タイトルバナー

地層から学ぶ
大地の歴史

■静間川の河川工事「稲用の切り通し」

稲用の切り通し付近

写真1 静間町の金剛山(安楽寺)から見た稲用の切り通し付近。静間川が丘陵の間を流れる部分が切り通し。その手前側が「稲用低地」、奥側が「静間低地」(名称は、本稿での仮称)。

はじめに

 静間川の下流域に江戸時代に行われた川の付け替えに伴うとみられる切り通し河道がある。この工事に関しては記録や伝承がほとんど見当たらず、地元でも注目される機会はあまりない。本稿では、この切り通しについて現時点で把握しうる情報を整理して報告する。

地形の状況

 静間川は、大田市南東部に位置する三瓶山(標高1126m)から流れ出て日本海に注ぐ河川で、延長20.33kmである。下流域の長久町から静間町にかけてはやや広い谷底平野を作り、水田地帯になっている。当該の切り通しは水田地帯の一角にあり、右岸側から伸びる尾根とその先の独立丘陵の間を開削して河道が作られている(図1)。谷底平野はこの尾根の部分で狭窄されている。以降、便宜的に狭窄部の上流側を「稲用低地」、下流側を「静間低地」と呼ぶ。

 なお、切り通し部分の右岸の尾根頂部は、鎌倉時代に稲用領を所領した伊東祐盛氏の居城と伝わる「稲用城跡」である。

 地質的には、切り通し部分は新第三紀中新世の凝灰岩からなる。白色で均質な凝灰岩で、切り通し部分を含め、周辺には採石の痕跡が残る。その石は当地の字から「閑田石」と呼ばれ、近隣の石垣等に使われているほか、社寺の石塔にもこの石が使われている。

 行政区分としては、現在は長久町、静間町とも大田市の一部であるが、古くは長久町が安濃郡、静間町が邇摩郡で、当該の切り通しから下流では川が郡境に相当する。現在の町境は川に沿っており、川の付け替えに伴い郡を超えた土地の交換があったと推定される。

稲用低地、静間低地の微地形

図1 稲用低地から静間低地にかけての地形と微地形。破線が比較的明瞭な旧河道、網掛けはかつて沼沢地的環境だったと推定される部分。川の付け替え以前の静間川は、稲用低地の中央から東寄りを流れ、西の山際を流れていた銀山川と合流後、静間低地を蛇行して流れていたとみられる。

旧地形の推定

 図1に、1947年にGHQが撮影した空中写真と現地形を元に推定した平野部の微地形(旧河道、小崖等)を示している。稲用低地は静間川の現河道にほぼ平行する比高1m内外の小崖があり、東側が高く、西側が低い。1947年時点の圃場区画を見ると、小崖の東側は微地形や道に沿う不規則な形、西側は直線的に整備されている。稲用城跡がある尾根の下に旧河道とみられる明瞭な微低地がある。稲用地区の伝承などを整理した川上(1974)によると、以前の静間川は稲用低地の東寄りを流れ、現静間川の位置に支流の銀山川が流れていたと伝承されているとのことである。川の付け替え以前の静間川は、小崖の西側をある程度蛇行しながら流れたと想定され、稲用城跡下の低地部分に至っていたと推定される。

 稲用低地と静間低地を分ける狭窄部では尾根の先端をかすめる形で微低地が南北に延び、明瞭な旧河道地形を示す。1899年に陸軍測地部が作成した地勢図には、旧河道部分に池が記されている。地元の90才代の方によると、狭窄部の左岸にある明顕寺の前に池があったことを記憶しており、旧河道の一部が池として残されたものとみられる。

 狭窄部の北側の静間低地は相対的に土地が低く沼沢地的な環境が広がっていたとみられる。現在、静間駅の南側が広い水田になっているが、旧河道はこの部分を大きく蛇行し、低地の西端を流れる笹川の近くまで曲流していた時期もあると推定される。一帯は1980年代頃まで河川の氾濫が生じやすい土地で、相対的な低地であることに加えて、三瓶川との合流点が近いために増水しやすい条件であった。

