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石見銀山の自然史

■石見銀山輝く 石見銀山の自然解説

目 次

1.石見銀山の概要
(1)立地と地質概要 (2)歴史の概要 (3)世界を動かした石見銀

2.石見銀山の鉱床
(1)福石鉱床と永久鉱床 (2)鉱床形成のメカニズム (3)鉱床形成の背景 
(4)銀の生成 (5)銀の性質と利用

3.鉱山開発と製錬
(1)石見銀山の発見 (2)採掘 (3)製錬 (4)「循環型」の開発 (5)鉱害

4.現在に伝わる景観
(1)町並み・街道・港  (2)景観と地下資源

石見銀山輝く〜その時、世界が動いた

 16世紀。富を求める西欧諸国の船が大海原を行き来した大航海時代。この時代に日本でひとつの銀鉱山が開発された。
その名は石見銀山。

 「石見銀山旧記」によると、石見銀山の本格的な開発は、1527年に博多商人・神屋寿禎が日本海沖を船で航行中に銀峯山(仙ノ山)に光をみたことがきっかけではじまったと伝わる。
灰吹き法という精錬法の導入によって、石見銀山の産銀量は飛躍的に増加し、16世紀半ばには銀は日本の輸出品の主力になった。
当時、日本銀は世界の産銀量の3分の1を占め、その主力が石見銀だった。多量の日本銀は東アジアの市場を席巻し、西欧諸国からも注目されるところとなった。数多の交易船が日本銀をめざして東アジアを訪れるようになり、ヨーロッパとアジアを結ぶ交易ルートが確立された。文化と物流の世界的な流れが始まったのである。

 日本国内においても、石見銀山は大いに注目された。毛利氏や尼子氏など近隣の戦国大名は、石見銀山を巡って激しい争奪戦を繰り広げた。
そして1600年、関ヶ原の戦に勝利した徳川家康は間髪を入れず石見銀山を直轄領とした。

 17世紀初頭、石見銀山の産銀量はピークを迎えた。その量は年間67トンにも達したと言われる。
しかし、盛期は短かったた。17世紀半ばにさしかかる頃には産銀量は急激に減少。明治時代には銅が主力の鉱山として稼働し、大正時代に事実上の閉山を迎えた。

 現在、石見銀山の地はその大部分が木々に覆われている。その地中には、盛時の面影を伝える坑道や生産に関わる遺跡が埋もれている。早い時期に鉱山として衰退したことで、結果的に貴重な遺跡の多くが残された。

 石見銀山の経営方式には、現代日本の産業構造の原型があると言われる。石見銀山は、工業大国日本の原点とも言うべき貴重な産業遺産だ。

 石見銀山は歴史の中でまばゆいばかりの輝きを放った。その輝きは世界を大きく動がした。そして今、世界遺産として新しい時代を迎えようとしている。 

(世界遺産登録前の2007年春に執筆。)

石見銀山遺跡の範囲

石見銀山遺跡の範囲
石見銀山遺跡は、鉱山としての主体部と、街道、港、城跡から構成される。主体部には、採掘跡と生産関連遺構などがあり、江戸時代には周囲を柵で囲まれていたことから「柵の内」と呼ばれた。

1.石見銀山の概要

(1)立地と地質概要

 石見銀山は、島根県の中央部にあたる大田市の西部に位置する。
鉱山の中心は仙ノ山(標高538メートル)を中心とする、東西約2km、南北約1kmの範囲で、ここに600カ所以上(2022年時点では900カ所以上)の採掘跡が確認されている。また、大部分が森林に覆われた山中には製錬に関する遺構や鉱山に関わった人々の生活跡が遺跡として残存している。直接鉱山に関わる遺跡のほか、銀や物資を運搬した街道と港湾、城跡が良好に残り、これらを含めて石見銀山遺跡と呼ばれる。その一角、大田市大森町には江戸時代後期の区割りを残す町並みが往時の面影を伝えている。

石見銀山の中心である仙ノ山は、大江高山(標高808メートル)を最高峰とする山塊の一角にあり、その周囲は低平な丘陵地が広がる。丘陵地の北側は日本海に接し、入り組んだリアス海岸をなしている。南側には次第に高度を増し、中国山地脊梁部に続く。

 石見銀山一帯の山塊は、前期更新世(170万〜60万年前)に活動した火山群で大江高山火山と呼ばれる。この火山は、安山岩〜デイサイト質の溶岩によって形成された溶岩円頂丘群で、急峻な山腹斜面と比較的平坦な山頂部を特徴とする。その中にあって、仙ノ山は比較的なだらかな形状をしている。

 大江高山火山周辺の丘陵地は、尾根の高度が一定の準平原状の地形をなし、石見高原と呼ばれる地形面である。丘陵地には、後期鮮新世から前期更新世(およそ300万〜100万年前頃)の堆積岩類からなる都野津層が断続的に分布している。都野津層からは陶土が採掘され、瓦を主製品とする石見焼の原料として利用されている。大江高山火山の噴出物と都野津層は、全体としては都野津層が下位にあるが、一部で互いに重なりあう指交関係にあるとされている。
仙ノ山の地下では、山体を構成するデイサイト質噴出物の下位に都野津層の堆積岩類が分布している。

 都野津層の下位には、前期中新世(2000万年前頃)の久利層が分布している。久利層は火山岩類と堆積岩類からなり、日本海形成期にその海底で形成された、「グリーンタフ層」のグループに含まれるものである。

