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地層から学ぶ
大地の歴史

■大田市の地形と地質

地形と気候の概要

 島根県大田市は山陰地域の日本海沿岸に位置します。中国山地の北に続く丘陵地帯が海岸まで迫り、岩石海岸の間に中小規模の砂質海岸が広がります。砂浜は鳴砂海岸の琴ヶ浜のほか、鳥井海岸などがあります。
沖積平野は静間川の中流から下流にかけてやや広い平野がある以外は、潮川下流や波根湖干拓地を含む東部の久手波根エリアなどに小規模なものが点在するのみです。
 主な山としては、南東部の三瓶山(標高1126m)、南西部の大江高山(標高808m)を主峰とする山群があります。それ以外には突出した山は少なく、山頂や尾根の高度がある程度そろう定高性が強い丘陵地が市域の広い範囲を占めます。この丘陵地は標高400m以下が大部分で、「石見高原」とも呼ばれる準平原地形です。

大田市の地形概要

大田市の地形概要。標高400m程度までの丘陵地帯(石見高原)が市域の広い範囲を占め、東に最高峰の三瓶山、西に大江高山とその一連の火山活動による山群があります。地理院地図を使用。

 大田市は日本海側気候の地域にあり、冬季を中心に北西風が優勢になると曇りや雨、雪の日が多くなります。アメダスの記録(1979〜2000年の平均値)によると、年平均気温は14.9度C、年間平均降水量は1747mmです(下図)。暖流の影響を受ける海岸部は比較的温暖な気候ですが、南東部の三瓶山地域、南西部の大江高山地域は高原型の気候となり、集落がある地域でも冬季の積雪が50cmを超えることもあります。

平均気温グラフ

月別平均気温(℃)

降水量グラフ

月別平均降水量(mm)

日照時間グラフ

月別平均日照時間(時間)

地質と「3つの時代の火山」

 大田市には地質鉱物の要素で指定された国の天然記念物が4つ(波根西の珪化木、松代鉱山の霰石産地、三瓶小豆原埋没林、琴ヶ浜)あることが象徴するように、変化に富んでいます。
 市域の地質は基本的に新生代古第三紀の花崗岩類(花崗岩、花崗閃緑岩)と流紋岩、デイサイトと同質の火砕岩を基盤として、新第三紀中新世の火山岩類を中心とする地層が重なります。新第三紀鮮新世から第四紀更新世にかけての堆積岩類も市域西部を中心に分布します。この堆積岩類は「都野津層群」と総称されるもので、陶土に適した粘土を産することから当地では窯業が盛んに行われてきました。
 西部には第四紀更新世の火山があり、大江高山を最高峰に大小30以上の溶岩円頂丘群(大江高山火山)を構成しています。東部の三瓶山は更新世末から完新世に活動した火山で、活火山に指定されています。
 中生代、古生代の岩体としては江津市との境界付近のごく限られた範囲に、「三郡変成岩」が分布しているのみです。この地層は片岩などが中心で、古生代末から中生代の堆積岩類が中生代に変成作用を受けたものです。

 当地の大地の特徴を示す要素として「3つの時代の火山」があります。その火山活動によって形成された岩石が市域の広い範囲に分布しており、それがもたらした資源が町の歴史文化に深く根ざしているというストーリーが、日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史」として認定されています。
 3つの時代の火山とは、およそ10万年前に活動をはじめた三瓶火山、約200万〜60万年前に活動した大江高山火山、そして、日本海が開いて日本列島の原型が形成された地殻変動をもたらした新第三紀中新世の火山です。

【用語の補足】

新生代:新生代は約6600万年前から現在までの地質時代。古第三紀(6600-2300万年前)、新第三紀(2300-258万年前)、第四紀(258万年前-現在)の3時代に大別されます。

中新世:新生代新第三紀のうち、約2300万年前から720万年前までの地質時代。日本海が広がり日本列島の原型が形成された時代として、日本の地質史において重要な時代のひとつです。

