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出雲市の自然史

■神戸川の自然史

はじめに

 出雲國風土記が伝えるくにびき神話。神戸川は壮大な物語の舞台を流れる。
 その物語。出雲の国を初め小さく作りし八束水臣津命は海の彼方より国を引き寄せた。寄せた国は八穂米支豆支の御碕、すなわち島根半島北山日御碕。「堅めて立てし加志は、石見国と出雲国の堺有る、名は佐比売山、是なり」。すなわち国を留めた杭は三瓶山。そして引いた綱は大社湾岸の薗の長浜がそれに見立てられる。古代の人は山野の配置を見事に物語に織込んだ。
 神戸川の自然史も物語に劣らず壮大である。その共演者は三瓶山。縄文の昔、神戸川は大社湾から宍道湖まで続く内海に注いでいた。北山の峰々は海を隔てた対岸。ある時、大地を揺らす地響きとともに三瓶山が火柱をあげると間もなく、おびただしい砂泥を含んだ激流が神戸川を流れ下った。激流は幾度も押し寄せ、川岸にあった縄文人の生活も、森も、すべてを砂泥の下に消し去った。三瓶火山の噴火がもたらした大洪水。やがて山河に静けさが戻った時、川辺に帰ってきた人々は河口がはるか先に遠ざかり、海の向こうだった北山の裾まで届く所まで土地が広がっている様を目撃した。砂泥が海を埋め、新しい土地が生まれたのである。圧倒的な力を見せつける自然の作用。
 神戸川と三瓶山が創出した土地は、水稲技術が広まる弥生の頃より生活の場となった。激流が残した砂の高みにはムラが営まれ、雨水が滞る低地には水田が造られた。原野は肥沃な穀倉地となり、川と海は魚介をもたらし、そこに古代の文化が育まれた。人は自然の中にあり、文化は自然とともにあった。人々は自然の形と力に神をみて物語を紡いだ。
 いにしえの昔、川の流れは生活の傍にあった。流れは絶えることなく今日まで続いているが生活の変化とともに人と川のかかわりは希薄になったと思われる。しかし、形を変えながらも流域の暮らしは川の恩恵を受けている。現代も自然史と歴史の一断面。神戸川の物語は未来へと続いている。

1.地形と地質

(1)流域の概要

 神戸川は中国山地の山々に流れを発し日本海へ注ぐ。広島県との県境にあたる飯南町上赤名の女亀山の水源が源流とされ、幾つもの流れと合わさりながら山間を北へ流れる。立久恵峡の峡谷を過ぎると間もなく出雲平野に至り、緩やかに平野を流れて大社湾に面する河口に終着する。延長87キロメートル、流域面積471平方キロメートルの河川である。その流域は南北に細長く、飯南町、雲南市(掛合地区と三刀屋地区の一部)、出雲市(佐田地区と出雲地区)および大田市の一部(山口町)がその範囲にあたる。流域人口は約10万人である。平成一八年、斐伊川放水路により下流部が斐伊川と連結されることに伴い、管理上は斐伊川水系に編入された。


G1-1 神戸川の集水域

図1 神戸川の集水域
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(2)源流域の山々

 神戸川が水源とする山のうち、最高峰は大万木山(1218メートル)である。中国山地の脊梁をなす山のひとつで、山頂を広島県との県境が横切る。高所には中国山地屈指のブナ林が広がることで知られる山である。次いで高いのは三瓶山(1126メートル)。脊梁部から離れた独立峰で、中国地方で最も新しい火山である。その火山活動は神戸川を通じて出雲平野の形成に大きな影響を及ぼした。流域で三番目に高い琴引山(1013メートル)は出雲神話の舞台となった信仰の山で、出雲國風土記ではここが神戸川の源とされている。この三峰までが千メートル級の山である。以下、草ノ城山(976メートル)、沖の郷山(957メートル)、女亀山(830メートル)などがあり、これらの山々に降る雨が神戸川を涵養している。