 大田市仁摩町から温泉津町にかけての海岸は、複雑に入り組んだ湾が連続するリアス海岸である。
その一角 仁摩町の「鞆ヶ浦」と温泉津町の「沖泊」のふたつの湾は、16世紀に銀鉱石や精錬した銀の積出港として使われた。
これらの湾は、間口に比して奥行きが深く、ほぼ真西に向かって開き、北からの波浪が湾奥に入りにくい地形である。両岸は急崖が迫っている。尾根の上には港を守った城があり、防御のしやすさも、これらの湾が港として選ばれた条件と思われる。

 リアス海岸は、氷期に陸上で形成された谷が、後氷期の海面上昇で海中に没してできた地形である。
仁摩町から温泉津町の海岸には凝灰岩が分布している。当地に分布する凝灰岩は流水によって浸食されやすい岩石であるために深いV字谷が形成され、その後の海面上昇で入り組んだ地形が形成された。
また、近くに多量の土砂を供給する河川がないため、三角州や砂州の発達が貧弱なことで、入り組んだ地形がそのまま維持された。このような自然史的背景によって、天然の港湾が成立した。

【溶岩円頂丘】安山岩〜デイサイト質の粘りけが強い溶岩の噴出で形成される火山地形。釣り鐘型火山とも呼ばれる。

【指交】異なる地層が一部で互いに重なり合っていることをいう。同時期に異なる堆積条件で形成された地層の場合に見られる。

【グリーンタフ】海底火山の噴出で形成された火砕岩で、緑色を呈する。日本海が形成された中新世の海成層に特徴的にみられる。

【氷期と間氷期】地球は過去数百万年間に寒冷な気候の氷期と、温暖な間氷期を繰り返してきたことが知られている。そのサイクルは十数万年である。最終氷期は1万年に終わり、現在は間氷期にあたる。

【凝灰岩】火山灰が固結してできた岩石。仁摩から温泉津にかけては比較的軟質な凝灰岩が分布している。

石見銀山周辺の地質略図

石見銀山周辺の地質略図
石見銀山の本体仙ノ山は、グリーンタフのグループに含まれる新第三紀中新世の地層と、大江高山火山噴出物の境界部にある。山頂付近の破線は、鉱床の範囲を示す。
図は新編島根県地質図編集委員会編(1997)を簡略化。

鞆ヶ浦

鞆ヶ浦
銀山開発の初期には、鞆ヶ浦から博多へ向けて鉱石が運ばれた。湾の入口の北側に鵜の島があり、北からの波浪を防ぐ防波堤の役割を果たしている。
写真は鵜の島から湾奥をみた様子。奥に見える山は馬路の高山。

沖泊

沖泊
沖泊は、毛利氏が支配した時代に銀の搬出港として使われた。
湾は幅が狭く、少し屈曲しているため、湾奥まで波浪の影響が及びにくい。湾の両岸には、多数のはなぐり岩(係留柱)が残る。

(2)歴史の概要

 石見銀山の発見については、江戸時代に書かれた「石見銀山旧記」に、花園院の時代(1308〜1317年)に周防国(山口県)の大内弘幸氏が妙見神の託宣によって仙ノ山で銀が採れることを知ったと記されている。
当時は採掘や精練の技術がなく、地表に露出した自然銀の採取だけで終わったと推定されている。その後、博多の商人・神屋寿禎が鷺銅山(出雲市大社町)に銅の買い付けに向かう途中、海上から仙ノ山を発見、1527年に技術者を伴って再訪し鉱石を九州へ持ち帰ったという。

 神屋寿禎は大内氏の守護のもとで石見銀山の開発を行った。開発当初は、採掘した鉱石をそのまま博多に運んでいたが、寿禎は1533年に「灰吹き法」という精錬技術を導入し、石見銀山で精錬が行われるようになった。
この技術の習熟と労働集約型の経営方式によって石見銀山の産銀量は飛躍的に向上した。灰吹き法は石見銀山から生野銀山、佐渡金山などにも伝えられ、日本は一躍、世界屈指の産銀国となった。その銀が東アジアの市場へと流れ、アジアとヨーロッパの交易を促す原動力となった。その中で、石見銀は日本銀の代名詞ともいえる存在で、ヨーロッパでは良質の銀を指して「ソーマ銀」という言葉が使われていた。これは、当時の石見銀山の地名「佐摩(さま)村」で産した「佐摩銀」がなまった言葉だといわれている。

 多量の銀を産出し、巨額の富をもたらす石見銀山は、勢力争いを繰り広げていた戦国大名にとって羨望の的であった。
大内氏の衰退とともに、近隣の大名による争奪戦が始まった。地元川本の小笠原氏の支配と大内氏の奪還、出雲の尼子氏の略奪の後、1551年に大内氏が滅びると毛利氏(広島)と尼子氏による争奪戦が激しさを極めた。1562年、ついに毛利氏は石見を平定し、関ヶ原の戦い(1600年)まで石見銀山と、銀山への物流拠点であった温泉津を直轄支配した。

 1600年に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、直ちに石見銀山を直轄地(天領)として支配した。そのことは、家康が石見銀山の経済価値を大きく評価していたことの表れといえる。

 17世紀前半、石見銀山の産銀量はピークを迎えた。この頃、徳川家に納められた運上銀は年間13.5トン、年間の総生産量は67.5トンに達したと試算されている。しかし、ピークは長くは続かず、17世紀中頃には産銀量は減少に転じ、江戸時代の後半には年間数100キログラムを産出するに過ぎなくなっていた。1872年には浜田地震によって多くの坑道が使用できなくなり、経営が困難になった。1887年には大阪の藤田組が銅鉱山として再開発するが、1923年に休山。その後幾度か再開発を目指して調査が行われ、第二次世界大戦中の1943年には事業化されるが、水害等により本格的な開発に至らないまま閉山、現在に至っている。

