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石材に関する情報

■日本遺産の石、北木石と福光石

はじめに

 大田市の日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史」の構成文化財のひとつに、福光石の石切場があります。大田市と友好都市縁組がされている岡山県笠岡市には、香川県にまたがる日本遺産「知ってる!? 悠久の時が流れる石の島」の構成文化財として北木島の石丁場などがあり、両市の「日本遺産の石」の比較は、石材利用の歴史を端的に物語る一面があります。

福光石の石切場

福光石の石切場。1970年頃まで行われた手作業による採石跡。現在はこの奥で石材用チェーンソーを用いて採石されている。

1.大田市と笠岡市の縁と日本遺産

 第19代大森代官を務めた井戸平左衛門は、サツマイモの導入によって石見銀山領を飢饉から救った「芋代官」として敬われ、その頌徳碑は石見地方を中心に中国地方に広く存在しています。井戸平左衛門は備中笠岡代官を兼ねており、その縁で、両市の間で友好都市縁組がなされています。

 また、石見銀山で作業に従事する人々の健康対策として梅肉を用いたマスク(福面)の導入などを行った宮太柱は、笠岡で医業を営んでいた人物という縁もあります。

 両市には日本遺産の構成資産として「石材」を有しているという共通点もあります。「知ってる!? 悠久の時が流れる石の島」は2019年に日本遺産に認定され、備讃諸島の石材産業を柱としたストーリーです。「石見の火山が伝える悠久の歴史」は2020年に認定され、火山活動に由来する地形や資源が地域の歴史に根ざしているというストーリーで、石材資源として福光石の石切場を含んでいます。

北木石の石切場

笠岡市の威徳寺にある井戸平左衛門の墓。

2. 笠岡市の北木石

 笠岡諸島のひとつ、北木島で産する石が北木石で、岩石は花崗岩です。石材名と岩石名が混在しますが、石材は産地の名称で呼ばれ、岩石名は科学的な区分による名称です。

 花崗岩は、マグマが地下深部で固まってできたもので、白っぽい明るい色調で硬質な岩石です。硬いために、明治時代以前は転石や風化した花崗岩の中に残された硬い部分(玉石、風化残留核)を割って加工する使い方が中心でした。岩盤から石を切り出して大量に使用するようになったのは、削岩機や火薬が導入された明治時代以降です。北木石の採石が盛んになったのも明治時代の中頃からで、最盛期は昭和30年代でした。

 北木石の特徴として、国内の主要な石造建築にも用いられていることが挙げられます。古くは大阪城桜門(17世紀)があり、近代以降は日本銀行本店本館、三越本店、東京駅丸の内駅舎など多くの建築物に使われています。多くの花崗岩産地がある中で、北木石が多く使われたのは、島の出身で石材業を営んだ畑中平之丞(1842〜1930年)が販路拡大に努めた業績が大きいと言われます。

 北木石の石切場(石丁場)はほぼ垂直に深く掘り下げた壮大な規模を有することが特徴です。岩質が硬く、崩落につながるような大きな亀裂が少ない石であるためにこのような採掘方法が可能で、石材としてかたく丈夫です。花崗岩はマグマの大きな塊が地下でゆっくり冷えることで生成され、均質で大きな岩体を作ります。地表付近で固まった岩石に比べて割れ目(節理)が少ないことも石材としての長所です。

 瀬戸内海地域には、北木島以外にも花崗岩の産地が多くあり、御影石(兵庫県)、小豆島石(香川県)、庵治石(香川県)、万成石(岡山県)、大島石(愛媛県)、護院石(広島県)、徳山石(山口県)などが知られています。山陰地域にも中世には瀬戸内の花崗岩が流通しており、中世の石塔などに用いられている例が認められます。

北木石の石切場

北木石の石丁場(石切場)。花崗岩を垂直に掘り下げ、80mにも達する岩壁になっている。

3.大田市の福光石

 温泉津町福光で産する福光石は、石見地方で広く使われており、来待石(松江市)とともに山陰を代表する石材と言えます。この石は、海底で生じた大規模噴火によって火山灰、軽石、火山礫が堆積してできた凝灰岩で、変質作用によって緑色を帯びていることが特徴です。

 現在も採石が続く石切場は1ヶ所になっていますが、かつては福光地内だけでも10ヶ所以上の石切場があったと言われます。  福光石は小さなすき間を多く持つ多孔質の凝灰岩で、柔らかく火口が容易なことが特徴です。吸水性にも優れ、濡れても滑りにくいことから、現在は浴室の床材としても使われています。

 近世以前、福光石のように多孔質の凝灰岩は石材として多く用いられ、よく似た石としては大谷石(栃木県)がよく知られています。大田市には似た性質の凝灰岩が広く分布しており、各所に採石の跡が残り、近代以前の石造物や建築物に多く使われています。多くの石切場があった中で、現在の採石場付近は岩質の変化が少ない地層が厚く分布しており、質的、量的に恵まれていたことから採石が継続したとみられます。この石切場での採石は16世紀に始まったと伝わり、石見銀山の隆盛とともに生産が盛んになりました。近代以前の主な用途は墓石などある程度の加工を施す石造物で、石垣などの用途には別の石が多く使われています。

 福光石は広域への流通もあったとされ、北陸や九州でも使用例があるようです。このことは北廻航路(北前船)と関わりが深く、石見銀山で消費する物資を温泉津で降ろした船が、代わりの荷としてバラスト(船のおもり)を兼ねて石を積み込んだこともあって、広く流通しました。

福光石

研磨した福光石の表面。熱水変質して緑色を帯びる軽石、火山灰と黒色の角礫を含む。

4.大田市の石材利用史

 福光石をはじめ、凝灰岩が広く分布する大田市では、近代まではこの石を切り出して様々な用途に利用してきました。福光から温泉津地区を中心に、各所に石切場跡が多く残ります。福光地域に次ぐ規模で石切場跡が残るのは久利町赤波地区で、赤波石の名で1950年代まで採石されていました。大田町から久利町にかけて、この石を使った石垣が各所に残っています。世界遺産の大森町や温泉津町温泉津の町並みの中にも石を切り出した跡が各所に残り、採石跡地を広げて建物を建てた場所もみられます。

 コンクリートが普及する近代以前、建築材などに石を多く使ったことは全国どこでも共通することですが、この地域の特徴として、切り出して整形した「切石」を多く使ったことを挙げることができます。加工に適した凝灰岩が大量に採れる地域ならではの特徴と言えるでしょう。切石は、石垣、家屋の土台石、かまど、流し台、井戸枠など生活の様々な場面に使われ、古い家などでは今もその名残を見ることができます。

 しかし、近代以降、多くの石切場は廃れました。その理由はコンクリートの普及によって石材の需要が減ったことに加えて、機械化によって硬い花崗岩の加工が可能になったことから、建材や墓石などへの需要が凝灰岩から花崗岩に変化したためです。

 凝灰岩の利用は全国的に縮小し、大生産地だった栃木県の大谷石も生産をやめ、今も採石が続いている福光石は稀な事例になっています。石材需要は縮小したものの、天然の石にこだわる建築物などには一定の需要があります。生産地が少なくなった分、福光石は国内各地から注文を受けるようになっており、今や日本の石文化を継承する貴重な存在と言えるでしょう。

櫛島海岸に残る採石跡

温泉津町の櫛島に残る採石の跡。温泉津町内では、海岸にも採石の跡が多く残る。

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