P1-1 頓原川の源流域

写真1 頓原川の源流域


(3)上流域の盆地

 女亀山から流れ出た神戸川は間もなく平坦な赤名盆地に至る。この盆地は標高400〜500メートルの平坦地を持ち南北に細長い。これは琴引山の北麓を北東−南西方向に走る断層によって流れが遮られて土砂が堆積して出来た盆地とみられる。希少な湿地性植物群落がある赤名湿地は赤名盆地の縁辺部にあたる。盆地縁辺で水はけが悪いことに加え、付近に厚く堆積している三瓶火山の噴出物が赤名湿地の形成に関与しているとみられる。大万木山から流れ出る頓原川は東西に延びる頓原盆地を経て来島ダム(来島湖)で本流と合流する。赤名盆地、頓原盆地とも神戸川上流域の穀倉地帯である。


P1-2 サギソウが咲く赤名湿地

写真2 サギソウが咲く赤名湿地


(4)立久恵峡

 来島ダムを過ぎ、志津見ダムを経て出雲市佐田町に至る中流部は、途中、所々に小規模な河岸段丘が点在するが、全般に狭い谷間を流れる。中流から下流へと差しかかるあたりに立久恵峡がある。垂直に切り立つ比高200メートルを越える断崖が特徴で、景勝地であると同時に貴重な断崖性植物群落の分布地でもある。この峡谷は険しい絶壁と対照的に水の流れは緩やかである。そのことには平野への出口に近く地形勾配が緩やかなことに加えて、岩盤の性質も関係している。当地の岩盤は火山灰と火山礫が固結した火山角礫岩からなる。この岩石は流水に浸食されやすい割りに急崖を維持しやすいため、比較的緩やかな流れでも深い谷を作り得る。また、この岩石は岩肌に凹凸が生まれやすく、急崖に植物が生育する余地を作り出す。このような岩盤の性質が立久恵峡の景観を生んだ要因のひとつと言えるだろう。


P1-3 立久恵峡を流れる神戸川

写真3 立久恵峡を流れる神戸川


(5)出雲平野

 立久恵峡を過ぎると間もなく視界は一気に広がり、出雲平野に流れ出る。この平野は中国山地北縁と島根半島の間に発達する沖積平野で、東西約20キロメートル、南北約8キロメートルの広がりを持つ。この平野は主に神戸川と斐伊川の三角州と扇状地で構成される。平野の西は日本海(大社湾)に面し、海岸部に出雲砂丘、やや内陸側に浜山砂丘が発達する。平野の東には宍道湖がある。この湖は出雲平野によって海から隔てられた潟湖で、全国第7位の水域面積81.8平方キロメートルを有する。平野の南西端には同じく潟湖の神西湖がある。
 出雲市馬木町で平野へ流れ出た神戸川は西へ向かい、出雲砂丘にぶつかって北へ向きを変えた後、日本海へ流れ出る。河口の海岸は延長15キロメートル以上に及ぶ砂質海岸で、眼前に日本海が広がり、北には日御碕、南には三瓶山を遠望できる雄大な景観である。


P1-4 出雲平野を流れる神戸川

写真4 出雲平野を流れる神戸川


(6)地質の分布

 神戸川流域の地質分布は大きく次のように区分できる。中国山地脊梁部の源流域には白亜紀〜古第三紀の酸性火山岩類が分布する。上流から中流域にかけては古第三紀の深成岩が分布する。主に花崗岩と花崗閃緑岩からなり、その分布域では近代まで砂鉄採取が盛んに行われた。中流から下流域にかけては新第三紀の火山岩類と堆積岩類が分布する。この地層の大半は日本列島が大陸から分離し日本海が拡大しつつあった時代に海底と沿岸域で形成されたものである。下流の出雲平野は第四紀完新世の堆積物からなる沖積平野である。海岸部には砂丘が発達し、地点によっては完新世の風成砂層の下に更新世の古砂丘が存在している。流域の西部に位置する三瓶山は後期更新世から完新世に活動した火山である。その噴出物は山体付近のほか、神戸川中〜下流の段丘などに分布している。なお、降下火砕物(火山灰、軽石)の分布は広域に及び、流域の各所で認められるほか、中国地方東部を中心に遠くは東北地方でも確認されている。


