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地層から学ぶ
大田市の大地

石見の火山が伝える悠久の歴史で学ぶ大田市の「大地のつくりと変化」

立神岩(大田市波根町)の地層

立神岩(大田市波根町)のがけに見える地層。はっきりしたしま模様がとくちょうです。れき岩と火山灰が固まった石(ぎょうかい岩)の地層が交互に重なっています。

1.大地をつくるもの

 大地は、岩石と「れき」や「すな」、「どろ」(ねんど、シルト)、火山灰でできています。レキ、すな、どろは岩石がこわれて小さくなったもので、つぶの大きさで区別されます。レキなどのつぶは、流れる水のはたらきなどで運ばれて、海や湖の底、川底などにたまります。レキなどのつぶがたまって層になったものを地層と呼びます。

 岩石には、れきなどのつぶが集まってできたものと、「マグマ」のはたらき(火山のはたらき)によってできたものがあります。また、岩石が熱や圧力によって変化してできる岩石もあります。

 レキなどのつぶが集まってできた岩石は、つぶの大きさによって「れき岩」、「さ岩」、「でい岩」などに区別されます。

 マグマ(火山)のはたらきでできた岩石には、マグマが地下で固まってできた岩石、ふん火で「よう岩」が地上に出て固まった岩石、火口からふき出された火山灰がたまってできた岩石などがあります。よう岩はマグマが地上に出てきたもので、火山灰はマグマが細かなつぶになってふき出されたものです。

久手海岸の砂浜

久手海岸(久手町)のすな浜
岩石がくだけて小さくなった粒は、大きさによって「れき」(直径2mm以上)、「すな」(直径2mm〜0.06mm)、「どろ」(直径0.06mm未満)に区分されます。
流れる水の強さによって運ばれる粒の大きさに違いがあります。それほど強くない波が打ち寄せる海岸にはすながたまっています。川では少し流れが弱い所などにたまっています。

静間川の川原

静間川の川原(長久町)にたまっているれき
れきは、川原や少し波が強い海岸でよく見ることができます。
下流の流れは、ふだんはれきを運ぶほど強くありませんが、大雨でいきおいが強くなった時に写真のようなれきが運ばれます。

雨の後の三瓶川

雨の後の三瓶川のようす(大田町)
流れる水の量が多くなり、いきおいが強くなっています。 茶色くにごった水には、どろがたくさんまじっています。水中では、すなやれきも運ばれています。にごった水は河口からさらに沖まで広がり、海の深い場所にどろがしずみます。

2.れきやすな、どろが重なった地層

 水のはたらきでできた地層を観察すると、大きさがちがうつぶが重なり合っていることに気づくでしょう。強い水の流れは大きなつぶを運ぶことができ、弱くておそい水の流れは小さなつぶしか運ぶことができません。地層を作っているつぶの大きさのちがいは、水のはたらきかたのちがいをあらわしています。  例えば、大雨で水が増えた川の流れはとても強く、れきやすな、どろをたくさん運びます。河口では弱くなり、運ばれてきたつぶは大きなものから順にしずんで重なります。細かなどろはさらに沖まで運ばれて、海や湖の底にたまります。このようなことをくり返しながら、地層が積み重なっていきます。

どろ、すな、れきが重なった地層

どろ、すな、れきが重なった地層(水上町)
300万〜200万年前ころに流れていた大きな川によってできた地層で、大森町から水上町、祖式町、大代町にかけて分布しています。この地層には、瓦などの材料になるねん土(どろの地層の一部)があり、ほり出して使われています。
地層としては新しい時代のもので、スコップで掘ることができることが程度のかたさです。

大田平野の表層地質断面図

大田町の地下の地層(大田町)。国土地盤情報検索サイト「KuniJiban」からデータ引用
大田町を中心とする市街地は、平らな地形の場所にあります。このような地形は「平野」とよばれます。
このような地形は、1万年前より新しい時代のすなやれき、どろがたまってできたものです。上の図は、大田市駅の近くと、山崎橋の近くで行われたボーリング(地面に穴をあけて、地下を調べる方法)の記録から作ったものです。
ボーリングから、大田町の地下にはおもに、すなやどろが重なっていることがわかります。

波の力で砂と砂鉄がより分けられた浜

波の力で砂と砂鉄がより分けられた浜(静間町の近藤ヶ浜)
浜の海側(左)はすな、陸側(右)はさ鉄が集まっています。すなとさ鉄は粒の大きさはほとんど同じですが、重さがちがうために、波のはたらきによってより分けられました。
すなの部分には少し大きなれきもあります。波が強い時に運ばれたれきが、そのまますなの上に残っているようです。

