたらすのである。上空を海上で発生した雲が次々に通り過ぎるため、降ったり止んだりの時雨模様になる。時雨は日本海側に特徴的な気象だ。

図4 出雲市と広島市の気象

図4 出雲市と広島市の気象。日本海型の気象帯に属する出雲市は冬期の降水量が多い。気象庁のアメダス観測資料を元に作成。「出雲・雲南ふるさと大百科」郷土出版社(2008)に初出。

 シベリア高気団が南へ張り出すと一際冷たい風が吹き荒れる。寒波だ。冷たく湿った風で積乱雲が厚く発達し、しばしば雷が発生する。冬の雷も日本海型気候に特徴的な現象である。この雷は低く垂れ込めた雲の中で長く轟き、「雪おこし」と呼ばれる。そして、気温が下がると本格的な雪になる。北極を中心とする寒気の波動の影響で、1、2月は概ね1週間の周期で寒波が押し寄せる。

 寒気が緩み春の陽が差しはじめるのは3月上旬である。時期を同じくして黄砂が舞う日が多くなる。黄砂は微小な岩石の粒が主体で、アジア内陸部の乾燥地帯から風に運ばれてくる。春はアジア内陸が強く乾燥することと、日本列島付近の偏西風の影響が大きくなることが黄砂飛来の大きな理由である。黄砂は梅雨の頃までしばしば飛来し、夏以降は少なくなる。

 本格的な春が訪れるのは3月下旬である。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、春の彼岸を過ぎる頃からソメイヨシノのつぼみがふくらみ、3月末から4月上旬に花開く。その花が散る頃からゴールデンウイーク頃にかけては夏と並んで天候が安定する時期で、晴れる日が多い。6月上旬からは梅雨に入り、7月下旬まで続く。梅雨は東南アジアから吹き込むモンスーンが暖かく湿った空気を運ぶことで生じる気象現象で、蒸し暑く雨がちな天候が続く。梅雨末期には湿った空気の影響が強まる「湿舌」という現象によって大雨が降りやすい。山陰の豪雨災害の多くはこの時期に発生する。7月下旬、太平洋高気圧が勢力を増すとともに梅雨が明け、夏空が広がる。

 夏はよく晴れ暑い日が続く。北浜地区は海風のおかげで平田や出雲の市街地に比べるとしのぎやすい暑さだ。しかし、南風が吹くとフェーン現象によって気温がぐっと高くなることもある。
 夏が終わりに近づくとともに日本列島付近を台風が通過することが多くなる。台風が勢力を保ったまま対馬海峡を抜けて日本海に入り、山陰海岸に沿って東に進むと山陰地方が大きな被害を受ける可能性がある。特に山陰付近に秋雨前線が停滞している時には大雨になりやすい。台風の影響による豪雨もまた大きな被害をもたらすことがある。

 10月に入ると台風の発生数は減少し、爽やかな好天に恵まれる日が多い。実は、山陰地方は年間を通じて雨の日が多いようなイメージがあるが、春から秋にかけての期間は日照時間、降水量とも山陽地方とそれ程変わらない。曇りや雨の日が極端に多いのは冬期だけなのである。冬の特徴である時雨模様の空が現れはじめるのは11月上旬。中国山地の山間部では紅葉が見ごろを迎える頃だ。この頃から一雨毎に寒くなり、11月下旬には北浜地区の木々も落葉して冬支度をはじめる。そして、海の向こうからちぎれ雲が次々に流れてくるようになったら、冬本番である。

写真10 夕焼けの宍道湖

写真10 夕焼けの宍道湖。摺木山の向こうに日が沈む。

風力発電

 十六島鼻から東へ続く尾根には24基の巨大な風車が立ち並ぶ。島根半島上空を吹き抜ける風の力で電気を起こす風力発電所である。

 風は太陽からの放射熱で生じる大気の循環だ。暖められた空気は上昇気流を、冷えた空気は下降気流を生じる。それによって、地球規模の大循環から局所的な空気の流れまで、様々な規模の風が発生する。風力発電は太陽の熱エネルギーを間接的に使って電気に変換するもので、そのエネルギー源はほぼ無限と言える。実は、火力発電に用いる化石燃料、水力発電に用いる水の落下エネルギーも太陽の熱エネルギーが形を変えたものという点では同じだが、化石燃料には限りがある。水力は昔から発電に用いられていることからわかるように、風力よりも使いやすく、循環型のエネルギー源である。

 風力発電では風車の回転を発電機に伝えて発電する。発電機は電線を束ねたコイルを磁力が働く場で回転させることで電気を発生させる。その仕組みは火力、原子力、水力の主要発電も同じである。ところが、主要発電ではエネルギー源を調整することで発電量を制御できるが、風力発電は風任せである。なるべく安定的に電力を供給するためには、季節、時間を問わず風が長時間吹く場所に風車を設置することが欠かせない。その点、地形的にさえぎるものがなく、海風と陸風が行き来する北浜地区の尾根は風力発電に向いた条件といえる。

 風力発電所は世界的に設置が進む傾向にある。発電時の環境負荷が小さく、資源量に限りがないことから、化石燃料に代わるエネルギー源のひとつとして利用が拡大しているのだ。ビルの屋上などに小規模な風力発電機を設置し、自家用電力の一部を補う事例も増えてきている。風力は利用が拡大しつつある一方、制約もある。ひとつは、立地の制約である。風力発電所は風の条件が良い場所に設置する必要があるが、山がちな日本列島では四方からの風を受けられるのは尾根や岬などに限られる。
そのような場所を開発することは自然環境や景観に少なからず影響を及ぼすので、設置にあたっては慎重な議論が必要になる。もうひとつは電力供給の安定性である。発電量が風に左右されるため、補助的な発電システムの域を脱し得ないという弱点がある。とはいえ、化石燃料中心の社会から、環境負荷が小さく持続的な開発が可能な社会構造への転換が求められる時代にあって、風力への期待は大きい。他の発電方法との併用による総合的な電力供給システムを構築することで、風力電力の重要性は今後さらに高まると思われる。

写真11 北浜地区の山地に立ち並ぶ風車

写真11 北浜地区の山地に立ち並ぶ風車。風力発電は化石燃料に代わる電力源のひとつとして期待されている。

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