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石見銀山の自然史

■石見銀山の地質的特徴と地域振興への活用

2023年10月27日 黄金博物館鉱山国際論壇

 石見銀山は日本の西南部、島根県大田市にある銀鉱山である。16世紀に石見銀山が開発されたことをきっかけに、日本の銀生産が急増して東アジアの市場が活性化し、世界的な経済と文化の交流が引き起こされた。その歴史的な意義が評価されて世界遺産に登録されている。本報告では石見銀山の地質的特徴と、保全活用の面から石見銀山の現状を紹介する。地質学的には、火山噴出物からなる火山体が鉱石に変化する作用(鉱化作用)を受けた特殊な鉱山であり、その特性が16世紀段階での銀生産と直結している。保全活用では、遺跡の中心にある大森町では66年前から地域住民が保全活動を行い、若年人口が増加するなど日本全体でも希有な成功例となっている。一方、観光による収益は減少傾向にあることや、遺跡地内以外の市民は保全活用への関心が低いという課題もある。市域全体での取り組みとするために、石見銀山とその他の文化財等を地質的な考え方で関連づけて、「日本遺産」に申請し、認定された。現在、地域史と自然史が深く関わり、石見銀山が市域全体の歴史的な柱であることを知ってもらう取り組みを行っている。

1.石見銀山とは

 石見銀山は日本の西南部、島根県大田市にある銀鉱山である。1527年に本格的な開発が始まり、16世紀の中頃から17世紀前半にかけて銀を量産した。閉山(注1)は1923年で、約400年間で1400トン前後の銀を産出したと推定される。日本では最初に銀の量産に成功した鉱山で、石見銀山に続いて生野銀山(兵庫県)、佐渡鶴子銀山(新潟県)が開発されると、日本は「シルバーラッシュ」と呼ばれる状況になった。一時は日本の銀生産量が世界の10分の1(3分の1とする説もある)に達したと推定され、大量の銀が東アジアの市場に流通し、ヨーロッパの交易船がマカオなどの港に訪れるようになった。石見銀山は、世界的な経済と文化の交流が始まるきっかけになったことが評価されて、「石見銀山遺跡とその文化的景観」(Iwami Ginzan Silver Mine and its Cultural Landscape)の名称で2007年に世界遺産に登録された。

 大田市は人口3万人余の小さな町で、石見銀山遺跡は市の西部にある。鉱床は仙ノ山(標高538m)を中心に、一部がとなりの要害山(414m)に連続している。仙ノ山の山中には少なくとも17世紀までさかのぼる採掘跡が多く残っている。仙ノ山のふもとには狭い谷沿いに鉱山町として成立した大森町があり、19世紀代の面影を残す町並みに今も人々が暮らしている。この町では、町の住民とそこにある企業の取り組みによって若者人口の増加と地域の活性化を実現しており、日本全体から注目されるまちづくりの成功事例になっている。

 石見銀山遺跡の構成要素には、港、街道、城跡も含まれる。港として栄えた温泉津町は今も港と温泉の町であり、近年は活性化が進んでいる。

 一方で鉱山遺跡本体の活用は、観光客数の低下などで伸び悩んでおり、石見銀山の観光のあり方は大田市全体の課題となっている。市民には石見銀山の観光に対して否定的な見方をする人もあり、大森町民とその他の市民で関心の度合いに大きな開きがあることは、市全体の活性化に石見銀山遺跡を活用する上での課題である。

(注1)第二次世界大戦中の1942年に再開発が試みられたが、1943年の水害で中止され、実際の採掘はほとんど行われなかった。

2.地質学からみた石見銀山

 石見銀山は、歴史学の研究は50年以上前に始まり、遺跡と古い建物が残る町並みを保全する活動が続けられてきたが、地質学および鉱山学に関わる事柄については一部の専門家が研究するのみで、あまり注目されなかった。世界遺産登録以降は少しずつ情報が蓄積されているものの、全体像が十分に明らかになったとは言いがたい段階である。

 地質的な研究は不十分ではあるが、この銀山は地質的な性質が16世紀の銀の量産と関係することは注目に値する。その性質について以下に述べる。

 石見銀山の鉱床は新しい時代の火山活動によってされたもので、その時代は約150万年前(新生代第四紀更新世)と考えられている。鉱床は仙ノ山の地表から地下にあり、この山は火山砕屑物(火山灰、火山礫)が堆積してできた火山地形(このような地形は「火山砕屑丘(pyroclastic cone)」と呼ばれる)」である。