【妙見神】北辰星と呼ばれた北極星や北斗七星を信仰する妙見信仰の神。

【運上銀】税金として幕府におさめた銀。運上銀は総生産量の5分の1から3分の1と推定される。67.5トンという総生産量は、運上銀13.5トンを5倍した推定値。

【浜田地震】浜田市沖の日本海を震源とする地震で、マグニチュード7.1と推定されている。浜田市を中心に、島根県の広い範囲で被害があった。

石見銀山に関する歴史年表

石見銀山に関する歴史年表

沖から見た仙ノ山

沖から見た仙ノ山
大田市仁摩町馬路の沖から仙ノ山の全容を見ることができる。中央のなだらかな峰が仙ノ山。右手のこんもりした山は高山。江戸時代にかかれた銀山旧記は、神屋寿禎が船上から仙ノ山に光をみて銀山を発見したと伝える。

(3)世界を動かした石見銀

大航海時代は、15世紀末にコロンブスやバスコ・ダ・ガマらがヨーロッパからアメリカやアジアへ航海したことがきっかけとなって幕が開けた。香辛料や金銀などの富を求めてヨーロッパ人たちが先を争うようにアジア大陸やアメリカ大陸へ進出し、人と物が世界的に動くようになった時代である。

 神屋寿禎による石見銀山の開発期は、大航海時代の黎明期にあたる。石見銀山で産出した銀は、日本の重要な輸出品として中国へ流出した。この銀により東アジアの貿易市場は大いに活性化し、スペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国からも石見銀山の存在は注目されるところとなった。それは、16世紀にヨーロッパで作られた地図において、石見の位置に「銀鉱山」「銀王国」などの記載がみられることからもうかがい知ることができる。

 石見銀を中心とする日本銀を求めて、日本列島周辺にヨーロッパ人が訪れるようになり、それによって、様々な西洋文化が日本に伝えられた。その例として1543年の鉄砲伝来や1549年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられたことが挙げられる。すなわち、石見銀山の開発によって始まった銀の量産が、東アジアの市場に活力を与えた。その市場へそこへヨーロッパ諸国が参画することでヨーロッパとアジアの交易の確立という世界的な動きへと発展した。このことは日本がヨーロッパの文明に接する機会をもたらし、日本人の世界観を大きく変えることにもつながったともいえる。

【銀の輸出】 石見銀山の開発によって、日本は銀の輸入国から輸出国に転じた。日本は銀を輸出し、絹糸や陶磁器などを得た。

【コロンブス】 15世紀中頃〜1506。 1492年に中米のサンサルバドル島に到達。アメリカ大陸の歴史上の発見者とされている。

【バスコ・ダ・ガマ】 15世紀後半〜1524。 1497年にポルトガルを出航し、喜望峰を回って1498年にインドに到達。インド航路の開拓者。

銀の道とサツマイモ

 サツマイモの日本への伝来は、銀をめぐる人の動きと関わりが深い。

 大航海時代、ヨーロッパの交易船は、金銀を多量に産出する南米をめざした。長い船旅は、船員たちにビタミン不足による壊血病を招き、航海を続けるためにはその対策が急がれた。そこで目をつけられたのが南米原産のサツマイモだった。ビタミンに富み、日持ちがすることから航海用の食料として交易船に積み込まれ、壊血病対策に効果を発揮した。

 日本銀を求めてアジアを訪れるようになったヨーロッパの交易船は、中国にサツマイモを伝えた。日本へは、中国経由で1605年に琉球(沖縄県)、1607年に薩摩(鹿児島県)に伝わった。

 1732年の享保の飢饉では、石見銀山領の住民も飢えに苦しんでいた。銀山領の19代目代官・井戸平左衛門は九州では食糧難の解消にサツマイモが大いに役立っていることを知り、これを薩摩藩から導入した。そして、イモは石見銀山周辺に植えられ、住民たちを飢餓から救った。南米から銀とともに旅立ったサツマイモは地球を半周して、石見銀山にたどり着き、この地の人々を助けたのである。

サツマイモの日本への伝播ルート

サツマイモの日本への伝播ルート

2.石見銀山の鉱床

(1)福石鉱床と永久鉱床

 石見銀山の鉱床は、仙ノ山を中心とする東西約2km、南北約1kmの範囲にあり、鉱床のタイプから、「福石鉱床」と「永久鉱床」の2グループに分けられている。

 福石鉱床は、仙ノ山山頂から山腹にかけて存在する。開発の初期に採掘が行われた山頂付近の石銀地区や、大久保間歩がある本谷地区などがこの鉱床の範囲にあたる。ここで産出する鉱石は、石見銀山固有の名称で「福石」と呼ばれた。福石鉱床は、火砕岩類の微細な空隙や細かな亀裂に銀を含む鉱物が沈殿してできたもので、鉱物が染みこむようにしてできた「鉱染型」の鉱床である。

 永久鉱床は、仙ノ山北麓から要害山の地下にあり、福石鉱床に比べて深い深度にある。観光用として公開されている龍源寺間歩や大国地区に坑口がある永久坑道が永久鉱床の範囲にあたる。この鉱床は、断層や節理などの比較的大きな岩盤の亀裂を鉱物が充填してできた「鉱脈型」の鉱床である。

 石見銀山で産した含銀鉱物は、輝銀鉱と自然銀が主である。輝銀鉱は銀とイオウの化合物で、金属光沢を持ち黒っぽい色を呈する。自然銀は純銀に近い状態で存在する。これらの鉱物は単体で大きな結晶を作ることは少ないが、岩石の亀裂からひげ状や樹枝状の自然銀の塊が産することもあったようで、「粋銀【とじぎん】」と呼ばれて珍重されていた。