更新世、完新世:新生代第四紀のうち、約258万年前から1.1万年前までを更新世、約1.1万年前から現在までをい完新世と区別します。完新世は最終氷期が終わってから現在までの時代です。

溶岩円頂丘:粘り気が強い溶岩によって形成されるこんもりとした形の火山体。三瓶火山と大江高山火山の山体は大部分がこの地形です。

日本列島形成の時代の火山

 地球上に恐竜が生息していた中生代、ユーラシア大陸の東には太平洋が広がっていました。日本列島はまだなく、列島に囲まれる形の日本海もありませんでした。日本列島には恐竜の時代よりも古い時代の地層も分布していますが、それらは大陸の一部だった時代のものです。
 日本列島を形成した地殻変動は、約2600万年前に始まる新第三紀中新世にありました。恐竜の絶滅が約6600万年前ですから、それよりもずっと新しい時代の出来事です。
 中新世の初め頃、ユーラシア大陸の東では火山活動が活発になりました。地下深部から上昇した巨大なマグマ(プリューム)がその原動力と考えられています。火山の噴火とともに大地が引き裂かれるように広がり、「地溝帯」と呼ばれる谷が形成されました。アフリカ大陸の東にある大地溝帯と同じような現象だったと考えられています。
 谷は次第に大きく広がり、そこに海が入り込みます。海底でも火山活動は続き海はさらに広がり続けました。そして、約1500万年前頃になると大陸から引き離された地盤(大陸地殻)の一部はおおよそ現在の日本列島付近まで移動し、列島の原型が形成されたのです。

 日本列島の形成と関係して、海底や当時の海岸付近で噴火した火山が作った岩石は、日本海側を中心に北は北海道から南は静岡県の伊豆半島、西は島根県まで広く分布しています。その火山噴出物は緑色(green/グリーン)の凝灰岩(tuff/タフ)を特徴的にともなうことから、この地層を「グリーンタフ」と総称したり、分布する地域を「グリーンタフ地域」と呼ぶことがあります。
 大田市はグリーンタフ地域の西端域にあたります。西側の江津市との境付近でこの地層がほぼ途切れるのです。大田市はグリーンタフの地層が広く、しかも典型的に分布しています。
 湯泉津町で産出する「福光石」は淡い緑色の凝灰岩で、まさしくグリーンタフです。この石は室町時代から現在まで採石が続いており、石見銀山を中心に石材として多く使われてきました。大田市には福光石以外にも凝灰岩を採った採石場の跡が各所に残り、石としては比較的柔らかく加工しやすい石材を様々な場面で利用してきました。
 また、グリーンタフは鉱物資源に富んでいることでも知られます。この地層は銅、鉛、亜鉛などの様々な金属鉱物が混じった「黒鉱」という鉱石を産出する「黒鉱鉱床」を含みます。海底火山活動によって海中に噴出した熱水(高温の地下水)に溶けていた物質が沈澱してできた鉱床で、日本列島固有のものです。黒鉱鉱床の周辺にはしばしば石こう鉱床を伴います。大田市では明治時代から昭和40年代まで、黒鉱鉱床に伴う石こう鉱床が採掘され、鬼村鉱山、松代鉱山などは出雲市の鰐淵鉱山とともに日本の石こう生産のかなりの部分を占めました。

福光石

福光石の採石場。「福光石」は石材名で岩石名は火山礫凝灰岩。

 大田市の海岸では、グリーンタフの地層を各所で見ることができます。激しい地殻変動の地層だけに変化が激しく、場所によって地層の様子が異なるために様々な景観が見られ、目をひくものも少なくありません。
 波根町の立神岩は礫岩と凝灰岩が明瞭な縞模様を構成しています。この地層の延長にあたる久手町には大型の樹木化石波根西の珪化木があります。
 仁万海岸では仁万の硅化木のほか、火山砕屑丘の断面、鮮やかな緑色の凝灰岩が露出した波食台、メノウ岩脈など変化に富んだ地層がみられます。面白いものではタマネギ状のノジュールが見つかります。
 仁摩町から温泉津町の海岸には海底火砕流によって堆積した凝灰岩が分布していて、その岩石が浸食されて入り組んだリアス海岸を構成しています。石見銀山からの銀の積み出しや物資の運搬に使われた鞆(仁摩町)、沖泊、温泉津(温泉津町)は、リアス海岸の湾を使った良港でした。温泉津湾の西岸では海底火砕流の地層がさらに海底地滑りを起こしたことで形成されたスランプしゅう曲を観察できます。

