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大田の地形と地質

■ジオ・サイト石見大田

1.日本海の拡大と日本列島

大田市五十猛海岸

大田市五十猛町の海岸に打ち寄せる日本海の波。

 大地は常に動き、その姿を変えています。長い地球の歴史からみれば、日本列島の現在の姿も一瞬の形。今、この一瞬にも、地形は刻々と変化を続けています。
 恐竜が栄えていた中生代、ユーラシア大陸の東には太平洋の大海原が広がっていました。日本列島はまだなかったのです。
 約2500万年前、大陸の端で火山活動がはじまり、大地が少しずつ引き裂かれました。大地の割れ目はやがて湖になり、海とつながり、細長く深い湾になったのでし。湾の海底では海底火山活動が続き、海はさらに広がって、日本海が形成されました。約1500万年前、日本海は現在とほぼ同じ広さになり、引き裂かれた大地が日本列島の土台となったのです。

2.姿は木でも木ではない

大田市仁摩町の仁万の珪化木

大田市仁摩町の「仁万の珪化木」。太さでは国内でも最大級の珪化木。

 珪化木の姿は樹木そのものです。断面には年輪がくっりきと残っていることもあります。
 ところが、手を触れてみるとひんやりとして、硬く緻密な岩石であることに気づきます。樹木はすっかり石に変わっているのです。
 樹木が埋もれると、木の成分は少しずつ地下水に溶け出して失われていきます。長い時間が経つと、木は形を失い、かすかな痕跡をとどめるのみになってしまうのです。ところが、温泉水のように岩石の成分(二酸化珪素)を溶かし込んだ水が地層中に染みこむと、木は石に変わります。失われた木の成分の代わりに岩石の成分が入り込み、そこで結晶にかわります。この作用が進むと、木はメノウやオパールとほぼ同じ物質に置き換えられてしまうのです。

3.三瓶山の“大地創造”

大田市五十猛町から見た三瓶山

大田市五十猛町の大岬鼻からみた三瓶山。

 出雲國風土記が伝える国引き神話で、国を留めた杭に見立てられた三瓶山は、自然の歴史においても、出雲の大地を作り上げる役割を果たしました。
 弥生時代の集落遺跡が集中し、古代出雲の中心地のひとつとされる出雲平野。縄文時代の前半、その場所には入り海が静かに横たわっていました。
 入り海の風景は、三瓶火山の2回の噴火によって一変しました。5500年前と4000年前の2回。三瓶火山の噴火としてはそれほど大きなものではありませんでしたが、山麓にもたらされた噴出物の量は膨大なものでした。その土砂は三瓶山麓の支流から、出雲平野を流れる神戸川にもたらされ、幾度もの洪水となりながら入り海まで運ばれ、海を埋め、平野を作り上げたのです。
 弥生時代の生活の場となった大地の創造。まるで国引き神話のようではありませんか。

4.銀山隆盛の原動力「福石」

石見銀山の鉱石「福石」

石見銀山仙ノ山の本谷地区で採掘された鉱石「福石」。

 16世紀に本格的な開発がはじまった石見銀山は、一気に世界有数の銀鉱山へと発展し、大航海時代の世界に大きな影響力を及ぼしました。
 その原動力となったのが、福石と呼ばれる鉱石の存在と考えられます。それはくすんだ印象のただの石。約160万年前に火山が噴出した火山灰と溶岩のかけらが固結した石に、銀の鉱物が細かな粒となってちりばめられたものです。
 福石は鉱石としては柔らかい石です。たがねと金槌で掘り進んだ時代には、石が柔らかければ、その分たくさんの鉱石を掘り出すことができます。
 しかも、福石の成分は、当時の製錬技術の比較的簡単な工程で銀を取り出すことができるものでした。鉱石の成分によって、必要な工程は異なるのです。
 掘り出しやすく、銀を取り出しやすかった福石。この石の存在こそ、鉱山の規模としては決して大きくない石見銀山を、世界の大銀山へと導いたのです。