 輝銀鉱、自然銀の含銀鉱物は福石鉱床、永久鉱床のいずれからも産出したが、その他の鉱物の 組み合わせは違いがある。

 福石鉱床は菱鉄鉱、方鉛鉱などを産出した。永久鉱床では、黄銅鉱、黄鉄鉱、閃亜鉛鉱、赤鉄鉱などの鉱物を産出した。大きな違いとしては、前者は銅を含む鉱物をほとんど伴わないのに対して、後者は黄銅鉱が多い。永久鉱床の中心的坑道である永久坑道は、おもに銅を産出した坑道で、銀は副産物的に伴う程度であった。

【断層】地層、岩盤のずれ。圧力によって岩盤が破壊されて形成される。

【節理】岩体の明瞭な割れ目で、断層のようなずれを伴わないもの。

【龍源寺間歩】江戸時代の中頃に開発された坑道。

石見銀山の鉱床分布図

石見銀山の鉱床分布図
仙ノ山の東西方向の断面イメージ。金属鉱業事業団(1993)の図をもとに改変。

主要産出鉱物一覧

主要産出鉱物一覧

(2)鉱床形成のメカニズム

 地殻を構成する岩石の銀の平均含有量は0.07ppm、すなわち岩石1tに対して銀が0.07gというわずかな量である。鉄の平均含有量1tあたり56.3kgと比べると、銀ははるかに少ない。これが利用可能な鉱石となるには、銀が高濃度に濃縮される必要がある。鉱物が濃縮する作用を「鉱化作用」といい、有用鉱物が高濃度に集まった部分を「鉱床」という。鉱化作用には、火山活動やマグマの貫入によるもの、風化、堆積など様々なタイプがある。石見銀山の場合は、火山活動に伴う熱水の活動で形成されたもので、「熱水性鉱床」というタイプに分類される。地表から浅い深度での熱水活動ということで、「浅熱水性鉱床」と呼ばれることもある。福石鉱床、永久鉱床とも、成因的には熱水性鉱床である。

 仙ノ山は大江高山火山に属する火山である。大江高山火山は200万年前から70万年前頃にかけて活動し、大江高山(808m)を最高峰とする溶岩円頂丘群を形成した。仙ノ山の形成は120〜210万年前頃の年代値が得られている。仙ノ山の山体形成後、地下にマグマの貫入があり、熱水が地表付近まで上昇する熱水活動が生じた。熱水とは、地下の高圧条件下、数百度に熱せられた地下水と、マグマから直接供給されたマグマ水からなる。

 高温の熱水には、地層を構成する岩石中に含まれる成分のうちで比較的溶けやすい金属分やケイ酸分、炭酸カルシウムなどが溶け込む。有用金属を溶かし込んだ液体は「鉱液」と呼ばれる。

 鉱液となった熱水(鉱液)は、断層などを伝って地表付近まで上昇した。地表に近づいて圧力と温度が低下すると、金属分などは飽和して沈殿 する。沈殿した金属分が岩盤の割れ目や岩石の空隙を充填して鉱石が形成された。鉱石が形成された温度は、永久鉱床では220℃程度、福石鉱床では100℃程度であった。

 仙ノ山の地下に鉱床が形成された後、今日までに数10万年の時間が経過している。その間に山体の浸食が進み、鉱床の一部が地表に露出した。

【仙ノ山の山体】仙ノ山はデイサイト質マグマの活動で形成された火山。山体は凝灰角礫岩と亀裂が多い溶岩からなる。

【年代値】岩石の年代を測定する方法として、放射性同位体を用いるカリウム-アルゴン法、ウラン-鉛法などや、放射線の照射量を用いるフィッショントラック法、熱ルミネッセンス法などがある。

【鉱石の生成温度】鉱物中の空隙に液体が含まれることがある。鉱物を加熱し、液体中の気泡が消える温度が、その鉱物が形成された時の温度を示す。

さまざまな鉱床の成因

さまざまな鉱床の成因

(3)鉱床形成の背景

 石見銀山の鉱床は、仙ノ山を構成する火山噴出物(溶岩および火砕岩)と、その下位にある新第三紀層に胚胎される。福石鉱床は火山噴出物中にあり、永久鉱床はその大部分が新第三紀層中にある。

 仙ノ山の地下に存在する第三紀層は、前期中新世〜中期中新世(2600万〜1500万年前)に形成されたものである。この時代は日本海が形成期された時期で、海底や海岸で活発な火山活動が生じた。仙ノ山の地下の地層も、海底火山の噴出物を主体とする。同時期に日本海海底で形成された地層は、島根県以北の日本海側を中心に広く分布しており、その分布地域は、グリーンタフ地域と総称されることがある。グリーンタフとは緑色凝灰岩を意味し、この地域の地層に特徴的に含まれる。

 グリーンタフ地域は、金属・非金属資源に富む地域として知られる。各種金属を含んだ黒色の鉱石が特徴の黒鉱型鉱床が存在する。また、この地域には金銀鉱床もそれ以外の地域に比べて多い。海底で形成された地層に金属元素が濃縮していることが、より新しい時代の鉱床の形成にも影響を及ぼしていると考えられる。つまり、金属元素に富んだ地層中を熱水が通過することで、効率よく鉱床が形成されたということである。

 石見銀山の東側一帯(旧大田市域)は、中新世の海底火山活動によって大規模な陥没があった地域である。その凹地部分には当時の火山噴出物が分布していて、そこには石見鉱山などの黒鉱型鉱床が存在する。すなわち、当地は潜在的に金属元素を多く含む地域といえる。この、古い時期に形成された陥没地形の縁辺部で仙ノ山の火山活動があり、熱水による金属の濃縮が生じた。このようにみると、仙ノ山地下に鉱床が形成されたことは偶然ではなく、地域の地史と深い関わりがある。

