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地層から学ぶ
大地の歴史

■旧満洲撫順炭鉱産の石炭と関連製品類の標本

はじめに

 石見銀山遺跡地内にある、大田市立大森小学校(島根県大田市大森町)で保管されてきた、古い石炭標本を検討したところ、中国北東部の撫順炭鉱(図1)の石炭とそれに関連する製品類で、日本が旧満洲の政治経済に直接的に関与した時代のものとみられることを確認できた。日本は日露戦争が終わった1905年から満洲で炭鉱の経営に乗り出し、第二次世界大戦が終わる1945年までの間、重工業や化学工業を展開した。日本が満洲に進出した理由のひとつに、東アジア最大の炭鉱である撫順炭鉱をはじめとして地下資源に恵まれていたことがあり、1930年代から終戦までの間を中心に急速に産業を発展させた歴史がある。この標本には、満洲における産業に関連する資料が収められており、戦前、戦中の鉱業史や社会史に関わる貴重な資料と思われる。本稿では、標本が今後も大切に保管され、満洲における産業史研究等の資料として活用されることを期待して、その概要を報告する。

撫順炭鉱の位置

図1 撫順炭鉱の位置
都市をつなぐ実線は1940年頃の主要な鉄道路線を示す。破線は現在の国境。

大森小学校に保管されてきた標本

写真1 大森小学校に保管されてきた標本
上から4段目までが石炭や岩石など、下段に化学製品等が入った試料瓶が納められている。資料の左上の数字は表1と対応。

標本の概要

 この標本は大森小学校の理科室において、同校の地区内にあった大森鉱山関連の標本(※注)などとともに保管されていた(写真1)。標本の内容や学校に納められた経緯に関する記録はない。縦38.3cm、横28cm、高さ3cmで内側に仕切りがある木製標本箱に、石炭と岩石、石炭関連の製品が合計22点収められたものである。標本箱には「大田市立」までの文字が残る物品票があり、資料の多くにはラベルが残存している。物品票は虫食いによって欠けているため、「市立」以下の文字は不明だが、学校名が続いていたとみてよいだろう。
 資料に付けられたラベルは紙製で、印字の文字によって資料名のみが記されている。その内容を表1に示す。
 ラベルの表記によると、標本は炭鉱から掘り出された石炭および琥珀、鉄鉱物、オイルシェール(油母頁岩)、岩石と、コークスや豆炭などの製品、石炭またはオイルシェールを原料とした化学製品(硫酸アンモニニウムなど瓶に収められているもの)で構成されている。

