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石材に関する情報

■石見銀山遺跡で使われた石材

はじめに

 石見銀山遺跡では、地内および近隣地で産する石を用いた石製品が多く残されている。特に切石を多用していることが特徴で、社寺の石垣などに細かな加工を加えたものを見ることができる。当地一帯は日本列島形成期(新第三紀中新世)の海底火山噴出物が広く分布しており、切石としての利用に適した凝灰岩などが各所で採取できる。街道の整備などにも切石が多く用いられ、石材を現地調達した採石の跡が道の脇などに随所に残っている。町並みには採石跡を利用した家屋もあり、切石の利用と採石は石見銀山遺跡の景観において重要な構成要素になっている。本稿では石見銀山遺跡の中心である大森町で用いられている石の特徴を述べ、石材産地との関係を考察する。

石見銀山遺跡位置図

第1図 調査位置図
大田市の範囲と本文中で述べる石材産地の位置を示す。網かけ部分は第2図の範囲を示す。

1.地質概要

 石見銀山遺跡がある大田市は、日本海形成期の変動に伴う海底火山噴出物が分布する「グリーンタフ地帯」の西端域にあたり、新第三紀中新世の流紋岩〜安山岩質の火山岩類および火砕岩が海岸部を中心に広く分布している(鹿野ほか、2001)。一部で頁岩を伴う。石見銀山の東側と北側には海底火山活動によって形成された石こう鉱床と黒鉱鉱床があり、かつては複数の鉱山が稼働していた。現在もゼオライト鉱山が稼働している。

 石見銀山の本体である仙ノ山から温泉津町にかけて連なる山並みは第四紀の火山活動によって形成された火山で、最高峰の大江高山(808m)の名をとって大江高山火山と称される。この噴出物はデイサイト溶岩および火砕岩で、火砕丘である仙ノ山以外のピークは溶岩円頂丘である。  仙ノ山の南側にあたる水上町一帯には第四紀の堆積岩類が広く分布する。この地層は礫岩層を主体として、砂岩、泥岩(粘土層)を伴う。この地層の粘土は瓦など「石見焼」の陶土として用いられる。仁摩町以西の海岸部にも断続的に分布している。

石見銀山遺跡位置図

第2図 大森町拡大図
大森町は北側が大森地区、南側が銀山地区に分かれている。

2大森町で使われている石材

 大森町の町並みでは、建物の基礎、石垣、側溝などに多くの石が使われ、石塔や墓石、仏像などの石造物も数多い。また、製錬の工程で使われた「要石」や、石臼も町並みの各所で目にすることができる。

 大森町で使われている主な石材を大別すると、白色〜明灰色の凝灰岩類(以下、白色凝灰岩類)、緑色火山礫凝灰岩、デイサイトおよび同質火山角礫岩(以下、デイサイト)がある。また、花崗岩製の石製品が若干みられるほか、要石には安山岩および同質凝灰岩が用いられている。以下に、これらの石材の使用状態での肉眼的特徴と主な使用例を述べる。なお、以下の説明は近年の建設工事で用いられたものは含まない。

(1)白色凝灰岩

 社寺や熊谷家住宅など比較的大きな建築物の石垣や基礎に切石として使われている。風化色は白〜黄白色で、粒度は石によってばらつきがある。社寺の石垣のように精緻に作られたものには比較的細粒(概ね粗粒砂相当)で塊状の均質なものが使われている。代表的なものとして城上神社拝殿の石垣がある(写真1)。基礎や側溝などに使われている細長く切った石には並行に近い葉理が発達しているものが多く、塊状の部分と使い分けられているようである。

 白色凝灰岩は石造物にも用いられている。墓石に多いほか、五輪塔や宝篋印塔などの石塔、仏像などに多く使われている。石造物に用いられているものは細粒で塊状、均質である。

城上神社拝殿の石垣

写真1 城上神社拝殿の石垣
白色凝灰岩を用いて精密に作られている。同じ石は、旧井戸神社(井戸さん広場)や大森代官所跡の長屋門、熊谷家などの石垣などに用いられている。