 黒鉱型鉱床については、石見銀山の下部にも存在している可能性があり、石見銀山の稼働の最末期には、黒鉱を狙った探鉱が行われたこともあるという。

【黒鉱型鉱床】日本列島のグリーンタフ地域に特徴的に見られる鉱床。海底で噴出した熱水から沈殿した銅、亜鉛、鉛など各種の金属や石膏などの非金属が堆積してできた。

【石見鉱山】大田市五十猛町にある鉱山で、黒鉱が採掘され銅、亜鉛などを産出した。現在はゼオライト鉱山として稼働している。ほかに、石見銀山の周辺にはおもに石膏鉱山として稼働した鬼村鉱山、松代鉱山という黒鉱型の鉱山があった。

石見銀山の鉱床形成イメージ

石見銀山の鉱床形成イメージ

(4)銀の生成

 地球に存在する銀の起源は、太陽系誕生形成以前の宇宙にある。

 様々な元素は、原子核が融合する核融合反応によって形成される。地球ではこの反応は生じないが、太陽のような恒星内部では軽い元素の融合によって重い元素が生成される。
しかし、恒星内部での核融合反応では、鉄よりも重い元素は生成されない。銀や金など、鉄よりも重い元素が生成されるのは、巨大な恒星が寿命を終える時に起こす超新星爆発の瞬間である。強大なエネルギー条件下での核融合によって形成された元素は宇宙空間に放出され、やがてそれが集まって次世代の恒星系が形成される。つまり、地球に存在する銀は、50億年前に原始太陽系が形成されるよりも前に生じた超新星爆発によって形成されたものなのである。

【超新星爆発】太陽の8倍以上の質量を持つ恒星が進化の最終段階で起こす爆発。

(5)銀の性質と利用

 銀は白銀色の金属で、密度10.49g/cm3、融点961.78℃である。常温での電気伝導度が極めて高いこと、延展性に優れていること、反射率が高いことなどの特徴をもち、これらの性質を利用して様々な用途に利用されている。

 銀の利用は、古くは通貨や宝飾品が中心であった。臭化銀の感光性を利用したフィルムや印画紙などへの利用は、デジタル画像が主流に成りつつある現在でも主要な用途といえる。また、電気伝導度が高いという特性から電子回路に利用されており、コンピューターや携帯電話などの電子機器には欠かせない金属である。反射率の高さは鏡や魔法瓶などの反射材として応用される。最近では、銀イオンの殺菌作用を利用した殺菌・坑菌製品をしばしば見かける。重金属イオンの多くには同様の殺菌効果があるが、他の重金属の多くと異なり、銀は人体への悪影響がないことから、日用品として利用されている。そのほか、電池や歯科治療材料、触媒などに利用される。

【延展性】圧力をかけることで延びる性質。最も延展性が高い金属は金で、銀はそれに次ぐ延展性を持つ。

【電子機器】電子機器には、銀のほかに金やパラジウムなどの貴金属が用いられている。使用済みの電子機器から貴金属を回収するシステムも確立されている。

3.鉱山開発と製錬

(1)石見銀山の発見

 石見銀山旧記は、博多の商人・神屋寿禎が石見銀山を発見したと伝える。これによると、寿禎が石見銀山を発見したのは、出雲大社の近くにある鷺銅山に銅の買い付けに向かう途中で、日本海を航行中に船から仙ノ山に光りをみたことがきっかけという。

 山自体が光を放つことや、地表に露出した鉱石が遠目にもわかるほど輝くとは考えられず、船から山に光をみて銀山を発見したというくだりは、一見突拍子もないように思われる。この伝承が伝える内容の信憑性はともかく、遠くからみた山の姿を頼りに鉱山を探すことは、山師の技術に通じる。

 山師とは、探鉱を生業とした人々である。彼らが新しく鉱山を探す時は、遠くから山容をみて、鉱石がありそうな山の目星をつけ、それから山を沢づたいに登ってそこに落ちている石を観察した。日本の金銀鉱床は火山に伴われるものが多い。したがって、鉱床を胚胎する山には火山地形の特徴を示すものが多く、山師たちは経験的にそれを見分けていたとみられる。

 仙ノ山一帯の大江高山火山の峰は、火山地形の特徴をよく示しており、それは海上からもよくわかる。すなわち、山師が石見銀山の辺りを船上からみて、鉱山の存在を予想したということは十分にあり得ることといえる。

 山師の探鉱技術を記した秘伝書「山相図」には、金山、銀山が放つ光について記されており銀山発見伝承に通じる。山師の経験に基づく勘を、光と表現したのではないかと想像される。

【山師】ばくち打ちや詐欺師などを意味することがあるが、もとは鉱山を探す探鉱師をさす言葉。鉱山は滅多に見つからないが、いい鉱床にあたれば大きな儲けも期待できる。そのイメージからばくち打ちなどを意味するようになったとみられる。

大江高山火山の遠景
石見高原と呼ばれる平坦な丘陵地の一角に、大江高山火山の峰が集まる。火山活動から70万年以上が経過しているが、釣鐘型火山の特徴がよく残っている。 写真は三瓶北麓の円城寺付近から撮影。

(2)採掘

 明治時代には削岩機などの機械が導入されるが、それ以前の作業は基本的に人力で行われた。坑道の狭い部分は、人が腹這いでやっと入れるほどの広さしかないこともあり、その中でノミやツチを使って岩盤を掘り進んだ。地下水の排水も人力で、江戸時代に書かれた「石見銀山絵巻」には、何人もが手動ポンプを使って水をくみ出している様子が描かれている。採掘の技術は、開発の進行とともに変化した。