G1-2 地質分布の概要

図2 地質分布の概要
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2.流域の自然史

(1)神戸川の誕生


P2-1 中流域の流れ(出雲市佐田町)

写真5 中流域の流れ(出雲市佐田町)


 清流きらめく神戸川。渓谷を削り平野を広げ、出雲地方の自然と人の歴史に幾多のドラマを演出した川である。その流れが端を発したのはいつの時代だろうか。地球の誕生以来、大地は絶え間なく変動を続け、水は一時も留まることなく空と地を巡り続けてきた。その切れ目ない自然の営みに、神戸川が産声を上げた瞬間を求めても答えは見つかりそうにない。しかし、日本列島が現在の姿になるまでに経験した大きな転換期はひとつの目安になりそうだ。その転換とは日本海の拡大。列島の原形が形成され、その後に生じた中国山地の隆起とともに神戸川の流れが始まったといえるだろう。そして変化を続けながら今日の姿に至ったのだ。
 日本列島の形成は2500万年前に遡る。気が遠くなるほどの昔であるが、地球誕生46億年の歴史に比べるとずっと新しい時代。恐竜絶滅の6500万年前よりさらに新しく、700万年前の人類登場よりも古い時代といえば想像の手がかりが得られるだろうか。2500万年前は地質時代では新生代第三紀中新世の初頭にあたる。この時、日本列島はまだ存在していない。ユーラシア大陸の東海岸には太平洋の波が打ち寄せていたことだろう。後に列島の礎となる地盤は大陸の一部だったのである。神戸川の誕生までにはまだ長い時間がありそうだ。
 中新世の初め頃、ユーラシア大陸の東縁部で変化が起きた。火山活動が活発になり、地殻の変動が始まったのだ。幾つもの火山が列状に連なり、やがてそこから大地がゆっくりと裂け始めた。大地の裂け目は谷となり、さらに広がるにつれて海水が入り込み海へと変化した。日本海の原形である。火山の噴火は海底でも繰り返され、海は拡大を続けた。変動が一段落したのは1500年前頃と考えられている。1000万年間にも及ぶ大変動によって日本海と日本列島の原形が生まれたのである。この時、地形は現在とは大きく異なり中国山地すら存在しなかった。邑南町から広島県の三次市、庄原市にかけての一帯にはこの時代の海に生息していた生物の化石を産する地層がある。中国山地の中ほどに海が広がっていたことを物語る証拠だ。
 日本列島の原形が形作られた後、中国山地がゆっくりと隆起を始めた。仮に、脊梁部の1000メートル級のピークが1000万年をかけて隆起したとすれば隆起速度の平均は年間0.1ミリメートル。ヒマラヤ山脈が現在も年間数ミリメートルの速度で隆起を続けていることと比べるとごく遅い。このゆっくりとした変動は全般になだらかな中国山地の地形を形成した。  ゆっくりとはいえ、山地の隆起は川を山陰側と山陽側への2方向に分断した。脊梁を境に隔てられたのである。この段階で神戸川の原形となる川が誕生したと言って良いかもしれない。しかし、それが何年前と特定することはできそうにない。ごく大ざっぱに「数百万年から1000万年前」と言えば当てはまるだろうか。川の原形が生まれたと言っても、この段階から現在へ至る時間の中で、流れは谷を削り、時には地震による変動があり、地形と流路は大きく変化を続けたはずだ。自然は常に変化を続けている。現在の姿もまた長い自然史の一断面なのである。


P2-2 河口と日御碕

写真6 河口と日御碕


(2)中国山地と製鉄

 神戸川流域では古代から近世・近代まで製鉄が盛んに行われた。製鉄関連の遺跡が随所に残り、かつての隆盛をうかがい知ることができる。かつて中国地方は日本を代表する産鉄地域で、とりわけ出雲地方の鉄は量、質とも国内屈指だった。その鉄をもたらしたのは中国山地の山々。中国山地は鉄の山だったのである。


P2-3 上流域の山々(草峠から)