(2)緑色火山礫凝灰岩

 大森町で使われている緑色の火山礫凝灰岩は、2グループに大別できる。ひとつは、概ね直径1cm以下の大きさの軽石礫を主体として、黒色の安山岩礫を若干含むものである。岩相は塊状無構造で、後述のように湯泉津町福光で産する「福光石」がこれにあたる。建材としては城上神社の玉垣(写真2)などに限られ、石造物への使用が多い。石造物では羅漢寺五百羅漢像がよく知られているほか、石塔、墓石などにも用いられている。

 もう一方に区分されるものもよく似ているが、礫の大きさのばらつきが大きく、しばしば平行に近い葉理が発達している(写真3)。風化部では空隙が目立ち、上記の福光石に比べて粗い岩質でやや脆い。一般の家屋の基礎や石垣などに多用されている。

城上神社の玉垣

写真2 城上神社の玉垣
湯泉津町福光産の緑色凝灰岩「福光石」が用いられている。福光石は石垣等には用いられておらず、手の込んだ石造物などを中心に使われている。

家屋の基礎部分

写真3 家屋の基礎部分
火山礫凝灰岩の切石が用いられている。風化面では平行葉理が明瞭である。この石は町並みの各所で多く用いられている。大森地区は同質の火山礫凝灰岩の分布地域である。

(3)デイサイト

 デイサイト溶岩とデイサイト質火砕岩があり、前者は建材と石造物に用いられ、後者は石垣等の建材への使用に限られる。デイサイト溶岩を用いた建造物として、銀山川にかかる石製のアーチ橋「羅漢町橋」(写真4)が代表的なものである。清水谷製錬所の石垣にはデイサイト溶岩とデイサイト質火砕岩が用いられている。このほか、建材では石垣を中心に用いられている。建材としての使用は、北側の大森地区に比べ、南側の銀山地区で多い。

 デイサイト溶岩を用いた石製品もみられ、大森町で最古級の石塔とされる勝源寺の五輪塔がこの石である。挽臼などの日用品にも用いられている。

羅漢町橋

写真4 羅漢町橋
銀山川にかかるアーチ橋にはデイサイトが用いられている。銀山地区にはデイサイトが分布しており、石垣などにもよく使われている。大森町で多く使われている凝灰岩類に比べて強度と耐久性がある。

(4)その他の石

 製錬の工程で鉱石を粉砕する際の台座として用いた石を「要石」と呼んでいる。この石の石材はまれに玄武岩などが混じるものの、大部分は安山岩類を用いている。鉱石を載せて槌で叩き続ける台座としては硬さと靭性が必要で、この条件を満たす石として選択されたことがうかがわれる。なお、この安山岩類は要石には多量に用いられているが、他の用途に使われたものは大森町内では見当たらない。  量的には少ないものの、石製品に花崗岩が使われていることもある。大きなものでは、城上神社の狛犬があり(写真5)大阪の石工の名が刻まれている。  これらの石のほか、松江市宍道町で採れる凝灰質砂岩の「来待石」製の石造物なども混じる。

城上神社の狛犬

写真5 城上神社の狛犬
ピンク色のカリ長石を含む花崗岩で作られており、大坂の石工の銘がある。花崗岩は瀬戸内海側の産地から海運によって運搬されたとみられる。

3.石材と近隣の主な産地との関係

 石見銀山遺跡の周辺は、上記のように新第三紀の火山岩類と堆積岩層、第四紀火山の噴出物、第四紀の堆積岩類が分布している。特に、新第三紀中新世の海底火山によって形成された凝灰岩類が広く分布しており、至る所に大小の石切場跡が残っている。