 静間低地の北で静間川は三瓶川と合流し、西流した後、北に向きを変えて日本海に至る。その河道は、江戸時代までは海の手前で東に向きを変え、静間町と鳥井町の境に位置するデンキ山あたりで海に注いでいたと伝わり、「川替え」によって現在の形になったという。

河川の付け替えと切り通し

 平野部での川の付け替えは、江戸時代から近代にかけて各地で盛んに行われ、その目的は治水と水田開発であった。静間川の付け替えでは、稲用低地では低地の中央よりにあった河道を南西側の丘陵近くに替えている。低地の南西側は氾濫原が広がり、そこを静間川と銀山川が蛇行しながら流れていたことが予想され、これを1本の河道にして低地の端に寄せることで広い水田を確保する意図がうかがわれる。

 稲用低地と静間低地の間の狭窄部では、尾根を迂回して流れていた川を、尾根を切って付け替えている。元の河道位置では、静間駅南側の低地は常に排水効率が悪い沼沢地的な環境である。その条件を改善するために、相対的に高い尾根部分から、静間低地東側のやや高い位置に直線的で勾配を付けることができる流路を設けることで排水効率を向上して氾濫を防ぐとともに沼沢地を干陸化して水田化したことが推定される。あわせて、三瓶川との合流点を最大限下流側に固定したことが予想される。

 この付け替えでは、切り通し部分がもともと低地面との高低差が小さく、その岩盤が軟質で加工しやすい凝灰岩だったことが条件的に恵まれていたと考えられる。現地形を見ると、切り通し部分の東側尾根は河道に面した斜面が急崖で大きく掘削したように見えるが、1947年の空中写真を見ると切り通し部分の河道は基本的に原地形に沿っており、掘削量は少なかったと推定される。独立丘陵となった西側尾根末端の一部に岩盤が露出し、上面を掘削して平らにしたとみられる箇所があるが、この地点以外では河床に岩盤が露出していないことも掘削量の少なさを示すとみられる。その根拠として、1951年から行われた河川改修後の河道形状がある。この河川改修では、現在の河道規模に変更されており、そのために切り通し部分の下流にある尾根の先端が掘削されている(図2)。その箇所では、平らに掘削された岩盤が河床に露出し、減水時には露出する状況である。近代の河川改修でもこの程度の掘削量で河道幅を確保している。それ以前の切り通し部分に岩盤の露出部分が少ないことは、掘削量が少なかったことを反映していると推定できる。

河川改修前後での切り通し部分の地形変化

図2 1950年代に行われた河川改修前(1947年)と改修後(2021年時点の地形)での切り通し部分の堤防位置と地形の変化。網掛け部分は岩盤を人為的に削って河床にしている部分。河川改修以前は岩盤を削った範囲は限られる。水面下まで深く掘削した可能性も否定できないものの、人工水路的な形状ではなく、切り通しに伴う掘削はわずかだったとみられる。河川改修後、切り通しの下流で岩盤を掘削して河道を広げた状況が認められる。

付け替えが行われた時期

 川の付け替えは大規模な土木工事であり、当該の付け替えでは郡の間での土地の交換を伴うことから、地元で語り継がれそうな事案であるが、記録は極めて限られている。1899年の地勢図では現在の位置に河道があり、工事が行われたのはそれ以前である。川上(1974)は伝聞として、土江の旧家にあった文書に元禄(1688〜1704年)の頃に銀山川と静間川を付け替えた旨があることを記している。江戸時代には治水と併せて新田開発を目的とした川の付け替えが盛んに行われており、元禄年間に行われたということはある程度信頼できそうである。
 また、静間川の河口部で元禄年間に河川改修を行ったとされる。これは、1674年に大洪水があり、河口付近が荒廃した後、元禄末頃になって現在の位置に河道を付け替えたというもので(宮脇,1979)、同時期に稲用付近と河口部の河川改修を行ったことになる。