写真7 上流域の山々(草峠から)


 当地の製鉄は、砂鉄と木炭を主原料にして「たたら」という炉を用いて行われた。砂鉄の大半は中国山地の基盤をなす花崗岩類から直接または間接的に取り出されたものだ。花崗岩は珪酸(SiO2)に富むマグマが地下で固結した岩石で、肉眼で見える大きさの鉱物粒子からなる。そこに磁鉄鉱やチタン鉄鉱などの鉄鉱物が含まれ、これらが母岩から離れて砂状になったものが砂鉄である。花崗岩に含まれる鉄鉱物の量は少なく、重量比でせいぜい数%だ。到底、製鉄の原料として成り立つと言えない含有率だが、一工程を加えることで鉄の割合を飛躍的に向上させることができるのが中国山地の花崗岩。その工程とは水流による比重選鉱である。風化して土砂状になった花崗岩を適度な勢いの水流に流すと、軽い鉱物は流れ去り重い砂鉄だけが残る。「鉄穴流し」と呼ばれるこの工程によって鉱石としての品位が一気に高まるのだ。河川や海岸でも水流によって砂鉄の濃縮が起ることがあり、それも製鉄に用いられた。
 神戸川の中〜上流域に分布する花崗岩は古第三紀(6500万〜2500万年前)に形成された。山陰側には同時代の花崗岩が分布し、山陽側は少し古い白亜紀(1億4000万〜6500万年前)のものだ。花崗岩の岩体は中国山地の隆起によってゆっくりと押し上げられる過程で深層まで風化が進んだ。花崗岩は風化すると鉱物粒子がばらばらに外れて土砂状(マサ)になる特徴がある。当地の岩体は風化が進んでいるおかげで、切り崩して水に流すことが可能なのだ。これが鉄穴流しによる選鉱が成立する要因である。中国山地の花崗岩が未風化で硬いものばかりだったら産鉄地域には成り得なかったのだ。
 花崗岩を母材とする製鉄では、鉄穴流しによって必要な量を得るためには多量の土砂を処理する必要がある。母材に対して1%の砂鉄を抽出できる場合、一回のたたら操業に用いる10トンの砂鉄は約400立方メートルの花崗岩から選別することになる。それが長い年月、広い範囲で続けられた結果、地形に相当の影響が及んでいる。花崗岩分布地では掘削跡地と排土の堆積地が至る所にある。川に流出した土砂は平野の拡大に大きく寄与している。注意深く見ると神戸川流域にも製鉄に伴う地形が多数認められる。
 ところで、木炭もたたら製鉄に欠かせない原料である。製錬の燃料である以外にも木炭の炭素に重要な働きがある。それは鉄鉱物に酸化物として含まれている鉄を還元する働きと、鉄に入り込んで硬度を高める働きである。製鉄では砂鉄と同重量以上の木炭が必要とされ、それは中国山地の山林から供給された。多量の木炭需要をまかなうために広大な範囲が薪炭林として管理、利用されたのである。
 長い期間にわたり、製鉄は地域の基幹産業のひとつだった。その礎は花崗岩と山林。すなわち中国山地の自然に他ならない。人々は山の自然と濃密な関わりを持ち、そこから糧を得たのである。


P2-4 朝日たたらの遺構

写真8 朝日たたらの遺構


(3)日本海形成の時代

 日本海の特徴のひとつは列島に囲まれた狭い海でありながら水深3000メートルを超える深さを有することだ。このような海は世界的に特異で、それは大陸縁辺部の裂開という日本海の形成過程と関わりがあると考えられている。日本海形成の鍵は「火山活動」である。火山活動とともに大地が引き裂かれ、深い海が形成されたのだ。そしてその火山活動は、神戸川流域の自然史と文化史にも関わりがある。流域に分布する火山噴出物は自然環境と景観の構成要素である。文化史との関わりについては、例えば国内最大の石棺を有する大念寺古墳(出雲市今市町)が挙げられる。古代出雲の首長を埋葬した石棺には日本海形成期の火山噴出物が使われているのだ。
 日本海が形成されたのは新第三紀中新世。2500万年前から1500万年前頃にかけての出来事だ。大規模な地殻変動を生じた原動力は地下深部から巨大なマグマの塊が上昇してきたためと考えられている。マグマの塊が火山活動を起こし、大地を引き裂いたのだ。大地の割れ目は海となり、その海底でも噴火が繰り返された。その噴出物からなる岩石は神戸川中〜下流域に広く分布している。