 石見銀山と距離的に近く規模が大きな石切場跡が残る場所として久利町赤波地区がある。凝灰岩が厚く分布し、少なくとも江戸時代の前半には採石が始まり、城上神社や井戸神社に用いられたとされる(福間、1960:久利文化研究会、1985)。近代には「赤波石」の名称で大田市を中心に多く使われていたらしく、1950年代までは採石が続けられたという。山中に残る石切場跡を観察すると、新鮮な状態では明灰色を示し、風化色は白色または淡黄色である。層準によって塊状の部分と並行葉理が発達する部分がある(写真6、写真7)。採石当時は層準による粒度の違いによって「ドブ」と「砂石」と呼び分け、柔らかく細粒な「ドブ」は細かな細工を施す製品に、「砂石」は建材から細工物まで幅広く使ったという。赤波石の岩相は、大森町でよく使われている白色凝灰岩と一致する。城上神社拝殿の基礎部分をはじめ、作りが精緻な石垣等に使われている石は赤波石の塊状部分が用いられているとみられる。また、細長い切石として家屋の土台などに使われている石には、赤波石の並行葉理発達層準と岩相がよく似ているものがある。赤波地区と大森町の距離は現道で約4kmと近く、何か所もの石切場が残る生産規模を考慮すると、この石は大森町で多く使われた可能性が高い。

久利町赤波の石切場跡

写真6 久利町赤波の石切場跡
近世から近代にかけて、赤波地区では凝灰岩が採石され、赤波石の名称で大田市を中心に県内各地で用いられた。山中に何か所もの石切場跡が残る。この石切場では水平な平行葉理が発達しているが、層準によっては塊状である。

赤波の白色凝灰岩

写真7 赤波の白色凝灰岩
粒度的には粗粒砂程度の大きさで、新鮮な断面は白〜明灰色を示す。石垣等に使用されて風化した状態では黄色を帯びていることが多い。

 大森町内も凝灰岩類の分布域で、町並みの中にも採石の跡が点在する(写真8)。これは石切場として本格的に操業した規模ではなく、必要に応じて近隣の石を調達した規模のものと思われるが、各所で採石しているので使用量はかなり多いと推定される。場所によって岩相の変化が大きいが、概ね火山礫凝灰岩に相当し、新鮮な状態では緑色を帯びる。風化した表面には空隙が目立つことが多い。また、風化の状態や粒子の大きさによっては白色凝灰岩との識別が難しい場合もある。上記の緑色火山礫凝灰岩のうち、「福光石」ではないグループは町内で採れる石とみられる。家屋の基礎や側溝、石垣などにこの石が多く用いられている。どちらかといえば、石材の見た目にそれほどこだわらない日常的な用途には地内で採れる石を用いていることが多いようである。

代官所前広場の岩に残る矢穴

写真8 代官所前広場の岩に残る矢穴
西南之役戦死者紀念碑が立つ岩は石を切り出した残存部で、岩を割るための矢穴も残っている。採石の跡は町並みの各所に残る。

 距離が少し離れるが、長久町稲用にも白色凝灰岩の石切場跡がある(写真9)。採石の時期や石材名の有無は不明だが、それなりの規模の石切場である。この石は風化面に鉄鉱物とみられる茶〜黒色の細かな粒子が見えることが特徴で、大森町で使われている石とは区別できる。

長久町稲用の石切場跡

写真9 長久町稲用の石切場跡
静間川の河岸近くに白色凝灰岩を採石した跡が数カ所残る。産地近隣で使われた石材と思われる。川合町の物部神社に同じ特徴を持つ石が使われており、本格的な生産が行われた可能性もある。

 湯泉津町福光には「福光石」の石材名で呼ばれる緑色火山礫凝灰岩が分布しており、現在も採石が続けられている(写真10)。採石の歴史は16世紀まで遡るとされる。直径2cm程度までの軽石礫と火山灰からなり、黒色の安山岩礫を少量含む。塊状で特定方向の割れが入りにくい良質な石材である。大森町では石造物を中心によく使われている。また、福光北部の湯泉津葬斎場付近では均質な白色凝灰岩が分布している。この白色凝灰岩が大森町で石材として使われている可能性もあるが、外観では赤波石と区別ができない。

湯泉津町福光の福光石石切場

写真10 湯泉津町福光の福光石石切場
現在も採石が行なわれている大規模な石切場。写真は近代以前の手掘りによる採石の跡。石見地方を中心に広く使われており、大森町にも福光石製の石造物がいくつも存在する。