5.黒鉱と都市鉱山

大田市五十猛町の石見鉱山廃坑

石こうと黒鉱を採掘した大田市五十猛町の石見鉱山の廃坑。

 大田市にいくつかある石こう鉱床は、黒鉱鉱床という日本列島固有の鉱床に伴うものです。黒鉱鉱床は、拡大しつつあった日本海の海底で生じた火山活動で形成されました。海底に噴出した高温の熱水から、様々な成分が沈殿して、銅、鉛、亜鉛、金、銀などが混じった黒い鉱石(黒鉱)と、石こうからなる鉱床ができたのです。
 様々な成分を含んだ黒鉱は、製錬が難しい鉱石でした。入り混じった成分から、欲しい成分だけを取り出すことが難しく、それが利用されるようになったのは明治時代以降でした。
 現在、黒鉱の製錬技術は思いがけない形で応用されています。都市鉱山と呼ばれる、電子部品の廃材から有用な金属を回収する技術です。おかげで、日本の都市鉱山の価値は世界一と言われています。

6.砂が生み出す工業製品

大田市仁摩町琴ヶ浜海岸

大田市仁摩町琴ヶ浜海岸の砂浜。歩くと音を奏でる鳴き砂の浜。

 大田市仁摩町の琴ヶ浜海岸の砂は大部分が石英という鉱物です。石英からなる砂は珪砂と呼ばれ、工業に利用されます。
 大田市温泉津町には珪砂鉱山があります。100万年以上前の海岸に堆積した砂の地層を採取しているのです。その砂には、大きな用途がふたつあります。
 ひとつはガラスの原料。珪砂を溶かして急冷するとガラスになります。温泉津産の珪砂は、自動車ガラスなどに使われています。
 もうひとつの用途は、溶かした金属を流し込んで、金属製品を作るための鋳型です。島根県は鋳物業が盛んで、自動車部品など、各種の機械部品が生産されています。もしかしたら、あなたの家の自動車に、温泉津の珪砂で作ったガラスと、部品が使われているかも知れません。

7.波が作る海岸地形

大田市静間海岸の獅子岩

大田市静間海岸の「獅子岩」。獅子を思わせる形に岩が侵食されている。

 波の力は岩石を削り、様々な造形を作り出します。
 岩石海岸の波打ち際にテラスのように広がる地形は波食台。波の力は海面より高い位置では強く働くけれど、海面下では岩石を削る力がありません。そのため、波が崖を削っていった後ろに、平らなテラスが残されます。
 テラスのくぼみに硬い石が入り込むと、丸く深い穴を開けることがあります。おう穴という小さな地形です。
 テラスの先にある崖は、しばしば垂直に近い急角度で切り立っています。崖の裾を波が削り、上部が不安定になると崩落し、それを繰り返して切り立った崖ができあがります。
 波の力は、崖に洞窟を作ることもあります。波が岩盤の割れ目や弱い部分に沿って岩を削り、大小の洞窟を作り上げるのです。
 これらの造形が、海岸の風景をその場所ごとに独特なものにしています。

8.掛戸をめぐる歴史

大田市久手町の掛戸松島

14世紀に開削されたと伝わる掛戸の切り通しと掛戸松島。

 大田市久手町の掛戸は、かつてその陸側に波根湖という湖が広がっていました。地元に伝わる伝承では、掛戸は、洪水時に波根湖の水を排水するために、14世紀に岩山を削って作った切り通しと伝わります。
 波根湖は、中世以前は港として使われていたようです。古代の海上交易を物語るように、波根湖を見下ろす丘陵には白鳳時代の寺院があり、その大きな礎石が発掘されています。16世紀に石見銀山を巡って出雲の尼子氏と安芸の毛利氏が争奪戦をくり広げた時、尼子の水軍は波根湖を拠点とし、掛戸の東の岩山に陣を構えたと伝わります。
 歴史の舞台となった波根湖は、第二次世界大戦後の食糧難解消を目的に干拓され、1950年に水田に姿を変えました。現在、掛戸は波根湖干拓地を流れる大原川の河口になっています。

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