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石見銀山の自然史

■石見銀山の自然コラム(10周年パネル展示)

目次

1.世界を動かした日本銀
2.シルバーラッシュの発火点
3.小さくて大きな銀鉱山
4.物語は火山から
5.銀生産の主力鉱石「福石」
6.地下に眠る大空間
7.鉛が銀を誘い出す
8.仙ノ山輝く
9.掘る
10.鉱石を砕く
11.地質分布と鉱床
12.平成の金鉱脈
13.水が銀の運び役
14.金銀銅が珍重された理由

1.世界を動かした日本銀

16世紀、日本は世界屈指の銀の産出国でした。当時の日本の産銀量は世界の銀生産の3分の1にも達したとされます。
日本銀は中国との貿易に多く使われ、西日本を中心とした国内経済を支える中心的な輸出品でした。日本銀の流通によって中国の市場は賑わい、スペインやポルトガルからも交易船が訪れるようになりました。日本銀は東アジアとヨーロッパの交易のきっかけになり、世界の文化交流に大きな影響をもたらしたのです。
日本にもヨーロッパ人が直接訪れるようになり、キリスト教の伝来など西洋文化の流入が始まりました。

大内氏の本拠、山口市の瑠璃光寺

16世紀に石見銀山を支配した戦国大名、大内氏の本拠だった山口市にある瑠璃光寺五重塔。大内氏は銀を使って明との貿易を行い、西日本有数の大名となった。宣教師フランシスコ・ザビエルが大内氏のもとへ訪れたのは、石見銀山が最盛期を迎えた16世紀中頃だった。

2.シルバーラッシュの発火点

16世紀における日本銀の量産は“シルバーラッシュ”と呼ばれるほどの一大画期となり、国内外の政治経済の転換期をもたらしました。そのきっかけとなったのが石見銀山の開発でした。
石見銀山は1527年に本格的な開発が始まったとされ、製錬技術「灰吹法」の導入成功によって一気に世界屈指の銀鉱山に発展しました。石見での成功で培われた技術が佐渡(新潟県)や生野(兵庫県)に伝わると国内の産銀量は飛躍的に拡大し、シルバーラッシュが沸き起こりました。石見銀山は世界の歴史を動かしたうねりの発火点だったのです。

石見銀山仙ノ山本谷の間歩。最盛期をもたらした釜谷間歩群。

石見銀山の仙ノ山本谷地区に残る古い時代の開発の痕跡。ここでの開発の歴史は、少なくとも江戸時代前半までさかのぼることができる。写真の坑道は、17世紀初頭に産銀量のピークを迎えた時に開発されたと伝わる釜谷間歩群に関連する採掘跡で、鉱脈を追って坑道を掘り進めた様子がわかる。

3.小さくて大きな銀鉱山

16世紀の石見銀山は、世界の銀生産量を誇った大銀山でした。
掘りやすい岩質などの特徴のおかげで、当時としては多くの銀を産出したものの、銀を主体に採掘した期間は100年程度の短いものでした。17世紀後半にはすでに銀鉱山としてのピークは過ぎていました。明治時代に削岩機や火薬を導入した再開発も短命に終わり、1923(大正12)年に休山しました。
近代以降の開発規模が小さかったことは、遺跡としては破壊を免れることになり、最盛期の開発の痕跡が多く残っています。

明治時代、藤田組が石見銀山の再興を目指して建設した清水谷製錬所の跡。

大森町にある清水谷製錬所跡。明治時代に最新の技術を導入して銀鉱山として再開発するために建設されたが、わずか1年半で操業停止した。大規模な鉱山は明治時代以降に生産規模が拡大した例が多いが、清水谷製錬所が短命に終わったことは、石見銀山は操業に見合うだけの量と質の鉱石が残っていなかったことを物語っている。

4.物語は火山から

石見銀山の鉱床は主に大田市大森町の仙ノ山(537m)の地中に存在します。
仙ノ山は150万年前頃に活動した火山で、山体の中心は溶岩のかけらと火山灰が堆積してできた岩石です。山体の形成後、熱水(高温の温泉)活動が生じました。この熱水には銀などの成分が溶けており、地表付近で温度が低下すると岩石の割れ目や隙間に鉱物が沈殿して鉱床が形成されました。
もともと土砂状だった仙ノ山の岩石中にできた鉱床は掘削が容易で、しかも鉱物の組み合わせは当時の精錬技術で銀を取り出しやすいものでした。そのような地質的特徴が16世紀に銀の量産に成功したことと深い関わりがありました。