仁万海岸のグリーンタフ

仁万海岸に露出するグリーンタフ。近くにはこの地層に取り込まれて化石化した仁万の珪化木がある。

石見銀山を生んだ大江高山火山

 大江高山火山は大田市西部にあり、大江高山(808m)を筆頭に、矢滝城山(586m)、仙ノ山(537m)、高山(499m)などの峰(ピーク)があつまり、東西約4km、南北約6kmの範囲に、大小30峰以上を数えることができます。多くの峰があることから「大江高山火山群」と呼ばれることもあります。
 火山の周辺は標高数10mから200m程度までの比較的平坦な地形で、そこにこんもりとした峰が集まることから、少し離れた位置から見ると印象的な地形をしています。

大江高山火山遠景

三瓶山山頂からみた大江高山火山。なだらかな丘陵地の一角にけわしい山(溶岩円頂丘)が寄り集まる景色が印象的です。

 大江高山火山のこんもりとした峰は、粘りけが強い溶岩の噴出によってできる「溶岩円頂丘」という火山地形です。溶岩は主な成分である二酸化ケイ素(SiO2)の量によって粘りけに違いがあり、この成分が多いほど粘りけが強く(ねばねば)、少ないと弱い(さらさら)という関係です。大江高山火山の峰は二酸化ケイ素の量が多いデイサイト溶岩(SiO263〜70%)でできており、火口の位置を変えながら噴出した溶岩によって多数の溶岩円頂丘が形成されました。
 溶岩円頂丘の形成に先立って、大規模な爆発的な噴火が幾度も繰り返されました。大規模な爆発的噴火では大量の軽石や火山灰を放出しており、これらの噴出物と火山弾、溶岩(火山岩)が砕けた礫など(これらを総称して、火山砕屑物(火砕物)と呼びます)が堆積した地層が溶岩円頂丘の周囲に分布しています。石見銀山の銀鉱床を持つ仙ノ山は、火山砕屑物が堆積してできた「火山砕屑丘」と呼ばれる地形です。
 火山活動の時期は、約220万年前から約55万年前までの範囲の年代値が得られています。放射性元素を使う方法(カリウム-アルゴン年代)や放射性元素が崩壊する時に発する放射線が残す傷跡を計測する方法(フィッション・トラック年代)で得られた年代値ですが、その測定数はそれほど多くなく、活動時期の解釈は文献によってまちまちです。おおまかには、約200万〜100万年前を中心に、少なくとも100万年以上にわたって活動を繰り返したととらえることができるでしょう。
 大江高山火山の峰には、希少なギフチョウが多く生息していることでも知られます。桜が開花する頃、大江高山では数多くのギフチョウを見ることができ、全国でも有数の生息地とされます。また、同じ時期に島根県固有の植物であるイズモコバイモが咲き、県内では数少ないミスミソウの自生地でもあります。この火山の峰々の山林も、1950年代頃までは炭や薪のために伐採が進んでいましたが、それでも、けわしい地形のおかげで希少種が残されたのかも知れません。