付け替えと地割の関係

 稲用低地から静間低地の範囲は、長久町稲用、長久町延里、長久町土江、静間町の地割に分かれている(図3)。江戸時代の旧村名では、安濃郡の稲用村、延里村、土江村、邇摩郡の静間村がそれぞれに相当する。

 現在の地割の境は基本的に現河道に従っているが、一部に旧河道の名残と見られる箇所がある。長久町稲用は静間川の東岸側が中心であるが、切り通し上流側の西岸に飛び地的に稲用が続いている。字が「向川原」で、川の付け替え後に付けられた字と考えられる。向川原の上流は、現河道が稲用と延里の境になっており、現在より東にあったと想定される旧河道には沿っていない。銀山川の旧河道が稲用と延里の境であれば、付け替え以前から両地区の境は現在とほぼ同じだったことになる。

 静間低地側では、図2に示したA部分が飛び地的に長久町土江になっている他は、三瓶川との合流点付近まで現河道が長久町土江と静間町の境になっている。旧河道が西側にあったことを考えると、この地割は川の付け替え後に整理した形である可能性が高い。切り通しの西岸にあたる丘陵部分などは、旧河道に対して東岸にあたる。ここでは郡境を越えて土地のやり取りがあった可能性が高い。河口の付け替え工事では、水利の問題から鳥井村民が反対するが、静間町の有力者だった前原氏が大森代官所へ働きかけて工事が実現したということから、稲用の川の付け替えでも代官が関与した可能性が高いと思われる。

 土地のやり取りを示す具体的な記録の有無は不明だが、稲用村と静間村の間での土地のやり取りを語る「稲用殿様」(板木,1982)という昔話があることは興味深い。

稲用低地、静間低地の地割

図3 調査地一帯の地割。基本的に静間川の現河道を境に地区が分けられている。一部、川の付け替え前の地割を残しているものの、かなりの部分では付け替え時に地割の整理が行われ、土地のやり取りがあったと推定される。

おわりに

 稲用の切り通しを伴う川の付け替え工事は、記録がほとんど残っておらず注目されることがないが、近代以前の大田市域では最大規模の河川工事である。尾根部に河道を通して河川勾配を確保して洪水防止を図るとともに下流部の沼沢地を水田開発したと見られる構造で、高度な治水計画のもとに実施された工事と推定される。近世の土木技術をうかがい知る上で重要な「遺跡」と言えるだろう。

 この工事は江戸時代に実施された可能性が高い。当地は江戸幕府直轄の石見銀山領であったことから、大森代官所が工事に関与したことが想像される。歴史的な情報は現時点では限られるが、この付け替え事業の意義を指摘することで、今後、新たな情報が得られることを期待したい。

参考資料

川上時義(1974)稲用の歴史と史跡.
島根県(2016)静間川水系河川整備基本方針.
板木律子編(1982)長久の昔ばなし.
宮脇達二郎(1979)鳥井村物語.

稲用の切り通し付近

写真2 下流側から見た切り通し部分。両岸とも急崖になっているが、1950年代の河川改修時に掘削された影響が大きく、川の付け替え時の形状はよく分からない。

稲用の切り通し付近

写真3 左岸(西岸)側から右岸(東岸)側を見る。現在の水面は下流にある堰堤のために若干高くなっているが、その分を差し引いても岩盤を掘削して作った河道の雰囲気ではなく、元々かなり低かった鞍部を使って川の付け替えを行ったことが推定される。

稲用の切り通し付近

写真4 切り通しの下流部の河床。岩盤を削って平坦な河床を作り、そこに用水取水のためとみられる直線水路が作られている。この地形は1950年代の河川改修時に作られたもの。

稲用の「閑田石」の採石跡

写真5 切り通し部の尾根にある「閑田石」の採石跡。付近に何箇所も採石の痕跡があり、かなりの量が採られたとみられる。緻密な白色凝灰岩で、近隣の石垣のほか、石塔などの製品にもこれを使ったとみられるものがある。柔らかく加工しやすい石のため、切り通しに伴う掘削は、掘削土量が少ないこともあって比較的容易だったと推定される。

inserted by FC2 system