石見銀山の本体、仙ノ山。火山砕屑岩からなる特殊な火山体。

石見銀山一帯の山なみ。これらの山は大江高山火山と総称される火山の集まりで、デイサイト質マグマの活動で形成された。粘り気が強い溶岩で形成された「溶岩円頂丘」という火山地形が大半であるが、仙ノ山だけは火山礫と火山灰が堆積してできた「火山砕屑丘」。(大田市水上町で撮影)

5.銀生産の主力鉱石「福石」

石見銀山で銀生産の主力だったのは仙ノ山の中腹から山頂付近に分布する福石鉱床でした。
この鉱床は、鉱脈自体はごく細く、せいぜい数cmの幅しかありません。含有率が高い部分もあったものの、それだけでは採掘対象として貧弱です。しかし、鉱脈の周辺の岩石にも銀鉱物が含まれて採掘対象になることから鉱山として成立しました。鉱脈周辺の含銀鉱石は、「福石」と呼ばれました。福石は見た目は"ただの石"ですが、1トンあたり300〜500g程度の銀を含みます。岩質が柔らかく、採掘や精錬の効率が高いことが利点で、石見銀山の銀生産を支えた主力鉱石でした。まさに、福を呼ぶ石だったのです。

石見銀山仙ノ山の福石鉱床の岩石。礫の間に網目状に鉱物が沈殿している。

礫と礫の間に黒色の鉱物(主に菱鉄鉱、菱マンガン鉱)が沈殿して網目状になった仙ノ山火砕岩。岩石中に金属成分が溶けた熱水(鉱液)が浸透することで形成された。黒い細脈部分はしばしば銀を含む鉱物(輝銀鉱など)をともなう。また、岩石部分にも含銀鉱物が含まれることがある。

6.地下に眠る大空間

仙ノ山の東斜面の本谷地区には銀生産最盛期の採掘跡が残ります。明治時代に作成された坑道図によると、本谷地区の地中に縦横に走る坑道の所々に「福石場」という空間が点在することが確認できます。福石場は鉱石が立体的に広がっていた部分を掘り広げた場所です。
福石場は、細い鉱脈を掘り進める場合に比べて鉱石の採掘効率が高く、石見銀山が生産性の高い鉱山だったことを象徴する場所と言えます。礫や火山灰が堆積してできた火山帯に熱水が浸透して鉱床が形成された時、熱水の主要な流路となった亀裂の周辺が幅広く鉱化て福石場が形成されたとみられます。

石見銀山仙ノ山の福石鉱床の岩石。礫の間に網目状に鉱物が沈殿している。

藤田組(現DOWA)が作成した本谷地区の坑道図の一部(個人蔵)。図の右に大久保間歩の主坑道があり、その奥(左側)に福石場が点在している。「天井三番鉉福石場」と「矢吾福石場」は大きな福石場で、図面上には20m×15m程度の広がりが表現されている。この図には銀品位も記入されており、極めて貴重な資料。

7.鉛が銀を誘い出す

石見銀山がシルバーラッシュを先導した一因に、いち早く製錬技術「灰吹法」を導入し、銀製錬に成功したことが挙げられます。この技術は、1533年に朝鮮の技術者が伝えたとされます。
鉱石中には、様々な成分が含まれており、そこから銀を取り出すためには、銀と他の成分を分離する必要があります。その時、重要な役割を果たすのが鉛です。鉱石に鉛を加えて溶錬すると、銀は他の成分から離れ、鉛との合金になります。この銀鉛合金は「貴鉛」と呼ばれます。貴鉛を灰の上に置き、空気を送りながら溶かすと鉛は灰に吸い込まれ、銀が残ります。これを繰り返すことで銀純度を高めました。

石見銀山仙ノ山の山頂近くにあった集落、石銀集落跡の発掘状況。

仙ノ山山頂近くの石銀地区で行われた発掘調査の様子。家屋が立ち並ぶ集落の遺構が検出され、製錬が行われた痕跡も発見された。写真の右には開口している間歩が見える。(大田市教育委員会資料)