 次に、デイサイトについて述べる。これは大江高山火山の噴出物で、大森町の地内にも分布している(写真11)。溶岩は灰色または赤灰色で白色の斜長石と黒色の角閃石、黒雲母の直径1〜5mm程度の結晶が目立つことが特徴である。大森町の町並みの南西側にある要害山には近代の石切場が残っている。デイサイト質火砕岩は仙ノ山に分布する。熱水による変質を受けていることが特徴で、変質の程度によって色調が暗赤灰色、暗緑灰色などまちまちで、しばしば方解石や石英の細脈を伴う。加工を施した石製品にはこの石は使われておらず、岩質が不均質で加工には向かないとみられる。

デイサイトの転石

写真11 デイサイトの転石
要害山の休谷付近の転石。近くには近代の石切場がある。休谷付近は、熱水変質していないデイサイトが採れる場所としては町並みに最も近い位置にあたる。

 デイサイトは上記の白色凝灰岩や緑色火山礫凝灰岩類に比べると硬く丈夫である。大森町の羅漢町橋や清水谷製錬所など強度と耐久性を必要とする構造物には選択的にこの石を使ったと推定される。その他の一般的な石垣等への使用は、この石の分布域である銀山地区で多いという地域的な差が目立つが、安養寺の経堂では土台にデイサイトと白色凝灰岩を併用して上下で使い分けており、意図的な使い分けもあったと思われる。

 要石に使われている安山岩類は、同質のものが大森町の東側から川合町忍原にかけて分布している。川合町忍原の採石場で観察すると岩体に柱状節理が弱く発達しており、これに沿って一辺30〜50cm程度のブロックに割れる傾向がある。忍原川の河床にはこのブロックが礫として点在しており、形状や大きさが要石と大変よく似ている(写真12、13)。このような転石を要石に用いた可能性が高い。なお、この石は川合町では石垣等に用いられている。

要石(かなめいし)

写真12 要石
製錬の工程で鉱石を粉砕するために使ったもの。硬く緻密な安山岩が用いられている。大部分が同じ石を用いており、割石ではなく、ある程度磨耗された転石を用いているものが多い。

 その他、花崗岩類はおそらく瀬戸内側の産地から搬入されたものである。凝灰質砂岩(来待石)などとともに他地域から搬入された石材も用いられているが、全体としてはごく近い範囲で採れた石を使い分けしているようである。

静間川支流忍原川の転石

写真13 静間川支流忍原川の転石
要石に用いられているものと同質の安山岩礫。形状が要石によく似ており、このように河床にあった転石を用いたとみられる。

4.まとめ

 石見銀山遺跡の中心である大森町では石材が多様な用途に多量に使われている。町並みの特徴として、石垣や家屋の土台などの建材に切石が多用されていることがある。町の中にも採石の跡があり、切石として使いやすい凝灰岩が周辺を含め広く分布していることが、町並みの一要素になっていると言える。社寺等の重要な建築物の石垣や基礎には白色凝灰岩が多く使用され、その主要な産地として久利町赤波地区が推定される。町の中で採石された凝灰岩類も家屋の基礎や石垣に多用されている。銀山地区ではよく使われているデイサイトは、清水谷製錬所など近代の鉱山関連施設にも用いられている。

 今回の検討では、大森町の石材に多く使われている石は、地内で採れる凝灰岩類とデイサイトに加えて、久利町赤波地区の凝灰岩が相当量用いられている可能性が高まった。これまでの各種調査において、当地では凝灰岩類が多く使われていることが知られており、その石は漠然と「福光石」またはその周辺のものと捉えられていたが、建材に関しては福光石を用いた例は少なく、石造物にも赤波石などの白色凝灰岩を使ったものが多くある。これらの石の時代的な変遷や使い分けは、町並みの景観が成立する過程を考える上で興味深い。

福間大眼(1960)「赤波のあゆみ」.
久利文化研究会(1985編)「久利町風土記」.
鹿野和彦・宝田晋治・牧本 博・土屋信之・豊 遥秋(2001)温泉津及び江津地域の地質.地域地質研究報告(5万分の1地質図幅),地質調査所,129p.

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