 石見銀山開発の早い段階では、地表の岩肌に露出した鉱脈を追って掘り進める形で採掘が行われた。この採掘方法は、「樋押【ルビ:ひおし】」と呼ばれた。浅い鉱脈が尽きてくると、地下水の排水を兼ねた水平坑道を鉱脈に直交して設けて掘る方法に変化した。この方法は「横相【ルビ:よこあい】」と呼ばれた。

 横相による採掘では、鉱脈に当たるとそこから枝坑を掘って鉱石を採取する。この枝坑の掘り方は「樋押」と同様である。坑道が幾本にも分岐すると、同時に複数の切り羽ができ、それぞれの切り羽で鉱石が採取できるため、効率的な生産が可能になるという長所がある。

 横相の方法で採掘するためには、地下での鉱脈の連続性をあらかじめ把握してから坑道位置を設定する必要があり、鉱床に対する知識に基づく方法と言える。鉱脈は岩盤の亀裂に沿って形成されたもので、多くの場合板状の形状をなしている。したがって、ある地点で鉱脈の伸びの方向と傾きがわかれば、別のどの場所に続いているかを予測することができる。それらに、当地での鉱脈の特徴などを考慮して、坑道の位置と方向が設定されたと推定される。

【坑夫の活躍】坑夫の掘削技術は銀山の外でも重宝された。大阪の陣(1614〜1615)では、大阪城を攻略するための地下トンネルの掘削に、石見銀山の坑夫が大勢かり出されたと言われる。出雲では、斐伊川の水を市街地へ引く用水の一部で、尾根を横切る地下水路「只谷間歩」の掘削を行ったと伝わる。

横相掘りと樋押掘りの模式図
実際には、仙ノ山の地下ではアリの巣のように坑道が複雑に入り組んでいる。鉱石を採掘するために広間のように掘り広げた場所もあり、福石場と呼ばれた。

(3)製錬

 鉱石に含まれる不要な物質を取り除き、目的とする金属を取り出す作業を製錬という。

 採掘された鉱石は、まず肉眼で判別された。鉱石は品位や鉱物組成によって細かく区別されていたようで、石見銀山では20種以上に分類され、それぞれに名前が付けられていた。

 選別された鉱石は、「かなめ石」と呼ばれる硬い石の上で割りながら、銀を含まない部分が取り除かれる。鉱石はさらに砕かれた後、木製の浅い盆「ゆり盆」を使って、水の中で比重選鉱を行う。これは、水中で粒状の鉱石を揺らし、比重が大きな銀を多く含む部分と、それ以外の部分をより分ける方法である。このような工程を経て銀の含有量が高い部分が取り出される。

 選鉱された鉱石は炉で加熱されて、目的の金属とその他の物質に分離される。最終的に高純度の銀を取り出すまでにはいくつもの工程が必要である。その工程は、鉱石の組成によっても異なり、硫化物を多く含む鉱石では、まず加熱してイオウ分を二酸化イオウとして分離する工程がある。 その処理が終わったものや、硫化物を含まない鉱石は次の工程に移される。これらは炉で融解され、比重の差を利用してケイ酸分や酸化アルミニウムなどが取り除かれ、さらにいくつかの工程を経て、銅や鉄と銀との合金が残る。これに鉛を加えると、銀は鉛と結びつくので、この状態で融点の違いを利用して銀鉛合金と、その他の金属を分ける。 銀鉛合金は「貴鉛(きえん)」と呼ばれた。この合金を、動物骨などを焼いて作った灰の上で加熱すると、酸化鉛は灰に染みこむが、表面張力が大きい銀は灰の上に残る。この作業を何度か繰り返すことで銀の純度が高められ、完成となる。

 銀と鉛の合金を作り、最終的に銀を取り出す精錬法は「灰吹き法」と呼ばれ、この技術を導入したことが石見銀山の銀生産を飛躍的に高めるきっかけだった。灰吹き法の技術は、現在も金銀の定量分析で用いられている。

 石見銀山で灰吹き法で精錬が始まった頃、南米のポトシ銀山では「水銀アマルガム法」が導入された。この方法は、水銀が他の金属と合金になりやすい性質を利用したものである。細かく粉砕した鉱石と水銀を混ぜると、水銀と銀の合金=アマルガムが形成される。泥状の不要な鉱石を洗い流してから水銀を蒸発させ、銀を取り出すという方法で、灰吹き法よりも工程が単純で経済的とされる。大久保長安はこの技術を学び、石見銀山でも導入を試みたが、定着はしなかったようである。

【製錬と精錬】鉱石から有用金属を取り出す作業全般を製錬といい、その最終工程で純度を高める作業を精錬という。

精錬の工程チャート

(4)「循環型」の開発

 石見銀山の盛期には、「山頂まで雨に濡れずに軒下を伝って登ることができた。」と伝わる。そして、至るところに採掘の痕跡が残る仙ノ山だが、現在は大半が植生に覆われている。一見すると、ここで銀の量産が行われ、それに多くの人々が関わっていたとはにわかには信じがたい。長期間にわたって稼働した鉱山で、これほどまでに植生が回復していることは、国外の鉱山の事例と比べると極めて異例といわれ、際だった特徴のひとつとして評価されている。

 降水量などの気象条件に恵まれた日本列島の森林は、元来高い復元力を持つ。鉱石や二次生成物に残留性が高い有毒物質をほとんど含まなかったという幸運もある。したがって、国外の事例と単純に比較することはできないかもしれないが、石見銀山における開発が、自然の復元力を奪わずに再生産を繰り返す循環型だったことは、現環境のなり立ちに少なからず影響しているだろう。