石見銀山仙ノ山の石銀集落跡で発見された銀製錬用の鉄鍋。

石銀集落跡の建物跡で、製錬遺構にともなって出土した鉄製鍋。内部から銀と鉛の成分が検出され、灰吹法に用いられていたことが判明した。鉄鍋を用いる技術は朝鮮と共通し、灰吹法伝来伝承の裏付けとなった。(大田市教育委員会資料)

8.仙ノ山輝く

江戸時代に記された「石見銀山旧記」には、博多商人・神谷寿禎が日本海を進む船から仙ノ山に光を見て、石見銀山を発見したとあります。類似の伝承は各地の鉱山に伝わり、定型性がある発見伝承です。
江戸時代の鉱山技術書「山相秘録」には、金銀山を見つける方法として山が放つ光や気を見分けることが書かれており、“山が光る”は当時の技術者の共通認識だったようです。

しかし、実際には鉱山が光ることはありません。技術者が山を見分ける技術の肝心の部分をはぐらかすためか、言葉では言い表すことが難しい経験的な感覚を「光」や「気」という言葉で言い表したのかも知れません。

日本海の海上、大田市仁摩町の沖から見た石見銀山仙ノ山。

大田市仁摩町沖の日本から見た仙ノ山(中央)。右は馬路高山。石見銀山旧記には、1527年に神谷寿禎が出雲市大社町の鷺銅山へ向かう戦場で仙ノ山に光を見て船頭に尋ね、その山がかつて銀を産した銀峯山(仙ノ山)と知ったとある。

9.掘る

地下深部を掘削して坑道を設ける技術は鉱山開発の重要な要素です。石見銀山は中世から近世初頭にかけての時期に、鉱山開発技術の先進的な鉱山でもありました。江戸時代には石見の技術者が佐渡(鶴子銀山)など他の鉱山に行動開発の指導に行った記録が残ります。
採掘技術には、地表に露出した鉱石を採る「露頭掘り」、鉱脈を追って地中へ掘り進む「樋追(ひおい)」、排水を兼ねた水平坑道(横相)と採掘坑道(樋延)を組み合わせる「横相(よこあい・よこそう)」(注:横相とは、狭義には水平坑道部分を指すが、樋延との組み合わせが必須の技術のため、ここでは両者を含めて横相とする。)などがあり、近代以降は垂直坑道(竪坑)も取り入れられました。仙ノ山の山中には、これらの技術によって採掘された跡が残り、状況に応じた技術の使い分けや採掘技術の発展の過程を知ることができます。

石見銀山の主力坑道のひとつ、龍源寺間歩の入り口

横相坑道の典型例、龍源寺間歩。排水坑道と作業通路を兼ねた大規模坑道で、坑口から約800m奥まで水平坑道が続いている。途中で幾つもの鉱脈と直行し、樋延坑や竪坑が多数交わっている。龍源寺間歩の約100m下には永久坑道がほぼ並行して通っている。

横相坑道のイメージ図

横相坑道は、山中に並行する複数の鉱脈を効率的に採掘する技術。鉱脈は断層など岩盤の割れ目に形成され、図中で赤色で示したように板状をしていることが多い。横相は並行する鉱脈に対してほぼ直行する方向に坑道を設け、鉱脈に達するとそこから採掘坑道(樋延)を伸ばす。横相は作業通路と排水を兼ねることで、湧水を効率的に処理できる。横相の下に並行して排水専用の坑道(水道)を設ける場合もある。

10.鉱石を砕く

掘り出した鉱石は、銀に富む部分と少ない部分が混在しており、より分ける作業「選鉱」が必要です。鉱石の塊を砕きながら、目で見分けられる不要部分は取り除き、最終的に粗い砂粒程度まで粉砕します。砕く作業に用いた硬い土台石を「要石(かなめいし)」といいます。大森町には要石が多数残っており、多くの人が作業に従事したことを物語っています。
細かく砕いた鉱石は浅い盆に入れて水中でゆらし、比重の違いによって銀鉱物がふくまれている重い粒だけをより分けました。このような工程によって得られた銀含有量の多い鉱石を、製錬炉に入れて溶かす溶錬に用いました。

石見銀山で使われた要石。

要石。砕いた鉱石が飛び散らないように浅いくぼみが設けられている。くぼみは石の面にひとつだけの場合が多いが、この石のように花を連想させる形にしたものもある。要石に用いた石は硬質な安山岩で、大田市川合町産のものが使われている。

