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石見銀山関連講座資料

■石見銀山の銀はどこから来たの?

島根大学ミュージアム公開講座 2012年6月9日 於:松江スティックビル
中村唯史

はじめに

 石見銀山は、中世から近世初頭にかけての時期に、日本のみならず世界の経済に影響を及ぼすほどの銀を産出した銀鉱山です。本格的な開発は、1526年に博多商人の神屋寿禎によって始められたと伝わります。1533年に、溶かした鉱石に鉛を投入して銀を取り出す灰吹法の技術が伝えられると産銀量は増大し、大航海時代のヨーロッパにまでその存在が知られるところとなりました。そのことは、16世紀にヨーロッパで作られた日本地図に石見銀山付近を示すとみられる表記として「銀鉱山王国」などの記載などからうかがい知ることができます。石見銀山で確立された鉱山技術は、佐渡、生野など国内他鉱山の開発を促し、日本は一躍世界有数の産銀国となりました。

大田市仁摩町沖から見た仙ノ山

大田市仁摩町沖から見た仙ノ山。写真中央のなだらかな山が仙ノ山。右手は馬路の高山と城上山。

 これほど大きな影響力を持っていた石見銀山ですが、銀鉱山としての規模はそれほど大きくありません。17世紀初頭に産銀がピークに達した後は衰退し、銅を主体とする鉱山として1923年まで稼働するものの、近代技術をもってしても銀の量産に再び成功することはありませんでした。

 なぜ、石見銀山は鉱床規模が小さいにも関わらず、世界的な影響力をもつ銀鉱山となり得たのでしょうか。  その答えはひとつではないでしょう。鉱山開発に長け、中国との交易を行っていた周防の大内氏の支配下で、他鉱山に先駆けて開発が進んだという社会的要因もあるでしょう。また、鉱床形成にまでさかのぼる自然史的要因も、石見銀山が特別な銀鉱山になった理由と考えられます。その鉱床は、鉱石を採りやすく、採った鉱石は銀を取り出しやすいものでした。ここでは、鉱床の特徴と形成に焦点を当てて紹介します。

日本の主要な金銀銅鉱山

日本の主要な金銀銅鉱山

地下の巨大採掘跡

 石見銀山の主体は、大田市西部の仙ノ山(538m)にある2つの鉱床です。仙ノ山山頂付近から東麓にかけての「福石鉱床」と西麓から隣の要害山にかけての「永久鉱床」の2つです。16〜17世紀の最盛期は、福石鉱床での産銀が中心だったと考えられています。

石見銀山付近の地質と鉱床

石見銀山付近の地質と鉱床。仙ノ山は大江高山火山の一角をなす火山。

石見銀山の鉱床

石見銀山の坑道分布

 明治時代に作成された坑内測量図には、「福石場」という広い空間が坑内に記されています。大きなものでは長さ20m、幅10m以上に達するものもあります。これが掘られたのは明治時代の再開発以前で、手掘りによる採掘跡です。必要最小限の範囲しか掘らない手掘りの時期としては異例の広がりを持つ空間です。

福石

福石と呼ばれた鉱石。写真は選鉱場で捨てられたズリ。火山礫のすき間を黒い熱水沈殿物が充填している。

 福石鉱床、福石場の名称は、ここで採られた鉱石が「福石」と呼ばれたことに由来します。江戸時代にはすでに鉱物、鉱石について細かく分類され、名称が付けられています。福石は石見銀山特有の鉱石で、一見“ただの石”にしか見えません。一般的な鉱脈型の鉱石は、脈の幅が数10cmから数mに限られますが、福石はそれ以上の広がりを持って分布していることが特徴です。このことは、作業効率の面で好都合です。鉱石が立体的な広がりを持って存在している箇所を掘り広げた部分が福石場です。福石場では上下左右の壁面のどこからも鉱石が採れるため、1ヶ所で何人もが同時に採鉱作業することができ、効率的です。しかも、福石は軟質のため、掘削と製錬工程の粉砕も容易です。これらの条件は、手作業で採鉱から製錬までを行う時代には極めて有利です。

 17世紀初頭の産銀量のピークは、「釜屋間歩」の開発によると伝わります。釜屋間歩と、隣接する「本間歩」は坑内で連絡していて、そこには広い福石場があります。また、本間歩の脇には露頭掘りで採掘された福石場とみられる広い採掘跡が残ります。これらが最盛期の産銀を支えた採鉱場である可能性が高いと思われます。坑内の本格的な開発以前の古い時期には、地表に広く露出した福石を採掘したと思われ、さらに“採りやすい”鉱山だったと思われます。

灰吹法による銀製錬

 金属生産において、鉱石から目的の金属をとり出す技術が採鉱と並んで重要です。多くの場合、金属元素は鉱物中で他の元素と化合しています。例えば、銀の主要な鉱石鉱物である輝銀鉱は銀と硫黄の化合物で、溶かしただけでは金属銀にはならないのです。自然金、自然銀など、ほぼ単一の成分からなり、自然界に金属として存在するものもわずかにあり、古代はこれらの製錬が不要なもの、またはごく簡単な技術で製錬できる鉱物のみが採鉱対象でした。銀の場合、自然銀の利用に始まり、次いで方鉛鉱が対象になりました。方鉛鉱は鉛を主とする鉱物ですが、鉛に対して数%の銀を伴うことが多く、これは灰や凝灰岩、土器などの上で加熱する、灰吹法の原形となる単純な技術で銀をとり出すことができました。