※注:大森鉱山が1923年に休山した直後に鉱山関係者から学校に寄贈された鉱石等の標本が保管されていた。

標本のラベルの内容

表1 標本のラベルの内容
ラベルに記載されている文字を示す。□は文字が欠損している部分。()内は補足。写真1の数字と対応。

資料類の採取地・製造地

 この標本には、試料類の採取・製造場所と標本化した経緯等につながる情報は記載されていない。しかし、個々の試料に付けられたラベルに石炭を採取した坑道名が記されており、その名称から撫順炭鉱産の石炭等と、石炭に関連する製品類を収めたものと判断できる。
 以下に、その理由を述べる。
 坑道名を示すとみられる名称があるラベルとして「老虎台坑炭」、「東郷坑炭」、「□山坑炭」の3点と、採掘方法を示す「露天掘炭」の記載があるものが1点ある。
 老虎台坑と東郷坑の名称は、日本が経営していた当時の撫順炭鉱の主力坑道(梅野:1926)の名称に一致する。ほかに、同炭鉱の主力坑道として大山坑があり、一文字欠けている「□山坑炭」はこれに相当する可能性が高い。露天掘りは撫順炭鉱で最も大規模に行われている採掘方法であり、「露天掘炭」はこれに該当する。
 図2は陸地測量部が1930年代に発行した5万分の1地形図から坑道名等を読み取ったもので、いくつかある坑道名の中に、上記の3坑道と露天掘りの記載がある。
 石炭以外の試料は次のものがある。
 「オイルセール」は、油母頁岩(オイルシェール)を意味するとみられる。撫順炭鉱では1920年以降に大規模な露天掘りが行われ、炭層の上位に油母頁岩が厚く分布していた。これを石油代替燃料の原料として製油を行った歴史がある(飯塚:2003、北脇:1955)。
 「琥珀」は石炭にしばしば伴う天然樹脂である。「炭酸鐵鑛」は炭層中に菱鉄鉱などの酸化鉄鉱物が挟まれることがあり、やはり炭鉱に関連するものであろう。その他、頁岩と凝灰岩の岩石標本について、撫順炭鉱の炭層の上位にこれらの岩石が分布しており、撫順産とみなすことに矛盾しない。
 製品について、 「煉炭」、「コークス」とも撫順炭鉱の石炭を用いて生産された。コークスは石炭を高温処理(乾留)して生産するもので、その工程で発生するガスが撫順での化学工業に用いられ、硫安(硫酸アンモニウム)等の生産が行われた。標本のある試薬瓶には「硫酸アンモニア」、「クレオソート」、「ナフターリン」があり、これらは撫順で生産された化学製品と一致する。
 以上のことから、この標本は撫順炭鉱の石炭とそれに由来する製品類、炭層近傍の岩石等を収めたものと考えられる。

撫順炭鉱付近の地図

図2 撫順炭鉱付近の地図
陸地測量部が1930年代に作成した地形図を元に制作し、坑道名等はその地質図に記載されているもの。渾河の左岸に撫順炭鉱があり、石炭を運ぶための線路が幾本も敷かれている。図中の網掛けと白抜きは、丘陵(網掛け部)と平地(白抜き部)を示す。

満洲の石炭関連工業

 撫順炭鉱は日本が経営した時代から今日に至るまで、東アジア最大級の炭鉱で、当時の日本にとっては中国大陸進出の拠点的な存在であった。燃料資源としては石炭とオイルシェールから得られる代替石油(重油)、鉄鋼を柱とする重工業、石炭から回収したガスを用いた化学工業は、満洲の経済を支え、日本の軍事産業としても重要な存在であった。これらの産業は日本が経営した約40年の間に発展し、戦後は中国の重工業の基盤となった。
 撫順炭鉱での石炭の採掘は700年以上前から燃料用に掘られていたが、近代的な開発が始まったのは1898年にロシアが採掘権を得た後である。大規模な開発は1901年にロシアの経営下で始まり、日露戦争を機に1905年に採掘権が日本に移った。1907年から南満州鉄道株式会社(満鉄)が撫順炭鉱の経営を行い、1945年の太平洋戦争の終戦まで続けられた。
 満鉄による炭鉱の開発は石炭の採掘に限らず、撫順と同じ遼寧省内の鞍山の鉄鉱石を利用した製鉄や、石炭とオイルシェール、硫化鉄鉱などを原料とした化学製品の生産が行われた。1920年代には石炭から発電等に用いたガスを回収する過程で生じる硫酸アンモニアの回収、生産が行われた(飯塚,2003)。1933年には満鉄が筆頭株主となって満洲化学工業株式会社が設立され、1935年から硫酸アンモニウムが量産された(飯塚:2008)。硫酸アンモニウムは、石炭やオイルシェールからコークスや代替石油を生産する過程で生じるガスからイオウやアンモニアを回収、生成して生産され、満洲での農地開拓に欠かすことができない肥料(硫安)として用いられた。また、アンモニアは爆薬の原料となる硝酸の生成にも用いられることから軍需目的でも重要という側面があった。
 撫順の石炭を利用した重工業、化学工業は、日本による経営のもと、1930年代から1945年までの短期間で急速に発展した。終戦と同時に日本の関与は絶たれ、満洲地域はソ連による占有を経て中国に戻ることになった。