 石見銀山の社会構造は、基本的に消費地である。専ら銀の生産によって得られる財で経済が成り立っていた地域で、ピーク時には数万人が生活していたと推定される高人口密度の都市型社会である。ここでの銀生産と生活を支えるためには多量の燃料や、食料その他の生活物資が必要である。銀山地内ではそれらを生産する余地はなく、ほとんど全てを周辺の村やさらにその外部から供給する仕組みだった。

 燃料に使う炭も、周辺の村から供給された。そこでは、薪炭材の伐採を無計画に行うと、継続的な供給を果たせない。そこで、計画的な伐採と、次期の薪炭材を育成するための植栽が行われた。需要に見合う供給を実現する方法とし て、循環型の開発様式が成立した。銀山地内では、この供給システムのおかげで、環境に対して必要以上の負荷をかけることなく物資を確保することができた。

 このような循環型の開発は、石見銀山に限ったものではない。むしろ、日本では一般的に行われてきた様式と言えるだろう。限られた狭い国土では、再生産のシステムを確立することは社会の継続に重要な要素だった。広大な国土を有する国では、再生産という概念はそれほど重要ではなかっただろう。その結果が、石見銀山では国外の鉱山と比較して豊かな森林が回復しているという評価につながっていると言えるかもしれない。

(5)鉱害

 鉱山では鉱害が問題となることが多いが、石見銀山では重大な鉱害はほとんどなかったとされている。 石見銀山の鉱石には、環境や健康に重大な障害を引き起こす重金属類をあまり含んでいない。そのため、400年にもおよぶ長い開発の結果として地域に負の遺産を残さなかったことは幸運だったといってよい。現在も、坑道口から流れ出る水が上水として利用されており、鉱山としては珍しい事例とされる。

 重大な鉱害はなかったとはいえ、精錬所の周辺ではイオウ分を多量に含む黄銅鉱を製錬する過程で発生する二酸化イオウ(亜硫酸ガス)によって健康被害が発生したこともあったらしい。また、狭い坑内で長時間の作業を続けた坑夫たちは、鉱毒を防ぐために梅の果実を挟んだマスクを着用していた。
鉱山労働者には強制労働や犯罪者というイメージがあるが、石見銀山ではそれは当てはまらない。手作業での掘削と、品質が高い鉱石を見分けて集中的な掘削を行う開発方法では、熟練した坑夫が有する技術は鉱山経営においてなくてはならない存在だった。そのため、経営者は坑道内に薬草を蒸した蒸気を送り込むなどの方策によって、坑夫の健康管理を行った。このような取り組みも、鉱害を最小限にとどめることにつながったのかも知れない。

製鉄と銀山

 近世以前の島根県は、中国山地に広く分布する花崗岩類から採取された砂鉄を用いた製鉄が盛んに行われ、全国屈指の製鉄地帯だった。このことは、石見銀山の開発に深い関わりがある。

 ひとつは、採掘などに使われる鉄製の道具類を近隣地で調達できたこと、もうひとつは製鉄で培われた技術があったことで、銀製錬技術の導入がスムーズに行われたと推定されることである。

 採掘では鉄製の道具類が欠かせない。ツチやノミなどは消耗が激しく、必要な時にすぐ調達できる必要がある。石見銀山では近隣地から道具類の調達ができた。また、当地付近で生産される鉄は品質が高く、これで作られた道具類は石見銀山での採掘を支えたといえる。

 製錬技術の導入では、鉄と銀の違いはあっても、化合物の状態から金属を取り出すという基本は同じで、流用できる技術が少なくなかったと思われる。例えば、鉱石を溶かすほどに炉の温度を上げる技術である。このような技術が近隣地に存在していたことは、石見銀山が国内の他鉱山に先駆けて「灰吹き法」を導入し、成功した背景として見逃すことはできないと思われる。

4.現在に伝わる景観

(1)町並み・街道・港

 石見銀山は、大航海時代の世界経済を席巻するほどの存在として輝いた。しかし、鉱山としての規模はそれほど大きくなかったため、17世紀中頃以降は産銀量が減少傾向になり、開発規模が縮小、そして1923年に実質的に閉山する。結果的に、ピークが短かったことによって、古い時代の開発の痕跡が失われず、現在まで残された。

 かつては、地域経済の中心地であった大森町は市街地化から取り残され、町並みに江戸時代後期の面影が残る。大森の町並みは、住民たちによる景観を守る活動が実り、1987年に重要伝統的建造物群保存地区に登録された。

 盛期の遺跡が良好に残存していることと、古い町並みが残りそこで今も住民の生活が営まれていることは、石見銀山遺跡の重要な価値として高く評価されている。

 石見銀山遺跡の範囲には、鉱山の中心部のみでなく、銀や物資を運んだ街道と港、城跡が含まれる。

 銀の搬出港は、大内氏が支配した16世紀前半の鞆ヶ浦(大田市仁摩町)と、毛利氏が支配した16世紀後半の沖泊(大田市温泉津町)がある。また、温泉津港は物資の供給拠点として栄えた。鞆ヶ浦と沖泊は、当時の面影を良く残しており、海岸には船を係留するために岩盤をくり抜いて作った「鼻ぐり岩」がいくつも残されている。港の出入り口には、かつて城が築かれ、建物等は残存していないが、基礎等の遺構が残っている。

 物流拠点の温泉津港は、現在も島根県内有数の港湾であるため、海岸部は開発が進んでいるが、港から続く町並みは古い区割りを残し、温泉街としては全国で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 街道には、銀山とそれぞれの港をつなぐ道と、17世紀以降に陸路で銀を運んだ道がある。港へ至る道は、「温泉津・沖泊道」は近世も使われていたことから石段や路傍の標柱などが良く残っており、ほぼ全行程を当時と同じように歩くことができる。「鞆ヶ浦道」は、早い段階で使われなくなっていたために埋もれた部分が多いが、その分、遺跡としては古い時期の状況を良く残しているとも言える。陸路で銀を運んだ道は、三次を経て尾道まで至るルートである。

