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地層観察の手引き

■中須西原遺跡の層序からみた益田平野の形成史

1.地形概要

 中須西原遺跡が位置する益田平野(図1)は、西に高津川、東に益田川が流れ、北は日本海に面している。この平野は2本の河川の三角州および扇状地と、砂丘に覆われた海岸砂州で構成された沖積平野である。

図1:益田平野の地形

図1:益田平野の地形
中須西原遺跡は砂丘と低平な沖積面の境界部に位置している。海岸線、河道などの地形は1945年米軍撮影の空中写真に基づいており、現地形とは一部異なっている。


 平野を流れる河川の集水面積は、高津川が約1,090平方km、益田川が約127平方kmである。高津川の方が河川規模が大きく、平野の地形発達への影響も大きい。そのことは平野面の微地形からも明らかで、高津川の旧河道が扇状に広がった分布を示すのに対し、益田川の旧河道はその縁辺を迂回している様子を読み取ることができる(図2)。

図2:益田平野の微地形図

図2:益田平野の微地形図
空中写真から自然堤防列と旧河道を判読したもの。高津川扇状地には放射状に旧河道があり、益田川の旧河道は高津川扇状地と砂丘に規制されながら流れた様子がわかる。


 砂丘は高津川を境に東側と西側で状況が異なっている。東側は標高10mを超える程度の幾つかのピークを有し、中須西原遺跡の北西部にある鞍部を境にさらに東西に分かれている。東側の中須地区の砂丘は不明瞭ながら2列以上に区分することができる。西側の大塚地区の砂丘は単丘状である。いずれの砂丘も内陸側は住宅密集地になっている。高津川の西側、高津地区の砂丘は標高40mを超える大規模なものである。高津地区の南にある蟠竜湖は、基盤からなる丘陵地の谷が砂丘によって閉塞されたせき止湖と考えられている。


 中須西原遺跡は高津川と益田川の間にあり、砂丘の裾部と三角州性の低平な沖積面との境界部に立地する。後述のように、沖積面の部分には縄文時代に潟湖的な水域が存在した。中世の段階では河道または河道に通じる入り江が存在したと推定され、この遺跡は水域と居住域の境界付近で営まれたとみられる。


2.地質概要

 益田平野は海岸の湾入部が堆積物によって埋積されてできた沖積平野である。三角州の前進にともなって水域から陸域へと変化し、地下にはその環境変化に応じて堆積した地層が分布している。図3は東西方向の地下地質断面図である(注1)。完新統と示している部分は最終氷期終焉から現在までの1万年間に堆積した地層で、これが沖積平野の主体をなしている。完新統を大別すると、下〜中部にあり泥を主体とする層(以下、M層)、下〜中部にあり砂を主体とする層(以下、S層)、上部にあり礫を主体として一部で泥質の堆積物が重なる層(以下、G層)の3グループに区分できる。

図3:益田平野の東西方向地質断面図

図3:益田平野の東西方向地質断面図
側線位置は図1に示している。中須西原遺跡の遺構は最上部の三角州(扇状地)性の地層中に存在する。


 M層は泥が連続的に堆積しており、波浪の影響が及びにくい静かな水域で形成された地層とみられる。また、ムシロガイの仲間など海生の貝化石をしばしば含んでいることから、海水が流入する潟湖の堆積物と判断できる。


 S層は砂を主体としており、所々に貝化石を含んでいる。更新統の礫層にS層が直接重なり、間に潟湖の湖底堆積層とみられる泥層をほとんど挟まない。このことは、S層の堆積が潟湖の形成と同時進行的に進んだことを示している。そのような条件として、海岸砂州堆積物の場合と、急速に堆積した三角州堆積物の場合の2通りが考えられるが、断面の側線位置より内陸側にあたる浜寄遺跡付近のボーリングで海成泥質層が確認されている(注3)ので、後者は矛盾する。したがって、S層は高津の砂丘付近から北東へ伸びた海岸砂州性の堆積物と判断するのが妥当と思われる。


 G層は三角州上面(頂置面)の堆積物で、河川性の礫と後背低地の泥〜砂からなっている。中須西原遺跡の遺構はG層の上面付近に存在している。


 益田市が中須町一帯で実施した埋蔵文化財の試掘調査で試掘孔から得られた44地点分の礫試料を観察したところ、半数を超える29試料で青野山安山岩の礫が含まれていた。この岩石は高津川水系だけに分布し、灰色または赤灰色の石基と針状の角閃石の斑晶が特徴的で見分けが容易であることから、礫供給域区分の良好な指標となる。この礫の存在は、当地に高津川からの堆積物が供給されたことを示すものである。一方で、青野山安山岩の礫が認められなかった地点も多いことから、当地の堆積物は高津川、益田川双方から供給されたとみるのが妥当と思われる。