標本化と保管の経緯について

 標本には個々の資料に付いたラベルと物品票以外に情報がなく、製作から大森小学校で保管されるまでの経緯は不明である。資料の構成や時代背景などから推定すると、以下に述べるように1935年から1945年の間に、製品見本か研究等の参考資料として収集、整理されたことが考えられる。
 標本の資料類が採掘、生産、収集された時期について、化学製品が含まれていることから、それらが生産された期間が手がかりになる。硫酸アンモニウムの生産が1920年代に開始されており、それ以降に収集されたとみられる。1930年代初めから撫順ではオイルシェールから得られる頁岩油の生産が行われたが、標本中にそれが含まれていないことから、収集時期を1920年代と考えることもできそうである(飯塚氏私信)。
 戦後の満洲地域の動乱を考えると、1945年の終戦以降に収集、持ち帰ったことは考えにくく、1920年代から1945年までの間が資料類の収集時期とみて良さそうである。
 標本化の経緯は不明だが、撫順炭鉱を日本が経営していた時代には、本土の大学から研修や視察で訪れることがあったらしく、九州大学には学生が巡検に行った記録が残っている(井澤氏談)。炭鉱や化学工場の技術者らが本土と満洲の間を行き来することもあったと思われ、研修や視察で満洲を訪れた人物が資料類を入手して本土に持ち帰ったことが推定できる。その人物が大森町と何らかの関わりがあり、その後、小学校に寄贈したものかも知れない。
 なお、標本との関連は不明だが、大森町出身者として朝鮮銀行の総裁を務めた松原純一氏(1884〜1952年)がおり、1914年から満州の長春出張所、1927年からは大連支店に勤務している。大連での勤務から1942年の退職までの期間は、資料類が収集されたと推定される時期と重なり、戦後は大森の自宅に帰っている(白石編:2009)。朝鮮銀行は大陸での産業を経営支援した中心的な銀行であり、満鉄などの企業と関わりがあったことから考えると、松原氏は資料の入手と国内に持ち帰ることに関与し得る人物である。

標本の意義

 満洲で日本が手がけた重化学工業は、後の中国の工業発展の礎という側面もあるが、植民地支配の問題をはらんでいることから注目が低く、研究が進んでいない(峰,2006)。そのため、この標本の意義はわかりにくい。しかし、標本は満州における産業史の一端を端的に示しており、日本の満洲進出と重化学工業の発展、後の中国の産業史につながる歴史資料として意義がある。現時点で類例も見あたらず、かなり希少なものでもある。
 この標本が大森小学校で保管されてきたことは地域史的にも意義深い。大森町は16世紀に銀の量産に成功した石見銀山の鉱山町として成立した町であり、1923年前まで大森鉱山(石見銀山)が操業された。第二次世界大戦中の1941年から2年間には再開発が行われており、鉱山従事者も居住していた。鉱山が身近な地域であることは、石炭関連の標本がこの学校に納められ、長く保管されてきたことと無縁ではないだろう。

謝辞

 本標本の検討にあたり、井澤英二九州大学名誉教授には鉱業史の見知から、飯塚靖下関市立大学教授には中国経済史の見地からご助言、ご指導いただきました。
 また、大牟田市石炭産業科学館、国立科学博物館、産業技術総合研究所地質調査センターの各機関には、類似資料の存在をご確認いただきました。
 ここに記して、感謝いたします。

参考文献

北脇金治(1955)撫順式頁岩乾溜法の解析と改善 (I), 燃料協会誌,34-5,292-302.
梅野 實(1926)撫順炭礦の將來ある四事業.燃料協会誌,5-5, 453-472.
飯塚 靖(2003)満鉄撫順オイルシェール事業の企業化とその展開. アジア経済, 44-8,2-32
飯塚 靖(2008)「満洲」における化学工業の発展と軍需生産 : 満洲化学工業株式会社を中心として. 下関市立大学論集, 52,27-40.
峰 毅(2006)「満洲」化学工業の開発と新中国への継承.アジア研究 52(1), 19-43.
白石政登編(2009)『大田市人物伝 活躍した郷土の人々』

【出典】中村唯史(2021):石見銀山研究会発行「石見銀山研究」第2号

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