P2-5 火山岩の柱状節理(出雲市所原町)

写真9 火山岩の柱状節理(出雲市所原町)


 神戸川を代表する景観、立久恵峡。その特徴である切り立つ絶壁に露出する岩石は、日本海形成の時代に噴出された火山礫と火山灰が堆積して出来た岩石(火山角礫岩)である。この岩石は流水に浸食されやすく、急角度の崖を形成しやすい特徴を持つ。その性質によって、流れが比較的緩やかにも関わらず垂直に近い絶壁が形成された。また、この岩石は礫を多く含むことから岩肌が凹凸で、岩石自体にもすき間が多く水がある程度浸透する。この性質のおかげで断崖に独特の植生が発達している。固有種オッタチカンギクを含む断崖性の生態系も立久恵峡の特徴である。断崖に露出する地層は厚く、噴火の激しさを物語っている。その噴出物は立久恵峡の自然景観の基盤そのものと言えるだろう。
 ところで、日本海形成期の火山活動は海底での高温の温泉(熱水)噴出を伴った。その熱水活動は「黒鉱」という日本列島固有の鉱床を形成した。黒鉱鉱床は熱水に含まれていた成分が海底の凹地に堆積してできたもので、銅、亜鉛、銀、金など各種の金属を含む黒い鉱石が特徴である。神戸川流域には黒鉱鉱床はみあたらないが、島根半島には分布している。そのひとつ、出雲市河下町の鰐淵鉱山は銅や亜鉛などを採掘した後、石こう鉱山として稼働し、1970年頃まで日本一の石こう産出量を誇った。また、出雲市大社町には石見銀山の発見伝承に登場する鷺銅山がある。黒鉱は日本の鉱工業史において重要な存在で、出雲市域の産業にも少なからず影響を及ぼしたのである。
 石材については、先に触れた大念寺古墳をはじめ、神戸川下流域の古墳の多くに日本海形成期の火山噴出物からなる岩石(凝灰岩類)が使われている。この岩石は柔らかく加工しやすい割りに丈夫で、大型の石製品に適した材料と言える。産出地は下流域の丘陵地に点在しており、古墳に限らず、建材等に使われた。出雲市知井宮町では近代まで凝灰岩の採掘が行われていた。
 このように見てみると、日本列島形成の時代は遥か昔のことであるが、その時代の自然現象が当地一帯の自然環境や産業、文化に少なからず影響を及ぼしていることがわかる。


P2-6 大念寺古墳の石室

写真10 大念寺古墳の石室

(4)三瓶火山の活動

 出雲と石見の境にそびえ立つ三瓶山。緑に包まれた穏やかな山容とは裏腹に、その生い立ちは荒々しい火山噴火の歴史である。三瓶山は中国地方で最も若い火山なのである。
 三瓶山の東を神戸川が流れる。支流の角井川や伊佐川などは三瓶山麓を集水域にする川である。三瓶山は神戸川の自然史に幾つかのドラマを演出した。例えば縄文時代。川にもたらされた多量の噴出物が下流に運ばれ、出雲平野を劇的に拡大した。この時に形成された地盤は後に弥生のムラが展開する舞台となったのである。