3.化石を含む地層

 生き物や足あと、巣穴などが地層にうもれたものを「化石」と言います。化石は、昔の生き物や、環境を知る手がかりになります。地層を観察すると、化石が見つかることがあります。足あとや巣穴の化石は、生き物がどのような生活をしていたかを知る手がかりになったり、地層ができた時に、その場所がどのような環境だったかを知ることもできます。

 「三瓶小豆原埋没林」は、火山灰で森がまるごとうもれた“森の化石”です。昔の森の大きさや、どのような種類の木がしげっていたかをしることができる貴重な資料です。

縄文時代の森が地層に埋もれた三瓶小豆原埋没林

縄文時代の「森の化石」三瓶小豆原埋没林(三瓶町)
地面に根をはったままの木と、土しゃでおしたおされた木がうもれています。4000年前の森の様子を知ることができる「森の化石」です。

五十猛海岸の化石

地層に含まれている化石(五十猛町)
泥岩の地層に化石が含まれています。これはサンゴの化石で、貝の化石も多く含まれていました。海にすむ生きものの化石を含んでいるので、海でできた地層とわかります。

4.火山灰が重なってできた地層

 火山のふん火では、火山灰がふん出されることがあります。一度にたくさんの火山灰がふん出されて、厚い地層を作ることもあれば、ふん火がくり返される度に少しずつ火山灰がたまってできた地層もあります。

 大きなふん火では、たくさんの火山灰が空高くふきあげられ、風によって遠くまで運ばれることがあります。特に大きなふん火の時は、1000km以上はなれた場所でも火山灰の地層ができることがあります。

大田軽石流堆積物の地層

三瓶火山がふん出した軽石と火山灰の地層(大田町)
家よりも高いがけの全てが、1回のふん火でつもった軽石と火山灰です。三瓶火山が約5万年前に大ふん火した時、「火さい流」という現象が発生して、一気に流れてきました。
この場所は、三瓶火山から10km以上はなれた場所で、そのふん火がどれほど大きなものだったかが想像できます。

火山灰が何層も降りつもった地層

火山灰が何層も降りつもった地層(三瓶町志学展望広場)
このがけでは、ななめに地層のすじが見えます。何回もの三瓶火山のふん火で降りつもった火山灰の地層で、約5万年前から約4000年前までの間の、5回のふん火でできました。
このような地層を調べることで、火山のふん火の歴史を知ることができます。

5.火山が作った山

 三瓶山は約4000年前までふん火をくり返した火山です。約10万年前にふん火がはじまった時、まだ三瓶山はありませんでした。はじめのうちは、とても大きなふん火を行い、カルデラと呼ばれるくぼ地を作りました。今の山ができたのは、約19000年前よりも後のふん火です。くぼ地の中でゆっくりとふん出した溶岩が男三瓶山などの山を作り、約4000年前におおよそ今のような形になりました。三瓶山は、中国地方で一番新しい火山であり、一番新しい山なのです。

鶴降山(大田市川合町)から見た三瓶山

西から見た三瓶山(大田市川合町の鶴降山山頂で撮影)
三瓶山のまわりには低い山しかなく、ぽつんとそびえています。火山のふん火によってこのような山ができました。
男三瓶山、子三瓶山、女三瓶山、孫三瓶山などのみねが集まっていて、それぞれ溶岩でできています。大平山というみねもあり、これは火山灰がつもってできたものです。
これらのみねは、約5万年前のふん火でできたカルデラの内側で溶岩がふん出してできました。

三瓶カルデラの範囲

三瓶火山のカルデラの範囲
カルデラは、爆発的な大ふん火によって大量のマグマが一気にふん出された時にできるクレーターのような地形です。
三瓶火山のカルデラは、南北約5km、東西約4kmの大きさがあります。約5万年前の大ふん火の直後には、図で赤く示した範囲はくぼ地になっていて、今見られる三瓶山はありませんでした。

6.石見銀山を生んだ火山

 石見銀山は、戦国時代から江戸時代のはじめにたくさんの銀を産出した鉱山です。歴史的に重要な鉱山で、世界遺産に登録されています。銀が採れた仙ノ山は火山です。約150万年前のふん火で火山れきや火山灰が降りつもって山ができた後、温泉のはたらきによって銀の鉱石ができました。仙ノ山は大江高山火山と呼ばれる火山の一部です。この火山は、大江高山や矢滝城山など30個以上の山を作りました。

