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地層観察の手引き

■出雲市矢野遺跡の立地と古地理

1.立地の概要

 矢野遺跡は出雲平野西部に位置する。この平野は中国山地を流下する斐伊川と神戸川(*1)の下流に広がり、その北には島根半島の急峻な山並みが迫る。平野の西は大社湾に面し、その海岸部に出雲砂丘、やや内陸寄りに浜山砂丘の2条の砂丘が発達する(図1)。出雲平野は過去数万年間に生じた地球規模の環境変化に呼応して形成された沖積平野である。その形成史は、神戸川上流にある三瓶火山と、斐伊川流域で広く行われたたたら製鉄の影響を受けて極めて独特である。矢野遺跡は神戸川扇状地の末端付近の微高地(以下、「矢野微高地」と呼ぶ)に立地し、その地形の形成には三瓶火山の噴出物が深く関与している。斐伊川は17世紀以前には神戸川扇状地の北を西流する河道を持っており、矢野遺跡から数100mの位置を流れていた時期がある。



図1 出雲平野西部の微地形と遺跡分布
1m等高線から、神戸川扇状地の北を回り込むように発達する斐伊川扇状地の形状が見て取れる。矢野遺跡は神戸川扇状地の末端付近に位置する。神戸川扇状地には現地表から浅い深度に弥生時代以降の遺跡が存在している。図中A-A'は図3の断面図位置を示す。


2.出雲平野の地形発達

 出雲平野は次のような地形発達史を持つ平野である。その歴史において、矢野遺跡の立地に関わりが深いのは、約4000年前の三瓶火山の活動がもたらした土砂(火砕物)が現地形の原形を形成したことと、斐伊川の河道および河口近くの水域の変遷であろう。以下に地形発達史の概要を紹介し、若干の検討を行なう。
 出雲平野は主に斐伊川と神戸川が過去1.1万年間に供給した堆積物で構成される。1.1万年前とは最終氷期が終わった時で、地質時代の区分では更新世と完新世の境界である。その前後では海面高度が激変し、それに呼応して沖積平野が形成された。寒冷な氷期中は海面の低下が生じていた。最終氷期の最寒冷期(2万〜1.6万年前頃)には日本列島周辺の海面は100m前後まで低下した。この段階では出雲平野は存在せず、矢野遺跡付近では当時の地表面が現地表下20〜30mの深さにあったことがボーリング資料によって認められる。つまり谷地形が存在しており、それは松江市の大橋川付近から流れでて、斐伊川、神戸川と合流する川が形成したものである。



図2 出雲平野西部の模式的南北断面図
既存の資料に基づき、平野西部の南北断面を模式的に示した図である。扇頂部からの距離により1断面に投影して作成した。
柱状図に付した数字は暦年に補正していない放射性年代の測定値。


 1.1万年前以降、急激に温暖化したことに伴って海面が急上昇した。海面が現在の水準まで達したのは約7000年前(*2)である。その間、平均1cm/年もの速度で海面が上昇したことにより、氷期の谷は海没して海域に変化した。この時、大社湾から出雲平野、宍道湖へと続く湾が存在していた。いわゆる縄文海進の時代である。矢野遺跡の南東約1kmの地点で、島根県立中央病院の建設に先立って行われたボーリング試料では、海進初期の砂質泥層から潮間帯から浅海に生息する貝のスダレモシオガイ(Eucrassatella nana)の幼貝、アサリ(Ruditapes philippinarum)の幼貝、ミミエガイ(Striarca symmetrica)、ウミアサガイ(Epicodakia delicatula)、エガイ(Barbatia decussata)の幼貝の化石が産出する。また、宍道湖の湖底堆積層では、およそ8000年前の層準から海生の貝化石を多産する。
 7000年前以降、海面高度がほぼ安定すると河川の堆積作用によって三角州および扇状地が前進、平野が拡大をはじめた。それは海に面した沖積平野全般に共通する。出雲平野の場合、土砂供給量が激増した時期が3回ある特異な地形発達史を持つ。うち、2回が三瓶火山の影響である。三瓶火山は約5500年前と約4000年前に活動し、火山噴出物(火砕物)起源の土砂が多量に神戸川下流に供給された。江戸時代には中国山地でたたら製鉄が行われ、とりわけ斐伊川流域で盛んだった。その影響で流出した土砂が斐伊川三角州を急激に前進させた。このようにして現在の出雲平野が形成された。
 矢野微高地を構成する堆積物は、大部分が三瓶火山の火砕物である。このことは、当地の地盤形成が火山活動期に形成された可能性が高いことを示している。神戸川扇状地の扇頂に近い古志本郷遺跡(*3)と三田谷1遺跡(*4)では、地表直下に火砕物を主体とする洪水性の堆積物が厚く分布していて、3700y.BP頃(放射性炭素年代測定値。暦年代では4000年前)の年代が得られている。矢野遺跡では遺構面下の地盤形成時期を示す年代値はないが、南西約2kmの位置で神戸川扇状地の端部に立地する白枝本郷遺跡では三瓶火山の火砕物を主体とする地層で3700y.BPの年代値が得られている(*5)。このことから、神戸川扇状地の表層に分布する火砕物主体の地層は、4000年前頃の三瓶火山の活動に伴うイベント(洪水、泥流)で形成されたと推定できる。すなわち、矢野遺跡が立地する地盤は三瓶火山の活動に伴って形成されたと考えられる。



図3 出雲平野中央付近の東西地下断面図
国道9号線出雲バイパスの建設にともなって実施されたボーリングコアの観察に基づいて作成。側線位置は図1参照。矢野微高地の南側で、斐伊川が供給したとみられる花崗岩質砂層に三瓶火山火砕物起源の砂からなる砂層が重なる。