【重要伝統的建造物群保存地区】歴史的に価値が高い集落、町並みを保護するため、文化財保護法によって指定される。石見銀山遺跡では、大森町と温泉津町の町並みが指定されている。

(2)景観と地下資源

 町並みや街道の景観を構成する要素として、赤褐色が特徴的な「石見瓦」や、大森町羅漢寺の五百羅漢をはじめとする様々な石製品に使われている「福光石」があげられる。これらは、石見銀山の周辺で採れる地下資源と関わりが深く、島根県を代表する産品でもある。

 島根県の大田市以西には、陶土となる粘土層が広く分布している。これを原料として古くから窯業が盛んで、瓦については全国有数の生産地である。石見銀山の西側にあたる大田市水上町は、瓦の主産地のひとつである。福光石は、軽石を含んだ緑色凝灰岩で、大田市温泉津町福光で産出する。柔らかく加工しやすい割に丈夫で、現在も建材として利用されている。福光石同様に使いやすい凝灰岩は、遺跡地内の各所で産出し、それらもよく使われている。大森町や温泉津町の町並みには、それぞれの町内で採れる石が土台石や側溝などに利用され、街道の整備にも現地で調達した石が使われている。こうしてみると、石見銀山一帯は、非金属資源も恵まれた地域ということができ、それらが町並みの景観を特徴づけていると言える。

【石見瓦】石見瓦に特徴的な赤褐色は、松江市宍道町で産する砂岩「来待石」から作った釉薬が使われた。

【非金属資源】現在、石見銀山周辺では、石見鉱山(2022年閉山)、仁摩鉱山でゼオライト、三子山鉱山で珪砂が採掘されている。

赤瓦の景観

 石見瓦の家屋が軒を連ねる大森の町並み。この景観が成立した背景のひとつに、1800年にあった「寛政の大火」がある。
この時、土蔵を含め300軒以上の家屋が焼失、町並みの3分の2以上が失われたという。大被害となった火災を機に、代官所は燃え上がりやすい茅葺きの家屋を建てることを禁止し、瓦葺き、板葺きにする令を出した。狭い土地に建物が密集していることから、いったん燃え広がると消火が難しい。そこで、燃えにくい素材を使うことで、延焼をできるだけくい止めるという施策である。こうして、大森の町からは茅葺き屋根がなくなり、現在に至る赤瓦の町並みが生まれた。

5.未来に伝える

 石見銀山遺跡は、次の3点において高く評価され、世界遺産への推薦理由にも掲げられている。


[1]東アジアの経済に大きな影響を与え、東アジアとヨーロッパの交流を導いた

 16世紀、石見銀山の銀は日本の輸出品として朝鮮半島や中国にもたらされた。当時、富を求めて世界各地へ進出していたヨーロッパ人たちがこの銀を目指して東アジアへ訪れるようになったことで市場は活性化し、アジアとヨーロッパをつなぐ交易ルートが確立された。この時代の日本には、キリスト教や鉄砲などヨーロッパから文化が流入した。石見銀はその流れを起こしたきっかけということができる。


[2]環境負荷の少ない持続可能な銀生産方式を達成した

 石見銀山では国内の他の鉱山に先駆けて精錬技術の「灰吹き法」を導入するとともに、採掘から精錬までを一貫して行う小規模な作業単位がいくつも集まった労働集約的な経営方法によって効率的な銀生産を実現した。銀山の経営に必要となる多量の燃料や資材等は、現地や周辺地域から供給する仕組みになっていた。これらを安定的に供給するために、薪炭材の生産地である山林を計画的に管理するなど、循環型の環境負荷が少ないシステムが確立された。


[3]銀の生産から搬出に至る産業システムの総体が今もよく残っている

 緑に覆われた石見銀山の山中の至るところに、銀生産に関わる遺跡が眠っている。
また、経営権を握った大名の山城跡、銀や物資を輸送した街道と港湾、鉱山に関わった人々が暮らした町並みなどが残り、銀の生産から搬出に至るまでの産業システムの総体を今に伝えている。世界的には、鉱山遺跡の多くは後世の開発で破壊されたり、環境へ大きなダメージを残していることがほとんどで、自然が回復した環境に盛時の遺跡が良好に残存している例は極めてまれである。


 石見銀山が持つ価値は多様で、上記のほかにもいくつもの要素がある。
 灰吹き法という技術を国内の他の鉱山に先駆けて導入するとともに、労働集約型の経営方式によって高い生産性を実現した。そこには、技術大国と呼ばれる日本の産業の原点があるといわれる。
 多様な要素がありながら、石見銀山についてはまだわかっていないことが多い。鉱床の成立に至る自然史、開発と操業の歴史、国内外へ及ぼした影響・・・。発掘調査が行われたのもごく限られた範囲だけである。未発見、未整理の資料がまだ膨大にあると思われる。そこからはまた新たな価値が見出されるかも知れない。
 遺産としての石見銀山を未来へ伝えること。それは、目に見えるもの、暮らしの中に息づいているもの、まだ埋もれているもの、それらの価値を理解し、次の世代へ引き継ぐということだろう。
 自然の力が生み出した銀を人が掘り、そこに町が栄えた。銀は人々に富をもたらし、やがて枯渇した。石見銀山には、現代社会にも通じる、人と自然の関わりの縮図があるように思われる。

参考文献・資料

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