大田市南西部の地質図

大田市南西部の地質図

大江高山のミスミソウ

大江高山に咲くミスミソウ。4月中旬に撮影。

大江高山のギフチョウ

大江高山のギフチョウ。西日本で有数の生息地となっている。4月中旬に撮影。

神話の山を生んだ三瓶火山

三瓶山遠景

親子が遊ぶ西の原草原から男三瓶山(左)と子三瓶山(右)を見る。


 島根県のほぼ中央、石見と出雲の国境にそびえ、出雲国風土記が伝える国引き神話に登場する三瓶山は、人の歴史と自然が織りなしてきたたおやかな景観が特徴の山です。
 その心優しい景観とは裏腹に、三瓶山の生い立ちは荒々しさに満ちています。三瓶山は約10万年前に始まった火山活動によって生まれました。男三瓶山(1126m)を主峰とする複数のピークからなり、これはデイサイト溶岩からなる溶岩円頂丘の集まりです。
 約10万年前、標高400〜500mのピークがなだらかに連なる石見高原の一角で火山活動が始まりました。7回の活動期があったことが知られており、最新の活動は4000年前です。粘り気が強いマグマによる火山活動は、噴煙を高々と吹き上げる大規模な軽石噴火を伴うこともありました。最初の活動期に噴出された「三瓶木次テフラ」は、東北地方でもその分布が確認されています。
 約5万年前の第2活動期に大火砕流の「大田軽石流」が発生した際には、直径約5kmのカルデラが形成されました。カルデラはその後の噴出物でほぼ埋没されていますが、その範囲は山裾を取り巻く緩斜面として地形的に判別できます。約4.6万年前の第3活動期にも軽石噴火を行い「三瓶池田テフラ」を噴出しました。
約1万9千年前の第4活動期では、「三瓶浮布テフラ」をもたらした軽石噴火の後、デイサイト溶岩の噴出があり、溶岩円頂丘が形成されました。この時に形成された溶岩円頂丘の名残が日影山で、三瓶山で最も古い峰です。約1万1000年前に小規模な活動があり、約5500年前と約4000年前に山体の大部分が形成されました。

 縄文時代にあたる約5500年前と約4000年前の火山活動は、人類の活動にも直接、間接的に影響を与えました。三瓶山東麓の神戸川河岸では、テフラの上下から縄文時代の遺物が出土しています。避難を余儀なくされた縄文人がいたかもしれません。また、神戸川を通じて下流に運ばれた火砕物は、出雲平野西部の地形の原型を形成しました。
出雲平野西部には弥生時代の集落遺跡が集中しています。遺跡の多くは周囲より若干高い「微高地」にあり、その地盤は三瓶火山の火砕物でできています。三瓶火山は「古代出雲文化」を支えた人々が暮らした土地を作り出す役割も果たしたのです。

 現代の三瓶山は、人との関わりが深い山ですが、そのひとつの転機は江戸時代の前半、幕府直轄領だった大田に置かれた吉永藩が牧畜を奨励したことでした。三瓶山で牛の飼育が盛んになり、山裾から山腹の広い範囲が草原に変わりました。明治時代から第二次世界大戦が終わるまでは、草原は陸軍の演習地にも使われました。
現代まで400年近く維持されてきた草原は三瓶山の象徴となり、そこは希少な草原性植物の宝庫にもなっています。かたや、男三瓶山の北斜面には「三瓶山自然林」が広がっています。これらの環境が育む生態系の重要性と、火山地形と草原からなる景観が評価され、三瓶山は1963年に大山隠岐国立公園三瓶山地区として、国立公園に指定されました。登山フィールドとしても中国地方屈指の存在で、三瓶山は四季を通じて人々に親しまれ、愛されています。

→三瓶山の自然史(三瓶火山の歴史と三瓶小豆原埋没林)