 その鉱床は、未固結の堆積物でできた火山砕屑丘に銀などの成分を含んだ熱水が浸透することで形成された。熱水とは、マグマの熱で加熱された地下水やマグマから放出された高温の水である。仙ノ山では、透水性が高い地層に熱水が広くしみ込んだことで、立体的な広がりを持つ鉱床が形成された。

 こうして形成された鉱石は、岩石としては柔らかいために掘りやすく、立体的に広がっているために採掘の効率が高かった。採掘した鉱石から銀を含んだ部分をより分けるために細かく砕く工程でも、鉱石が柔らかいことは好材料で、生産の工程がすべて手作業の時代に適した鉱床だった。

 鉱物組成の部分では、銀鉱床の中心部は銅鉱物をほとんど含まなかったことが幸いした。日本では最初に石見銀山に導入された製錬技術の「灰吹法」では、銀と銅を分けることができないが、もともと銅が少ないために単純な工程で高品質の銀を生産できた。

 つまり、16世紀における石見銀山の成功は、火山が作った鉱床の地質的な性質が重要な要素だったと言える。

 なお、火山砕屑丘の堆積層の下位にも鉱床が存在している。基本的には連続していると思われるが、位置的に離れており、鉱床のタイプも異なることから区別されている。火山砕屑丘の鉱床は「福石鉱床(Fukuishi deposit)」、下位の地層の鉱床は「永久鉱床(Eikyu deposit)」と呼ばれる。永久鉱床は銅を主体に銀も産出する。

3.鉱山の公開と観光

 石見銀山では、遺跡と歴史的な町並みの保全を地域住民が自主的に行ってきた。ここで言う「地域」とは、1600年代から1900年代初頭にかけては現大田市域の政治、経済の中心地でもあった大森町のことである。

 大森町では、1957年に「大森町文化財保存会」が結成された。この活動をきっかけに遺跡保全の気運が高まり、1969年に石見銀山遺跡は国の史跡に指定され、結果的に後の世界遺産登録につながった。

 遺跡保全の活動とともに観光活用も少しずつ進み、1989年に坑道のひとつ「龍源寺間歩(Ryugenji-mabu) 」が一般公開され、2008年には「大久保間歩(Ookubo-mabu)」の限定公開が始まった。鉱山部分の観光活用としては、ふたつの坑道が中心である。

 龍源寺間歩は永久鉱床を採掘したもので、複数平行している鉱脈に対して直交する方向から掘り進めたものである。大久保間歩は福石鉱床を掘ったもので、立体的に広がる鉱石を掘り広げた跡を見ることができる。

 龍源寺間歩は常時公開(有料)で自由に入場できるが、大久保間歩は土、日、祝日限定で行われるガイドツアーに参加する形で入場できる。2022年の入場者数は、龍源寺間歩が約72,000人、大久保間歩が約4,400人である。

 2007年の世界遺産登録前後に石見銀山に関する報道が増加した時、龍源寺間歩が紹介されることが多く、「石見銀山=龍源寺間歩」というイメージが生まれた。そのために龍源寺間歩に観光客が殺到し、交通の混乱をもたらすと共に観光客に不満を感じさせる原因になった。石見銀山では坑道内に再現模型を設置せず、できる限り稼働当時に近い形で公開しており、予備知識がなければ坑道を見ることで面白さを感じにくいためである。この課題を解消するため、「石見銀山ガイドの会」は定時での無料ガイド、現地参加できる割安のガイドなどを工夫して好評を得ているが、対応は観光客全体の一部に限られる、

 大久保間歩はガイドツアーで、坑内空間の大きさとヘルメットとライトを装備して入坑する体験に観光客の満足感は大きい。筆者は、この坑道にある巨大な採掘跡が石見銀山の鉱山としての特性を示すことを指摘し、その内容を人気番組「ブラタモリ」(2022年9月3日放送回)で紹介した。放送時期がコロナ禍からの回復期であったこともあって観光客数に好影響をもたらしたとともに、鉱山遺跡の見せ方や面白みを市民が認識する効果もあった。