11.地質分布と鉱床

石見銀山の鉱山としての中心は仙ノ山(標高537m)です。この山は火山で、約150万年前に活動を行いました。
仙ノ山はデイサイト質の火山礫と火山灰からなる火砕岩を中心として、一部にデイサイト溶岩を伴っています。仙ノ山の火山噴出物の下には、その火山活動の直前まで堆積が続いていた礫、砂、泥からなる地層(水上層)と、約1600万年前の海底火山活動によって形成された凝灰岩を主体とする地層(久利層)があります。
石見銀山の銀鉱床「福石鉱床」は仙ノ山の火砕岩中に、銀銅鉱床「永久鉱床」は主に久利層および地下に貫入したデイサイトの中にあり、深度と母岩の性質が、それぞれの鉱床の構成鉱物の違いに関係していると考えられます。

石見銀山周辺の地質分布。

石見銀山周辺の地質図。図中の白色の線は坑道の平面位置。鉱床は一部が要害山に連続するものの、大部分は仙ノ山の地下にある。仙ノ山型デイサイト(主に火砕岩)は標高250m以上に分布し、福石鉱床はその中にある。永久鉱床は仙ノ山型デイサイトの分布高度より下が主体となる。

12.平成の金鉱脈

石見銀山は、大二次世界大戦中に一時期再開発されたものの、1923(大正12)年に事実上閉山した古い鉱山です。早い段階で“掘り尽くした”ということですが、資源探査の調査は昭和以降も数度行なわれました。
兵士絵のはじめに金属鉱業事業団(当時)が行った調査では、仙ノ山西斜面の地下約650mの深部で良質の金銀鉱脈が確認されました。鉱石1t中の金含有量が100gを超える高品位金鉱で、金鉱山として石見銀山が再興かと注目されました。しかし、その後の調査で採算規模の鉱脈を確認することができず、再開発には至りませんでした。

金属鉱業事業団が行った地質調査の結果。

1989年に金属鉱業事業団が行ったボーリング調査の結果。斜めにボーリング掘削を行い、連続すると推定される含金銀鉱脈を確認した。この時、操業再開には至らなかったが、もし再開発されていたら世界遺産への道は閉ざされていたかもしれない。(図版および分析結果は、金属鉱業事業団(1990)平成元年精密調査報告書より引用)

13.水が銀の運び役

銀の地表での存在量は、岩石1トンあたり平均0.07gとわずかです。これを濃縮させ、銀鉱床を形成する役割をマグマの熱と水が果たします。マグマには水が含まれており、マグマが冷却する過程で水が放出されます。この水は200度Cを超える高温で、マグマ中にあった銀などを溶かし込んでいることがあります。この地下の高温の水は熱水と呼ばれ、これが岩盤の割れ目を伝って上昇し、地表に達したものが温泉です。
熱水が上昇すると、圧力の低下とともに温度が低下し、また、火山ガスが抜けることなどに伴って溶けていた成分が沈殿し、熱水の通り道になる岩盤の隙間を充填していきます。このような過程で有用鉱物が濃縮したものが鉱床です。

石見銀山の鉱床形成のイメージ図

仙ノ山は砂礫状の火山礫や火山灰が堆積してできた山で、その地下には貫入したマグマが存在している。100万年以上前、このマグマが高温だった時に熱水の活動が生じ、仙ノ山の地下に鉱床を形成した。その当時、仙ノ山はいたるところから蒸気を吹き上げる「温泉の山」だったと推定される。

14.金銀銅が珍重された理由

金銀銅は稀少性が高く、古い時代から珍重されてきました。金は特に稀少であることに加えて、変質しない普遍性があることから、古代から貴金属として高い価値がありました。銀はこれに次ぎ、貨幣として世界でつかわれました。
金、銀、銅は金属の状態で自然界に存在する自然金、自然銀、自然銅があります。これらはそのまま金属として使うことができ、製錬技術がなかった時代には極めて貴重な資源でした。そのため、これらの金属は古くから世界的に共通して価値あるものとして認識され、使われてきたと思われます。

純銀のインゴット。三菱マテリアル社から借用したもの。

純銀のインゴット。1つが30kgある。最盛期の石見銀山は年間10トンを超える銀を産出したと試算されており、このインゴット300個分以上を産したことになる。
現在、銀は装飾品のほか、電子機器や触媒などの工業用、生活用品などに用いられている。

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