 石見銀山では1533年に灰吹法が導入されたと伝わります。石見銀山の主要な銀鉱物は輝銀鉱で、原始的な灰吹法では製錬できません。1533年に取り入れられた技術は、選鉱した鉱石に鉛を加えて溶かし、含銀鉛とその他の成分に分離した上で、灰の上で含銀鉛を熱して銀を取り出す技術です。空気を送りながら含銀鉛を溶かすと、鉛は酸素と結びついて酸化鉛になり、銀は鉛から離れます。酸化鉛は表面張力が小さいために灰に染み込み、灰の上には金属銀が残されるという仕組みです。幾度かこの工程を繰り返すことで、銀の純度を高めることができました。この技術によって、石見銀山の産銀は増大しました。さらに石見から佐渡、生野へ灰吹法が伝えられ、日本にシルバーラッシュがもたらされたとされます。

 ところが、灰吹法で銀を取り出すには条件があります。それは、銅を多く含まない鉱石を対象とすることです。多くの銀鉱山は含銅鉱物も産出する鉱床が採掘対象となります。選鉱工程で銅を含まない含銀鉱物だけを選別できれば銀生産は可能ですが、そうでない場合は、上記の灰吹法では、「銀を含む銅」までしかできません。銀と銅のより分けには、17世紀初頭に伝わった南蛮絞の技術を待つ必要があります。石見銀山も永久鉱床は含銅鉱物を主とします。しかし、福石鉱床は含銅鉱物はごく少量のため、鉱石を比重選鉱して灰吹する工程のみで銀を得ることができたのです。つまり、石見銀山の鉱石は取り出しやすい鉱石でした。このことは、16世紀の段階で銀の量産に成功した要因として見逃すことができません。

独特の鉱床が形成されるまで

 16世紀から17世紀初頭にかけて石見銀山が銀の量産を果たした大きな要因として、掘りやすく、取り出しやすい鉱床であることがあげられます。福石鉱床の軟質で掘りやすい岩石、効率的な採鉱が可能な富鉱体・福石場の存在、そして銅をほとんど伴わないことの3点は、当時の技術での銀生産において有利な条件でした。

 石見銀山の鉱床は仙ノ山火山の山体形成後に生じた高温の温泉活動(熱水活動)で形成されました。仙ノ山の山体は170万年前頃の噴火活動によって、火山礫と火山灰が堆積してできた凝灰岩類で大部分ができています。このような火山地形は火山砕屑丘と呼ばれます。形成直後は山全体が岩屑でできていて、すき間だらけで全く固まっていない状態です。このような山体の形成後、地下に貫入したマグマの熱によって熱水活動が生じました。熱水は、マグマに含まれる水が放出されたものと、地下水がマグマの近くで加熱されたものが起源です。地下深部では200〜300度、時にはそれ以上の高温で、水が液体で存在しています。高温の水は物質の溶解度が高く、金銀銅をはじめ様々な金属成分を含んでいることがあります。このような熱水は鉱液とも呼ばれます。鉱液が鉱床形成で重要な役割を果たします。熱水が金銀銅などを運び、岩盤中に鉱床を形成します。鉱液が移動して熱源から遠ざかることと、上昇による圧力低下に伴って沸点が下がることで温度が低下すると、金銀銅は水に溶け込んでいられなくなって沈殿します。その沈殿物が資源価値がある量の有用鉱物を含んでいれば、鉱石として採掘対象になり得ます。

 高温の鉱液は、岩盤の割れ目を伝わって流れます。硬い岩石の場合、鉱液の通り道は岩盤の割れ目だけです。割れ目を沈殿物が充填したものが、鉱脈です。仙ノ山の場合、山体が土砂状なので、鉱液は礫や砂粒子のすき間に染み込み広がりました。土砂状なので割れ目が発達せず、鉱脈の規模はごく小規模ですが、脈の周囲に鉱液が広く染み込んだことで、後に福石場となる富鉱体が形成されました。鉱物の沈殿によって土砂は固結しましたが、固結の程度は緩く、硬い岩石にはなりませんでした。その結果、掘りやすく、大きな富鉱部を持つ鉱床が形成されました。

 また、福石鉱床を形成した鉱液は銅の成分をすでに沈殿させた後のものだったと思われます。銅の鉱物は金、銀に比べて温度が高い熱水で沈殿します。化合物を作り難い金、銀は温度低下の早い段階で他の元素とともに鉱物を作って沈殿することがないため、温度が低下した鉱液中ではその存在度が高くなる傾向があります。 このように形成された鉱床の特徴によって、石見銀山は一時的にであれ、世界を席捲するほどの銀を産出できたのでしょう。

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