P2-7 三瓶山

写真11 三瓶山


 三瓶山の火山としての歴史は10万年前に遡る。最終氷期に突入し、地球が寒冷な気候に向かっていた時代のことだ。比較的なだらかな山地の一角で火山活動が始まったのである。その時から現在までに三瓶山は7〜8回の火山活動を行なった。地下深部からマグマが上昇してくると噴火が生じ、何年間か活動して休止する。数千年から数万年の休止期を経て、再びマグマが供給されると活動を再開する。その繰り返しが7〜8回あったのである。
 最初の活動では最大級の噴火を行なった。多量の火砕物(火山灰、軽石など)を空高く噴き上げ、それは風に運ばれて三瓶山から遠く離れた場所にまで広がった。約50キロメートル離れた松江市付近で1メートル近い厚さで軽石が降り積もり、遠方では東北地方でも火山灰が確認されている。いかに大きな噴火だったか想像できるだろうか。
 2回目の活動は5万年前頃、3回目は4.6万年前頃、4回目は1万9000年前で、この時まではいずれも大規模な噴火を伴った。三瓶山に火山活動をもたらしたマグマは粘り気が強く流れ難い性質を持つ。このタイプのマグマが多量に供給されると火砕物を一気に噴出する爆発的な噴火が起りやすく、それが4回目までの活動では発生したのである。短時間で多量の噴出物が放出されることで巨大な火口(カルデラ)が形成され、その名残は現地形に認められる。カルデラの直径は約5キロメートルあり、三瓶山の外側を取り囲んでいる。現山体は4回目以降の比較的小規模な噴火でカルデラ内に形成された溶岩ドーム群なのである。古い時期には大きな山体は存在せず、クレーター状の凹地がぽっかりと開いていたのだろう。そこに水が溜まり、湖が出現したこともあったかも知れない。現在とは全く違う地形である。
 4回目の活動の後半にゆっくりとした溶岩の噴出があり、現山体の一部、日影山が形成された。1万年前の5回目の活動は小規模で、少量の火山灰を噴出した。5500年前(6回目)と4000年前(7回目)の活動で複数の溶岩ドームが形成され、現山体の原形が完成した。それ以降に8回目の活動を行なった可能性があるが、はっきりしない。
 現在、三瓶山は平穏であるが活火山に指定されている。10万年という年齢は火山としてはまだ若い。いつの日か、三瓶山が再び噴煙を噴き上げる可能性は極めて高いのである。

※活動期の年代について、第2活動期、第3活動期、第4活動期を従来は約7万年前、約3万年前、約1.6万年前としていましたが、近年の報告にもとづいてそれぞれ約5万年前、約4.6万年前、約1.9万年前に訂正します。

P2-8 三瓶火山の火山灰層(庄原市)

写真12 三瓶火山の火山灰層(庄原市)


(5)横見埋没林

 出雲市佐田町上橋波。神戸川右岸の段丘に約5万年前の森が眠っている。三瓶山の活動によって地下に閉じこめられた森は、太古の自然環境を伝えるタイムカプセルだ。2003年に道路建設をきっかけに発見された太古の森は横見埋没林と命名された。


P2-9 横見埋没林の埋没立木

写真13 横見埋没林の埋没立木)


 地層中から過去の樹木が出土することは珍しくない。しかし、根を張って立ったまま、幾本もが林の状態でとなると話は別だ。森林がすっぽりと土砂に覆われ、それが長い年月を経て発見されることは大変珍しい事例である。珍しいだけではない。原位置に立つ埋没林は、過去にその場にあった環境を直接示す貴重な存在なのだ。
 横見埋没林は楓などの落葉広葉樹が中心だ。現在の当地よりも若干冷涼な場所に見られる樹種構成で、近隣地では三瓶山中腹のものに近い。どうやら、当時は少し冷涼な気候だったようだ。5万年前は最終氷期の最中。横見埋没林は氷期の森を現在に伝えているのである。
 この森を地中に閉じこめたのは三瓶山の2回目の火山活動である。最初の活動から数万年の休止期を経て噴火を再開した火山は、まず火山灰を当地に降り積もらせた。2メートル近い厚さで積もった火山灰は木々の根元をすっぽりと埋め尽くした。雪のように火山灰が積もったのである。次いで強烈な爆風を伴う火砕流「火砕サージ」が襲いかかり、火山灰の上に突き出ていた幹や枝を吹き飛ばしてしまった。もし、火砕サージが先行していたら木々は根元から失われていただろう。その後、多量の軽石と火山灰からなる火砕流が厚く堆積し、木々の残存部は地下深くに閉じこめられたのである。樹木は厚い土砂と地下水によって缶詰のように密閉され、腐朽がごくゆっくりしか進まなかった。5万年の時を経て形を留めることができたのはこのためである。
 横見埋没林を埋める地層には興味深い地質現象が見られる。降り積もった火山灰層には「火山豆石」という球状の粒が多量に含まれている。大豆からビー玉くらいの大きさのこの粒は、ごく細かい火山灰が集まってできたものだ。上空へ噴出された噴煙の中で水滴を核に塊が生じ、静電気力で次第に大きく成長したと考えられている。火山豆石の断面には同心円状の層構造がみられ、火山灰がくっつきながら成長した様子を物語っている。また、地層中に縦横に走る泥の脈がある。軟弱な泥の層の上に多量の火山灰が一気に堆積したことで、泥が絞り出されるように上の地層を貫いた「泥岩脈」だ。これも珍しい地質現象のひとつである。