3.堆積年代について

 益田平野を構成する地層の堆積年代はこれまでに幾つか得られている。益田川右岸の沖手遺跡では、中世の遺構面下に存在する泥質層から3,090yBP、3,070yBPの14C年代が得られている(注2)。この層準は上記のG層の上部にあたる後背低地性の堆積物で下位には礫層が存在していることがボーリング調査で確認されている。平野西部の浜寄遺跡では1本のボーリングから多数の14C年代が得られ、7,800年前頃に海水が流入する条件下で堆積が始まり、4,000〜2,000年前の間に陸化が進んだことが推定されている(注3)。


 これらの年代値は平野の古環境を推定する上で貴重な情報である。沖手遺跡は中須西遺跡と同じく沖積面上に立地し、高津川扇状地の扇頂からの距離もほぼ同じであり比較しやすい。沖手遺跡付近は少なくとも3,000年前までには三角州が達して平野化しており、やや立地条件は異なるが浜寄遺跡でもほぼ同時期に陸化したことからみて、中須西原遺跡付近においても3,000年前頃には平野化が進んでいた可能性が高いと推定される。


4.古環境の推定

(1)縄文時代早〜前期(6000年前頃)

 1万年前に最終氷期が終わってから6000年前頃にかけての急速な海面上昇に伴い、益田平野一帯には海水が流入する潟湖が存在していた。潟湖は湾口部に発達していた砂嘴またはバリアー状の海岸砂州によって外海からある程度隔てられていた。現海岸線よりも内陸側に高津の砂丘列が高く発達していることからみて、当時の海岸線はこの砂丘の前面から現益田川河口付近の丘陵(久城)へと続いていたと推定できる。海岸砂州は河口で分断され、高津川河口より東の砂州は浸食と移動を繰り返したため、砂丘の規模が小さいと思われる。


(2)縄文時代後〜晩期(3000年前頃)

 潟湖は高津川と益田川が供給する土砂によって埋積が進み、3000年前頃までには三角州は海岸砂州まで達した。河川は平野上を蛇行、分流しながら流れ、氾濫にともなって河道の位置が変化することがあったと思われる。河口部の砂州の形状によっては潟湖的な広がりを持った水域が存在したこともあるだろう。三角州堆積層の上部に泥質の堆積物が分布していることから、河道や砂丘の位置に応じて平野面上に沼沢地的な環境が形成されていたとみられる。


 中須西原遺跡付近は、基本的に砂丘の陸側裾部の環境だったと思われるが、このような場所は砂州・砂丘の発達と河川による浸食の相互作用によって地形が急速に大きく変化することもあり得るだろう。


(3)中世〜近世(900〜400年前)

 沖手遺跡に集落が存在したことからみて、平野上の乾陸化が進んでいたと考えられる。中須西原遺跡には港湾に関連するとみられる礫敷遺構が築かれており、水域に接した環境だったと推定できる。この水域は河道またはそれに通じた入江であろう。旧河道の分布からみて、砂丘の手前で西に曲流した益田川が本遺跡の近くを流れていた可能性が高い。この河道と高津川が合流していた時期もあるとみられる(注4)。礫敷遺構は構築時期が異なって2面ある。2面の礫敷の構成礫は青野山安山岩が含まれる量に明らかな差が認められ、「新しい時期>古い時期」である。また、古い時期は砂岩の亜角礫が目立つ。意図的に礫を選択することは考え難いので、礫種の違いは至近に分布していた礫種の変化を反映している可能性がある。単に礫を採取した場所の違いによるのかも知れないが、礫敷を新しく構築した段階では当地への高津川の影響がそれ以前より大きくなっていたこともあり得る。

図4:益田平野の古地理図

図4:益田平野の古地理図。

ステージ1(6000年前)  最終氷期終焉(1万年前)以降の急速な海面上昇によって生じた縄文海進が極大に達した段階。益田平野には海水が流入する水域が存在し、その前面には海岸砂州が形成されていた。高津の砂丘部分がこの段階の海岸線と想定して示している。


ステージ2(3000年前)  三角州の前進により前ステージで存在した水域の大部分は間移籍され、平野の原形が完成した。河川の流路は平野面を蛇行、分流し、各所に沼沢地が存在した。流路はしばしば変化したと思われる。図中の流路はイメージ的に示したもので、位置に根拠はない。


ステージ3(400年前)  現地形に残る旧河道の多くはこのステージのものと判断し、その中で戦国時代末の「石見国図」(宮城県図書館蔵)の表記に合うものを本図に示している。図中の地名は「石見国図」に記載があるもの。流路はしばしば変化し、斜線で示した位置を流れていた時期もあるとみられる。



注1:益田市都市開発課が益田道路建設に伴って実施されたボーリングを整理した資料に基づいて作成した。

注2:国土交通省中国地方整備局浜田河川国道事務所・島根県教育委員会(2008)一般国道9号(益田道路)建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書5「沖手遺跡・専光寺脇遺跡」

注3:国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会(2006)一般国道9号(益田道路)建設予定地内発掘調査報告書2「浜寄・地方遺跡」

注4:林 正久(2006)、益田平野の成り立ちと沖手遺跡。一般国道9号(益田道路)建設予定地内発掘調査報告書3「沖手遺跡」。p107〜p116。国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会2006刊


(中村唯史)

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