 すでに記したように、鉱山町をルーツとする大森町は地域の活性化に成功している。地域住民の取り組みの成果であるが、直接的な効果としては、人口約400人の町に有力な企業が2社あることが大きい。2社が町並みの保全などに積極的に取り組みながら、若年層の雇用と定住を図ってきたことによって、人口の維持と交流人口の増加が実現している。企業の取り組み以外でも、町並みの雰囲気や人との交流に魅力を感じて訪れる人が多い。この成功と鉱山遺跡としての観光は必ずしも連動しておらず、現在、町の住民が観光を含めた事業を一元化して行う取り組みをはじめている。

4.ジオパーク的なストーリーを作る

 石見銀山は歴史、地質などの自然、現代の町の姿や文化財保存の取り組みなど、様々な要素がある。今ある形を守りながら観光に活用する方法のひとつとして、これらの多様な要素を上手に発信し、魅力として感じてもらうことが必要と思われる。

 鉱山の地質的な要素は専門的な内容に偏り、興味を持つのは専門家など一部の層に限られる可能性が高い。わかりやすい物語として紹介することが望まれる。そのためには地形地質と人の暮らしを一体的にとらえるジオパークの概念が参考になる。

 大田市は、石見銀山の他にも特徴的な地形や地質に恵まれており、それらはこの地域の歴史文化に密接に関係している。一例として市のランドマーク的存在の「三瓶山(Mt.Sanbe)」がある。火山としての成り立ちが景観や土地の利用を特徴的なものにしており、古くは信仰の対象でもあった。地形と地質の要素を一体的に活用することを考える市民もいたが、石見銀山がすでに世界遺産に登録されていることもあり、実現に向けて動くことはなかった。

 ジオパーク的な概念の具体化は、2018年に意外な形で始まった。この年、大田市の地域資源を一体化して、「日本遺産」として認定を目指すこととして、行政の数名に筆者が加わる体制で認定まで2年間かけて取り組んだ。

 日本遺産とは、文化財の保全と観光等による地域振興への活用の2つを目的とした制度である。この制度は、地域の歴史文化を物語る「ストーリー」を認定の対象として、ストーリーを証明する事物が「構成文化財」という構成が特徴である。これまで日本の文化財行政は事物の保全が中心であったが、日本遺産は地域振興が目的に加わった点で異なっている。事物に対する認定ではないため、活用の自由度が大きいという特徴もある。

 この制度への認定に向けて、大田市では「火山に由来する地形と地質が地域の歴史文化の根底にあり、現在の景観につながる。」という内容でストーリーを作成した。構成文化財には石見銀山をはじめとする地質的要素のほか、神社や伝統芸能なども加えて、市のほぼ全域にまたがるよう工夫した。このような内容で申請し、2020年に「石見の火山が伝える悠久の歴史(Eternal History Told Through Iwami’s Volcanoes)」の名称で日本遺産に認定された。ジオパーク的な構成であることと、世界遺産を構成文化財に取り込んでいることは、104件ある日本遺産の中で異例な存在である。

 日本遺産に認定されたことの観光面での直接的な効果としては、大田市全体をひとつのテーマで発信できるようになったことが挙げられる。認定時期がコロナ禍に重なったため来客数は増加していないが、テレビや雑誌等のメディアで取り上げられる機会が増加した。この状況を持続して、観光収益につなげることが今後の課題である。地形、地質、歴史、文化のどの要素であれ、魅力的なストーリーとして発信することが、活用の第一歩と思われる。

5.地域振興と教育

 石見銀山を地域振興に活用するためには、市民が地域を知り、関心を持つことが欠かせない。市民が地域の歴史文化に価値を感じ、誇りを持つことではじめて活用に向けた力が生まれると思われる。しかし、先に述べたように市民には石見銀山に関心がなく、否定的な人も少なからずある。

 多くの市民が「当事者意識」を持ち、地域を知り、関心を持つことではじめて活用に向けた気運の高まりにつながると思われる。石見銀山は、大田市の歴史的な核である。これを活かすことで、地域振興に欠かせない「地域ブランド」や「地域アイデンティティー」が確立されると期待している。

 市民が地域を知るためにはさまざまな形での教育が重要で、特に学校での学習が最も効果が期待できる。大田市では2010年から市内全小学生、中学生が石見銀山について学ぶ「石見銀山学習」が継続しており、大人世代よりも30才以下の若年層の方が石見銀山の認知度は確実に高い。このような教育は短期間で地域振興につながるものではないが、時間をかけてでも続けていく必要を感じる。