P2-10 火山豆石

写真14 火山豆石


 ところで、神戸川流域には他にも埋没林がある。出雲市塩冶町の三田谷遺跡では4000年前の埋没林が確認されている。隣接する静間川水系には大田市三瓶町の三瓶小豆原埋没林をはじめ、4000年前の埋没林が点在している。いずれも三瓶山の火山活動で埋積されたものだ。当地一帯は太古の自然環境を閉じこめたタイムカプセルの宝庫と言えるだろう。


(6)縄文海進の時代

 中国山地に発した神戸川の流れは、やがて立久恵峡を過ぎると出雲平野へ至る。この平野は神戸川と斐伊川が運んだ土砂が作る沖積平野である。その東には国内七番目の水域面積を有する宍道湖が広がる。これらは過去数万年間の気候変動と密接な関わりがある地形だ。
 地球は過去に幾度もの氷期を経験してきたことが知られている。10万年前頃に始まった最終氷期は、2万年前に最寒冷期を迎えた。地球全体の寒冷化は海面を大きく低下させており、日本列島付近の海面は100メートル前後も低い位置にあった。大陸上に氷床が厚く発達し、水が陸上に閉じこめられたのである。これだけ海面が下がると海岸付近の地形は大きく変わる。島根半島の北側から隠岐にかけては馬の背状の浅い地形が続いているが、ここは2万年前には陸化して隠岐が地続きになっていた。瀬戸内海も陸化し、対馬海峡は狭い水道が残るのみだったのである。この時、出雲平野と宍道湖は存在していない。立久恵峡を通り抜けた神戸川は広い谷を流れて斐伊川と合流し、現海岸よりもずっと先で海に流れでていたのだ。ボーリング調査により、平野の中央部では現地表下数10メートルの深さに当時の地表面があったことが判っている。
 最終氷期が終わったのは1万1000年前である。1万6000年前から気温は上昇を始めたが、一旦「寒の戻り」があり、1万1000年前頃から急速に温暖な気候に変化した。それに伴って陸上の氷が溶け、海面上昇が生じた。その上昇は急激なものだった。1万1000年前には40メートル程度低い位置にあった海面が、7000年前には現在と同水準まで達していたので、この間の平均は年間1センチにもなる。急激な海面上昇によってそれまでの低地は海底に、丘陵地の谷は湾に変化した。海岸線が陸側へ深く入り込んだのである。この現象を海進と言い、縄文時代の草創期から前期にかけて生じた海進は「縄文海進」と呼ばれる。
 縄文海進は出雲平野から宍道湖にかけての一帯を細長い湾に変化させた。大社湾に通じる海域が松江の低地部まで続いていたのである。出雲平野の地下には当時の海底に堆積した泥の地層があり、海にすむ貝などの殻が含まれることがある。それは宍道湖湖底、松江平野でも同様だ。
 急激な海面上昇は7000年前頃までに終わり、その後は河川が運んだ土砂が河口部に堆積し、平野が広がり始めた。当初は大社湾に通じていた水域は神戸川と斐伊川の三角州が島根半島に達したことで閉ざされ、湾奥に取り残された部分が宍道湖になったのだ。
 ダイナミックな気候変動は海岸部の地形に大きな影響を及ぼす。最終氷期後の温暖化によって生じた縄文海進は、島根半島と中国山地北縁丘陵の間に湾を出現させた。この湾がやがて出雲平野と宍道湖へと形を変えたのである。