 4000年前のイベント以前の矢野遺跡付近の状況を示す資料は少ない。図2に示すように、近接する小山遺跡第2地点では標高0m付近で4800y.BPの年代値が得られている(*6)。この年代値と標高の関係は、三田谷1遺跡と白枝本郷遺跡で得られている年代値および既存ボーリング資料に認められる三瓶火山起源の火山灰層の高度から想定される同時間面(図2に破線で示したA-A'線)よりも高い位置にある。これは神戸川扇状地の扇頂部との位置関係からみると不調和である。1試料のみの値のため信頼性に欠ける部分はあるが、ひとつの可能性として次のことが考えられる。それは、4000年前のイベント以前の段階では、矢野遺跡付近は斐伊川三角州の先端付近だったということである。国道9号(出雲バイパス)のボーリングコアの観察(図3)では、当地の南方で斐伊川起源と判断できる花崗岩質の砂層と三瓶火山の火砕物を多含する神戸川起源の砂層が重なり合っており、三角州が矢野遺跡付近に到達していた可能性を支持する。図1に示した1m等高線が示す微地形からは、当地付近が神戸川扇状地と斐伊川扇状地の境界にあたることを読み取ることができる。これらのことから、4000年前のイベントによる神戸川起源の堆積物が斐伊川三角州の先端付近を覆って矢野微高地が形成されたと考えると、当地の地形を解釈しやすいと思われる。
 出雲平野では、近世には製鉄の影響により三角州の急速な前進が生じた。しかし、矢野微高地では製鉄による排出土砂の堆積は認められず、ここには製鉄による直接的な影響はなかったとみられる。


3.弥生時代の古地理

 矢野微高地は、4000年前の火山活動イベントの時点で概ねその原形が形成されたとみられる。微高地上は弥生時代から現代に至るまで、基本的に集落が立地しており、局地的な地理的環境はほとんど変化していない。一方、微高地を取り巻く周囲の地形は過去数千年間に変化した点が幾つかあると考えられる。
 弥生時代の出雲平野はすでに島根半島まで達していたが、その範囲は現在より狭く、神戸川三角州と出雲砂丘の間には水域が残存していた(図4)。この水域は海水が流入する汽水の環境だった(*7)。矢野微高地の北には西流した斐伊川が流れ、前述の水域を経て大社湾に流出していた。すなわち、当時の矢野微高地は現在に比べて潟湖と河川に距離的に近い場所にあった。なお、斐伊川の流路については、西流で固定されてはおらず、東流して宍道湖へ流れることもあったとみられる。それは弥生時代の段階で平田町の源代遺跡付近(*8)まで斐伊川三角州が達していることから推定できる。
 平野上では、本報告のD調査区において小河道が確認されていることから判るように、幾つかの小河川が存在していたとみられる。蔵小路西遺跡(*9)流れ出たり平野上の雨水や湧水を集めたものと考えられる。河道部分や相対的な低地の大部分は湿地の環境になっていたと考えられ、水田として利用された部分もあると思われる。



図4 出雲平野の古地理変遷
図中の丸は矢野微高地の位置を示す。縄文海進極大期には矢野微高地付近は海域だった。その後、斐伊川と神戸川の三角州が前進し、三瓶火山が活動した5500年前頃から4000年前頃に汀線付近の環境になったと推定される。4000年前の火山活動に伴うイベントで矢野微高地が形成され、その後、弥生時代までに人類の生活が営まれるようになった。


4.まとめと課題

 矢野遺跡が立地する矢野微高地は4000年前の三瓶火山の活動によって供給された土砂によって形成された。そこに集落が成立した弥生時代には、潟湖や斐伊川に比較的近い条件にあった。微高地の周囲には小河川や湿地が存在していた。当時、平野面の集落や水田として利用されていない部分は森林だったと思われ、現在の景観とはかなり異なっていたであろう。
 矢野遺跡をはじめ、出雲平野の遺跡は縄文時代晩期から弥生時代に出現するものが多く、それ以前の状況はあまり判っていない。特に平野西部では三瓶火山起源の土砂が表層を厚く覆っているため、それ以前の細かな地形や遺跡の有無はほとんど判らない状況である。その解明は将来的な課題である。


*1 神戸川は、斐伊川放水路によって斐伊川と連結されたことで管理上は斐伊川水系に編入された。本稿では、平野の成り立ちを説明する都合上、旧来どおり別の川として扱う。


*2 暦年較正を行なわない放射性炭素年代値に基づいて表記している。


*3 国土交通省中国地方整備局出雲工事事務所・島根県教育委員会(2001)「古志本郷遺跡2」.231p.


*4 建設省中国地方建設局出雲工事事務所・島根県教育委員会(2000)「三田谷1遺跡(vol.2)」.155p.


*5 国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会(2006)「中野清水遺跡(3)・白枝本郷遺跡」(本文編).357p.


*6 出雲市教育委員会(1998)「小山遺跡第2地点発掘調査報告書」.93p.


*7 山田和芳・高安克己(2006)出雲平野−宍道湖地域における完新世の古環境変動 −ボーリングコア解析による検討−.第四紀研究,45,391-405.


*8 平田市教育委員会(1993)「源代遺跡1」.32p.


*9 建設省松江国道工事事務所・島根県教育委員会(1999)「蔵小路西遺跡」.301p.


*「矢野遺跡」出雲市文化企画部文化財課編(2010)の掲載原稿を一部加筆修正(中村唯史)

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