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地層観察の手引き

■石見の久喜銀山

 杜の都仙台に保管されていた一枚の絵図。戦国時代末に描かれたとみられる「石見国図」には、圧倒的な存在感かつ詳細に表現された大森(佐摩)の銀山のほかにいくつかの銀山が記載されていました。それは、津和野の「はたがさこ」や美都の「つも」、そして瑞穂の「くき」などです。それらの多くは江戸時代に石見銀山領として幕府直轄下に置かれたもの、つまり重要とみなされていた鉱山です。この絵図が示す石見国こそ中世ヨーロッパにまで知られた“銀鉱山王国”の姿そのものと考えられています。石見銀山(ここでは大森の銀山)を石見国にいくつもあった銀銅鉱山群のひとつとしてとらえて検討すると、発見や開発、支配に関わる人や技術の動きを知る手がかりが得られるのではないでしょうか。石見国図に記された鉱山は、銅山として開発が始まった津和野と美都の一群と、銀山としての大森、久喜に大別できます。前者は9世紀までさかのぼるものがあり、山口の大内氏との関わりがうかがわれます。後者は比較的近い位置にあり、ともに本格的な開発が16世紀代とみられる銀山です。本稿では石見銀山と同時代に銀を産した久喜銀山および大林銀山を簡単に紹介します。この鉱山の歴史は石見銀山と深い関わりがありそうです。


坑道入口の四留

四つ留めが再現された坑口


 久喜銀山は、大森から川本、瑞穂を通り広島へ向かう街道の途中、ちょうど県境のところにあります。県境を越えてさらに街道を進んだ先は吉田町、すなわち尼子氏との争奪戦の末に石見銀山を手中に収めた毛利元就の本拠です。久喜銀山の歴史は16世紀前半まで遡ることができ、当時この鉱山を毛利氏が支配していたようです。その後、江戸時代には幕府直轄地となり、明治時代には津和野の堀家が経営しました。
 現地は中国山地の山あいにあり、一帯は久喜銀山、大林銀山、岩屋鉱山という3つの銀銅山とたたら製鉄の跡が多数残るちょっとした金属生産地帯です。久喜、大林、岩屋の三鉱山は隣接していて、鉱床は一続きとみて良さそうです。それが村の境にまたがっていたため、開発の単位がそれぞれの村に分かれたようです。なお、前出の「石見国図」には「くき」のみが記され、これより新しい江戸時代に描かれた国絵図には、久喜と大林に分けて記されています。


 現在、久喜銀山の辺りには静かな山村風景が広がり、そこに鉱山と鉱山街があったことを連想することは難しいでしょう。しかし、少し立ち止まって見ると、そこかしこにかつての繁栄を物語る痕跡を留めています。久喜地区には明治時代の製錬所跡が残ります。構造物は殆ど残っていませんが、山際に炉跡の凹みがいくつも並びその上方には人が立って歩くことができる規模の煙道が残存しています。廃滓場跡では積み重ねられた大量のからみ(鉱滓)があたかも最近まで操業していたかのような雰囲気を感じさせます。大林地区には明治時代以前の製錬所跡があり、手作業による製錬で発生した小片状の「からみ」が厚く層をなして残っています。その製錬所跡に建つ寺の山号「銀吹山」も目をひきます。そして、山中に入ると多数の間歩と採掘跡が残り、その数120以上が確認されています。採掘跡が残る範囲は久喜、大林、岩屋の3地区にまたがって6平方キロメートルにおよび、広さでは石見銀山の柵内範囲にひけをとりません。それでは、その鉱床はどのようなものでしょうか。


大林地内でみられるからみ

大林地内の江戸期以前の製錬所跡に残る製錬滓(からみ)


 道路端に残る採掘跡を手がかりに山中へ足を踏み入れると、溝状に伸びる露頭掘りの跡が幾条も認められます。露頭掘りとは鉱脈が地表に露出した部分を採掘する掘り方です。すなわち、溝状の採掘跡は地表に現れていた鉱脈の方向を示し、この鉱山の主要な鉱脈は北東-南西方向に延びることが判ります。鉱脈の残存部の主要な鉱物は方鉛鉱、閃亜鉛鉱、黄銅鉱、硫砒鉄鉱、方解石等とされています。方鉛鉱は鉛の鉱物ですが、必ず銀を伴っており含有量によっては銀鉱石となり得ます。かつては銀の鉱物も多く存在したかもしれませんが、基本的には方鉛鉱を主とする銀鉱山だったのでしょう。また、江戸時代には灰吹法による精錬に必要な鉛を久喜から石見銀山に供給した記録も残っています。


 久喜一帯の鉱床のタイプは「熱水型鉱床」と呼ばれるものです。これは、マグマの活動に伴ってもたらされた高温の熱水が周辺の岩盤の割れ目などに鉱物を沈殿させて形成されるものです。一帯の岩石は地質時代で古第三紀(6500万〜2800万年前)の火山岩類で、鉱床が形成されたのはその岩石の形成とほぼ同時期でしょう。150万年前頃とみられる石見銀山の鉱床形成よりずっと古い時代の出来事です。


久喜地内でみられる脈石

久喜地内の道路脇でみられる脈石


 この鉱床をいつ、誰が発見して開発を始めたのか。久喜に限らず石見地方での銀生産のルーツにも 関わるテーマです。残念ながら今のところそれを具体的に示す資料はありません。山中に残る露頭掘り跡は技術的には古い手法ですので、その中には開発当初の採掘跡も残っているかも知れません。発掘調査によって発見時期を解明する手がかりが得られる可能性があります。または、文献資料から解き明かされるかも知れません。その期待が膨らむ動きがあります。石見銀山の世界遺産登録をきっかけに、地元での久喜銀山への関心が高まり、保全や活用、調査への活動が始まろうとしています。石見銀山との間で製錬や採掘技術の交流があったのか、毛利氏の関わりはどのようなものだったのかということが明らかになれば、それはすなわち石見銀山の歴史解明でもあります。


 石見には銅山を含め幾つもの鉱山があり、古くからの人と技術の交流があり、それが16世紀における石見銀山の隆盛をもたらしたのでしょう。銀鉱山王国・石見。それぞれの鉱山が歴史の謎を解く鍵を握っているのです。


2010年6月(手記)


明治時代の製錬所跡に残るからみ

久喜地内の明治時代の製錬所跡に残る製錬滓(からみ)


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