(7)出雲平野の形成

 時は縄文時代。出雲の北山を見上げる低地には内湾が広がり、縄文人の穏やかな暮らしがあった。その風景は三瓶山の噴火を機に一変した。神戸川は雨が降る毎に氾濫し、猛烈な濁流が幾度も低地に襲いかかった。濁流は膨大な量の火砕物を運んだ。辺りに静けさが戻った時、湾は土砂によって半ば埋まり、広い土地が出現していた・・・。
 これは出雲の縄文人が目撃したであろう光景だ。出雲平野は三瓶火山の噴火によって短時間で急激に拡大した。縄文人は自然の力に驚異と畏怖を感じたと思われる。
 出雲平野は神戸川と斐伊川の働きによって形成された沖積平野である。その生い立ちは三瓶火山の噴火とたたら製鉄の二つの要因の影響を強く受けている。7000年前までに縄文海進で奥深い湾が形成され、そこに川が運んだ土砂が堆積して平野が形成された。その過程は全国の沖積平野と共通だが、火山と人為的な開発が地形発達に著しい影響を与えたことは特筆に値する。


P2-12 出雲平野

写真15 出雲平野


 三瓶火山は平野が形成されつつあった時代に2回の活動を行なっている。5500年前と4000年前の活動がそうだ。いずれの活動時も神戸川流域に多量の火砕物がもたらされ、洪水を引き起こしたのである。出雲平野西部の地下には火砕物からなる洪水の地層が広く分布しており、場所によっては3メートルを超える厚さがある。火山噴火の影響で平野が拡大した証拠である。この時に形成された微高地には弥生時代になると居住地としての利用が広がり、集落が形成されるようになった。火山活動時の極端に大きな氾濫で形成された高い地形面は、その後の洪水の影響を受け難い安定した場所だったことから、居住地としての利用は近現代の市街形成に至るまで引き継がれている。火山活動に伴って土地が急激に拡大し、やがてそこに町が形成されるに至る過程は、まるで出雲國風土記が伝える国引き伝承の一場面のようだ。壮大な物語の舞台では、その脚本に勝るとも劣らぬ自然史のドラマが実際に繰り広げられたのである。
 さて、出雲平野形成のドラマはまだ終わらない。弥生時代に大陸から鉄器が伝わり、その後日本でも鉄の生産が始まった。中国地方では砂鉄を原料とする製鉄が行われ、とりわけ近世の斐伊川流域は全国一の産鉄地帯となった。山で砂鉄を採取をして鉄を作る工程では、直接あるいは間接的に多量の土砂を排出する。原料となる花崗岩の砂鉄含有率は低く、砂鉄の100倍以上の排土が発生する。また、砂鉄採取と炭の生産に伴う森林伐採は裸地を生み、土砂の排出を促す。その結果、斐伊川には多量の土砂がもたらされ、江戸時代から明治時代にかけて平野が急速に拡大したのだ。過剰に供給された土砂は頻繁に洪水を引き起こし、この時代の斐伊川は第一級の「暴れ川」でもあった。出雲平野の東部には洪水や人為によって幾度も変遷した流路の痕跡が地形として認められ、地名にも残っている。古い道や集落は旧河道の地形に沿っていることが多い。


P2-13 斐伊川

写真16 斐伊川


 出雲平野の生い立ちには、火山活動と製鉄という二つの事象が大きな影響を与えた。火山活動で広がった土地は人々の生活の場となり、人々が行なった製鉄が土地を広げた。この平野の生い立ちを振り返る時、自然の力と、自然へ働きかけた人々の力が鮮やかに浮かび上がる。「古代出雲」から現在に至るまでの出雲の文化を育んだ土地は、全国にも稀な自然と人の営みの歴史を秘めているのである。

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