石見銀山の銀を掘り出した跡。本谷の本間歩付近

石見銀山仙ノ山に残る銀を掘り出した跡(大田市大森町)
仙ノ山の岩には銀が多く含まれていました。山の中には岩を掘って銀を含む鉱石を掘った跡がたくさん残っています。
銀がもっとも盛んに掘られたのは、16世紀から17世紀の前半で、一時は世界でも1、2をあらそう量の銀を生産しました。

仙ノ山と周辺の山やま

仙ノ山と周辺の山やま(大田市水上町で撮影)
中央の右にあるなだらかな山が仙ノ山で、左はしの一番高い山が大江高山です。
この山やまは、約200万年前から約60万年前にかけてくり返された火山ふん火でできました。仙ノ山も火山です。仙ノ山では温度が高く、銀や銅などを溶かした温泉が吹きだしました。この温泉の作用で、仙ノ山に銀の鉱石ができました。

仙ノ山の福石鉱床の石

仙ノ山の石(大田市大森町)
この石は、白っぽい粒のまわりに黒いすじがあみのように入っています。
火山のふん火で、火山れき(溶岩や軽石のかけら)がふりつもってできた石に、温泉がしみこんで、れきのすきまを銀などを含む成分でうめたものです。石見銀山では、このようにしてできた銀の鉱石が掘られました。

7.恵まれた石材資源

 さまざまな場面でコンクリートが使われるようになる前の時代、道や橋、建物など、暮らしのさまざまな場面で石が使われました。石は重要な資源だったのです。

 大田市には、火山灰や軽石がたまってできた「凝灰岩」という石が広く分布しています。これはどちらかと言えば柔らかく、加工しやすい石で、その代表が温泉津町で採れる福光石です。石見銀山が栄えて多くの人が暮らしたことで、石の需要が高まり、福光石は盛んに使われました。この石は、大田市以外でも西は益田市から東は出雲市多伎町あたりまで、江戸時代から大正時代頃までの墓などに多く使われています。

福光石の石切場

福光石の石切場(大田市温泉津町)
大田市は石切場がたくさんあった地域で、特に温泉津町福光は「石の町」といえるほど石材の生産が盛んでした。
福光石は火山灰などがたまってできた石で、柔らかく、加工しやすい石でした。石見銀山が栄えるとともに石の生産も盛んになり、ここでは現在も石が掘られています。

大田市久利町の赤波石の石切場跡

赤波石の石切場跡(大田市久利町)
久利町も石の生産が盛んだった地域で、「赤波石」と呼ばれた白い凝灰岩が採られました。
この石は、石見銀山の町なみ(大森町)で神社や寺など大きな建物によく使われているほか、石垣の材料として大田町を中心に多く使われました。

8.日本の近代化を支えた石こう

 大田市では、明治時代から石こうの採掘がはじまり、1970年前後まで続けられました。石こうはセメントの原料のひとつ(主原料は石灰岩)で、現代の建物によく使われる石こうボードの原料でもあります。当時、島根県は全国有数の石こう生産地で、国内生産の半分以上を産出した時期もあります。それを支えたのが大田市と出雲市の石こう鉱山でした。道路などの整備が進んだ日本の近代化から高度成長までの時代に、大田市の石こうは建設の資材に大量に使われていたのです。

大田市久利町松代鉱山の坑道内

石こうの主力鉱山だった松代鉱山の坑道内(大田市久利町)
松代鉱山は、大田市の石こう生産の主力鉱山として日本の石こう需要を支えた鉱山です。松代鉱山のほか、鬼村鉱山(大屋町)、石見鉱山(五十猛町)で石こうが採掘されました。
松代鉱山では、石こうの層の近くから「あられ石」という鉱物を産出し、これは資源としては使われませんでしたが、とてもめずらしいもので天然記念物に指定されています。

石こうを積む貨物列車

静間駅に止まっている石こうを運ぶ貨物列車(大田市静間町)
松代鉱山、鬼村鉱山で採れた石こうは、静間駅から貨物列車で山口県のセメント工場などに運ばれました。写真の右側は石こうを積み出す貨物専用の線路で、ここで積み込み作業が行われました。

松代鉱山のあられ石

松代鉱山産のあられ石(大田市久利町)
大きなものはバレーボールくらいの大きさがあり、小さな花が集まったような模様が見られます。このような形のあられ石は世界でも他にないとされ、とてもめずらしいものです。

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