瓦産業をもたらした都野津層

 大田市以西の島根県(石見地域)には、おおむね300万〜200万年前頃(新生代新第三紀鮮新世末〜第四紀更新世前半)に堆積した地層が断続的に分布しています。この地層は「江津層群」と総称され、その大部分が「都野津層」と呼ばれる地層です。都野津層は海岸付近で堆積した地層で、礫層を主体としながら、その間に数枚の粘土層を挟みます。粘土層の中には、陶土に適した粘土を産出する部分があり、「石州瓦」に代表される石見地域の窯業に用いられています。都野津層の上には、島の星層、室神山層が重なり、これらは江津市を中心に分布し、一部、大田市内にもこれらに相当する地層が分布しているとされます。
 江津市を中心に、海岸部に分布する都野津層には、4〜5枚の海成粘土層が挟まれており、4〜5回の海進海退サイクル(海面変動による海岸線の前進後退)のもとで都野津層が形成されたことがわかります。なお、海成粘土は焼成すると変形を起こしやすい粘土鉱物を含んでいることから、以前は陶土としてはあまり用いられませんでしたが、近年は精製して用いるようです。
 大江高山火山の南東の大田市水上町を中心とする地域にも都野津層に相当する地層があり、「水上層」と呼ばれます(都野津層と水上層を特に区別せず、一括して都野津層とすることもあります)。水上層は都野津層よりも内陸側で形成されたもので、海成粘土層を挟まないことが特長です。
 都野津層・水上層と大江高山火山の噴出物は一部で互いに重なり合っています。このことは、都野津層と水上層の堆積が進んでいる時に、その傍らでは大江高山火山の活動があったことを示しています。江津層群にの最上部にあたる砂層は大江高山火山の三子山や仙ノ山の噴出物を覆っており、三子山では硅砂鉱床として採掘されています。
 都野津層と水上層からは動物や植物の化石を産出することもあり、江津市都野津町では約300万年前に生息していたステゴドンゾウが発見されています。

水上層の露頭

粘土採掘場の跡地に残る水上層の露頭。礫層が主体で間に粘土層を挟む。

水上層の礫層

水上層の礫層。大半を白色〜明灰色の流紋岩質の礫が占める。

大田市の鉱物資源

 普段、意識することはありませんが、大田市は鉱物資源に富む「鉱山の町」という側面を持ちます。歴史的には石見銀山は国内外の経済や文化交流に影響を及ぼした銀鉱山でした。明治時代以降は石こう鉱山が基幹産業のひとつとなり、昭和40年代まで国内の石こう生産を支えました。その後もゼオライトやベントナイト、珪砂鉱山が令和の時代まで稼働を続けています。

 石見銀山は、大田市南西部の仙ノ山(標高537m)に銀および銅を産した鉱床を対象に採掘された鉱山です。仙ノ山火山の地下に貫入したマグマによって形成された熱水鉱床で、鉱床の形成時期は150万年前頃と見積もられています。
石こうやゼオライト、ベントナイトの鉱床は日本列島形成の時代の火山がもたらしたものです。深く潮流の影響が少ない海底で噴出した熱水がさまざまな金属鉱物が混じる黒鉱鉱床を形成し、その周辺には石こう鉱床が形成されました。火山噴出物の地層などに浸透した熱水は、銅、鉛などを産した鉱脈鉱床を形成し、凝灰岩が熱水による変質を受けたことでゼオライトやベントナイトの鉱床が生成されました。
 石こう鉱床としては、明治時代に採掘が始まり日本最古の近代型石こう鉱山と言われる鬼村鉱山、ほぼ同時期に開発が始まった松代鉱山(久利町)があります。松代鉱山に連続する鉱床を長久町延里側から採掘した延里鉱山や黒鉱鉱山、ゼオライト鉱山としても稼働した石見鉱山(五十猛町)も石こうを産出しました。同様に長谷鉱山(大田町)も石こうの採掘から後にゼオライト鉱山として稼働した鉱山です。
 石こうの主力鉱山だった松代鉱山では、石こう鉱床に近い泥岩層から霰(あられ)石の結晶集合体(クラスター)を産しました。(→松代鉱山の霰石産地)これは球状をしていることがあり、大きなものはバレーボールほどの大きさがありました。世界的にも珍しく、他に産出例がない結晶集合体であることから、産出範囲が国の天然記念物に指定されています。なお、霰石に鉱石としての価値はなく、鉱山稼働時は大きなものがあると記念品的に残し、小さなものは排出土(ズリ)として捨てられていたようです。