 また、日本遺産も地域を学ぶ教材として有効と考えており、市内に27ヶ所ある「まちづくりセンター」が行う生涯学習講座などにおいて日本遺産をテーマにする事例が増えつつある。学校教育では、小学校5年生が4000年前の森「三瓶小豆原埋没林」を訪問して、日本遺産を知る取り組みが2022年に始まった。この森は、石見銀山と共に日本遺産の中核をなすものである。

 今後、このような教育プログラムの定着を図りながら、地域への興味関心を育む工夫を凝らしていく必要があると考えており、筆者は自らが地域ガイド的な役割を担いつつ、石見銀山協働会議として教育活動を支援する取り組みを行っている。

中村唯史(Nakamura Tadashi) NPO法人石見銀山協働会議理事長

2023年10月25日-28日の台湾訪問についてのメモ

1.瑞芳鉱山と藤田組

 瑞芳鉱山の開発は、1890年(清期)に基隆川で砂金が発見されたことがきっかけとされる。清は付近の調査を行い瑞芳地区に鉱床の存在を確認したが、日清戦争の混乱によって本格的な開発には至らなかった。

 1895年、下関条約で台湾を領有した日本政府は直ちに瑞芳の鉱床を押さえた。鉱区を東西に分け、鉱業権を藤田組(九分:「ふん」はニンベンに分)と田中組(金瓜石)に渡した。田中組は釜石製鉄所などを経営した会社である。両社は鉱山開発と同時に九分と金瓜石のインフラ整備を行い、その名残は今も色濃く残る。

 藤田組が九分の鉱業権を握った背景には、明治政府の意向があったとされる。台湾総督は長州、薩摩両藩の出身者が要職を占め、長州出身の藤田伝三郎の藤田組に九分を託した。同時期に大森鉱山清水谷製錬所を開設しながら短期間でこれを断念した藤田組は、その建材を台湾に送り施設の建設に用いた記録が残る。しかし、その現物資料は確認されていない。

 田中組は金瓜石の開発にあたって地元住民に対してかなり強硬な姿勢で望んだことに対し、藤田組は地元と共生する形を目指した。採掘にあたっても、事前に調査をして丁寧な開発を行った藤田組に対して、田中組は強引に掘り広げる形を取った。結果的に藤田組は生産が伸び悩み、田中組が成功を収める形になった。

2.九分と金瓜石の観光と地域

 瑞芳鉱山は1980年に閉山し、九分、金瓜石とも地域が衰退しはじめた。2001年、「千と千尋の神隠し」が公開されたことが転機となり、九分を訪れる観光客が急増、一気に観光地化が進み、これを追う形で2004年に金瓜石に黄金博物館が開館した。

 九分、金瓜石は台湾を代表する観光地になったが、同時に課題を抱えている。

 九分の観光業は地元以外の資本が多く、住居などが民宿に改築されることもあって住民は減少している。最盛期には2000人が通った九分の小学校は、今の児童数は20人である。

 金瓜石の人口減はさらに深刻で、地域内で住み働く人は少ない。九分に比べると観光客数が少ないとはいえ、黄金博物館は多くの来館者があるが地域に入る観光収益は限定的である。

 九分と金瓜石を取り巻く社会的環境は次のような状況である。

 両地区は新北市瑞芳区に属している。瑞芳区の人口は約4万人で、九分、金瓜石から瑞芳中心街まで自動車で30分弱、新北市および台北市の中心市街までは約1時間である。大都市圏に近いため観光客数は多いが大半が日帰りになり、観光事業従事者も瑞芳市街または新北市から通勤する形である。

 九分では宿泊が期待できるものの、急斜面に展開する町並み景観が観光の目的地になっており、ここに大規模な宿泊施設を設けることはできない。そのため、観光客数に対して観光収益が伸びない構造になっている。

 黄金博物館では、このような状況は中長期的にはマイナスと考えている。九分の景観を眺めるだけの観光から、鉱山を中心に発展した町の歴史文化をしっかり見てもらう必要があると考えており、観光構造を変える必要を感じているようである。

 石見銀山とは状況が大きく異なる部分が多いものの、町の歴史文化を見る滞在型の観光を求めるという部分では共通しており、鉱山遺構の活用について情報交換を行うことは、瑞芳、石見の双方にとって有益と思われる。

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