 ゼオライト鉱山では、上記の石見鉱山、長谷鉱山のほか仁万鉱山(仁摩町)があります。朝山鉱山(朝山町)がベントナイト鉱山としては国内有数の規模を有します。
 その他、石見銀山の銀製錬に用いる鉛を産出した鉱山のひとつ、五十猛鉛山(五十猛町)、江戸時代から銅を採掘した吉永銅山(川合町)、銅とわずかな金銀を産出した池田鉱山、御崎鉱山(いずれも三瓶町)などの鉱山があります。

 堆積性の鉱床としては、温泉津町の三子山鉱山があり、国内では数少ないケイ砂鉱床です。主にガラスの原料に使われており、国内で生産される自動車ガラスはこの鉱山のケイ砂が多く使われています。また、水上町から温泉津町にかけては陶土となる粘土を含む地層(都野津層)が分布しており、瓦を中心とする窯業の原料として採掘されています。

石見鉱山

黒鉱を採鉱した石見鉱山の鉱山施設跡。

三子山鉱山の採掘場

三子山鉱山の珪砂採掘場。山腹を取り囲むように分布する珪砂を採取している。

汽水湖干拓の先駆、波根湖干拓地

波根湖干拓地

大西大師山から見た波根湖干拓地。中央付近の切り通しが波根湖と海をつないでいた掛戸。

 大田市久手町から波根町にかけて、国道9号線脇に広い水田地帯が広がります。潟湖を干拓して作った波根湖干拓地です。
 この地には1950年まで「波根湖」がありました。波根湖は砂州によって湾が閉ざされた潟湖です。山陰本線が通り、周囲に集落が続く柳瀬から波根にかけての一帯が砂州にあたります。波根湖は海水も入り込む汽水湖でした。
 波根湖の干拓は、当時の食料難を解消する目的で計画、実施されました。汽水湖の干拓はそれまであまり例がなく、海水に由来する硫黄や塩類が湖底堆積層(干拓地の耕作土となる)に残されているため、干拓当初は酸性障害や塩害に悩まされ続けたそうです。その対策法は、後の八郎潟干拓などで参考にされました。

 旧波根湖堆積層は最大厚さ30mに達し、軟弱な泥の層からなります。その下部には、「年縞」と呼ばれる縞状構造が残っています。明瞭な年縞は全国でも数ヶ所でしか確認されていない珍しいものです。旧波根湖堆積層からは韓国の鬱陵火山からもたらされた軽石も発見されています。約10000年前の噴火によって放出された軽石が海面を漂い、当時の波根湖の岸辺に流れ着いたものです。

 かつて、波根湖から流れ出る水は、砂州の一部にあった川を通じて排水されていましたが、そこが閉塞しがちになるために丘陵の岩盤を開削して「掛戸」の水路が開かれました。地元の伝承では、14世紀初頭に地元の有力者、有馬氏が開削したと伝わります。古代から中世頃まで、波根湖は港として使われ、南岸には塔を有する寺院「天王平廃寺」がありました。

 現在、波根湖干拓地では地盤沈下が進行しつつあります。厚い軟弱な泥層があるため、圧密沈下が進行します。軟弱な泥は多量の水を含んでおり、それが脱水することで堆積が縮小し、地盤沈下を引き起こします。沖積平野でよくある現象です。


 波根湖の地形変遷史には、自然の作用と人の活動の結果として現在の環境が成り立つ過程が凝縮されていると言えるでしょう。→波根湖の地形変遷

掛戸と松島

波根湖の水を排水するために開削された人工水路「掛戸」の開削部分。

参考文献

鹿野和彦・宝田晋治・牧本博・土谷信之・豊遙秋(2001)地域地質研究報告(5万分の1地質図幅)「温泉津及び江津地域の地質」.129p.

永井淳也・山内靖喜・大平寛人・永島晴夫(2003)江津層群・島の星層のFT(フィッション・トラック)年代.島根大学地球資源環境報告,22,67-74.

山内靖喜・水野篤行・井上多津男・永島晴夫(2000)都野津層と大江高山火山噴出物.日本地質学会第107年学術大会見学旅行案内書.71-79.

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