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地層から学ぶ
大田市の大地

■干拓で消えた湖・波根湖

波根湖

南側から見た旧波根湖「波根湖干拓地」 。中央奥側の、山地が途切れた部分が掛戸と呼ばれる人工水路。

はじめに

 大田市の東部、久手町から波根町にわたり、国道9号線と山陰本線の間に低平な水田が広がります。

 立ち止まって眺めると、閉ざされた浅いくぼ地に見え、夜などはそこが海であるかのように暗くひっそりしています。そのように見えるのも無理ないことで、この一帯は海に通じていた湖の水を抜き、水田に変えた干拓地なのです。この場所にあった湖は波根湖という名で、かつては湖中に浮かぶように旅館の部屋が建てられたように、大田地域の景勝地だった時期もありました。

 また、さかのぼれば戦国時代に石見銀山の領有をめぐって尼子氏と毛利氏が争奪戦を繰り広げた際、尼子氏は波根湖を拠点としたとも伝わります。

 時の経過とともに忘れられつつある波根湖。ここには、どんな湖が存在していたのでしょうか。

1.波根湖の誕生

 波根湖は、湾の入口に砂州が発達することによって、湾の奥の部分が海から隔てられてできた湖でした。湖面の高度は海面とほぼ同じで、海とつながる水路から海水が湖に流入するため、淡水と海水が混じる汽水の環境でした。

 砂州などによって湾が閉ざされてできた湖は、潟湖(せきこ)と呼ばれます。山陰海岸には中海、宍道湖をはじめ、いくつかの潟湖があります。全国的にも、霞ヶ浦、サロマ湖、浜名湖など、大小さまざまな潟湖があります。これらの潟湖の形成には、2万年前以降の気候変化が深く関わっています。波根湖も同様です。

 湖の形成に気候変化が関わっているとは、少し意外な気がするかも知れません。潟湖と気候変化には次のような関係があるのです。

 地球は、過去数百万年間に、寒冷な時期(氷期)と温暖な時期(間氷期)を幾度も繰り返してきました。氷期は10数万年続き、その間に2万年程度の間氷期があります。現在は、1万1000年前に終わった最終氷期後の間氷期です。

 気温が低下する氷期には、大陸上に氷床が発達することによって海水量が減少し、海面低下が生じます。最終氷期中で最も寒かった2万年前頃は、海面が100m前後低下し、海岸線は現在よりずっと沖側にありました。

 波根湖の場所には、そこを流れる大原川、波根川が谷を形成し、その最深部は海面下40mの深さに達します。2万年前は、その深さを川が流れていたのです。1万1000年前に氷期が終わると、急速に温暖化し、海面が急上昇しました。海岸線が陸側に入り込み、海が大きく広がりました。この現象は、「縄文海進」と呼ばれることがあります。

 波根湖のあたりが海に変わり始めたのは1万年前頃でした。海面の上昇にあわせて、砂州が発達したため、湾が形成され始めた頃から、波根湖は潟湖の状態だったと思われます。約7000年前に海面は現在とほぼ同じ高さまで上昇し、海域は最大になりました。この頃の波根湖は、干拓直前の2倍以上の広さがありました。水深は20m以上ありました。その後、川が運ぶ土砂によって、湖は少しずつ浅く、狭くなり、干拓直前の水深は約1mでした。

過去17万年間の海面変化

過去約17万年間の海水準変動曲線。氷期と間氷期の繰り返しに対応して、海面の高さは大きく変化してきました。

2.砂州が湾をふさぐ

 湾の入口部分では、海流と波の力、供給される砂の量のバランスによって、細く伸びる砂州が形成されることがあります。潟湖の多くは、砂州によって海から隔てられたものです。

 波根湖を海から隔てる役割をしたのも砂州で、JR波根駅を中心とした波根の町並みは、その高まりの上にあります。波根駅あたりから波根湖干拓地を眺めると、そこが一段高いことに気付くでしょう。

 また、掛戸がある岩山を挟んで、久手の町並みも砂州の上にあります。こちらは、波根の砂州よりもさらに高く、最終氷期前の間氷期に形成された古い砂州が土台になっているものと思われます。

湾口をふさぐ砂州としては、米子から境港にかけて延び、中海を海から隔てる弓ヶ浜が大きく、全国でも有数の規模です。名勝として名高い天橋立も、阿蘇海という入り江の入口をふさぐ砂州です。

 最終氷期が終わって海面が上昇する時、一般的に、砂州も早い時点で湾の入口に形成されます。波根湖では、ボーリング調査から、谷に海が浸入し始めた頃から、半ば閉ざされた水域だったと推定されます。広い中海でも、同様に海が浸入を始めた時点から内湾環境でした。

 湾の入口をしっかりふさぎながらも、大きな嵐や津波の時には砂州は流されて形を変えることがあります。それによって、潟湖の環境が変化することもあります。波根湖の場合は、環境が長期間安定していたようで、砂州も比較的安定的に存在していたと思われます。

 潟湖と海の間に発達する砂州には、自然の水路が形成されます。潟湖に流れ込む川の水の出口であり、海水がそこから進入してくる入口でもあります。この水路は、同じ場所に安定的に存在することもあれば、嵐などで頻繁に位置を変えることもあります。波根湖の場合は、掛戸の東側の山、鰐走城が築かれたと伝わる岩山と、柳瀬の間に水路があったらしく、古い字などにその名残があります。

 掛戸の切り通し水路ができると、砂州部分の水路は水の出口としての役割を失い、自然にふさがれたと考えられます。出て行く水の流れがある時には、その力によって水路が開きますが、他に出口ができると砂の堆積によってふさがれます。川の河口が、渇水期に砂州でふさがれることがあることと同じです。

波根湖の地形変化

最終氷期以降の海面上昇によって谷が海没して湾が形成されました。海面上昇と同時に湾の入口部分には砂州が発達し、波根湖は形成初期からほぼ閉ざされた潟湖でした。

3.汽水の湖

 淡水と海水が混じった水を汽水と言います。波根湖には、大原川と波根川の水が流れ込み、砂州にあった水の出口からは海水が入り込むことがあり、汽水の環境でした。汽水の環境は、川の河口付近では常に存在し、潟湖にも汽水のものが多くあります。中海から宍道湖へつながる水域は、国内で最大級の汽水の水域(汽水域)です。

 気水域は淡水と海水の混じる加減によって塩分濃度が変化し、移ろいやすい不安定な環境でもあります。汽水域の魚類は海水魚と淡水魚が混在することがありますが、移動が苦手な貝などの底生の生物は特定の塩分濃度だけに成育する種が独占的に生息する場合があります。宍道湖で、ヤマトシジミが圧倒的に多く生息しているのもその例のひとつです。

 汽水域の淡水と海水は、水域全体で均質に混じり合っていることはまれで、両者はしばしば明瞭な境をもって接しています。潟湖では、軽い淡水が上に、重い海水が下になって層を作り、波でかき乱されない限り、長時間そのままの形を保ちます。海水と淡水は、意外なほどに混じり合わず、その境目は「塩分躍層」と呼ばれます。波根湖では、淡水と海水の層構造が乱されにくく、底近くに滞った海水は無酸素の水になり、生物が住めなかったようです。そのことは、後で紹介する地層の縞模様からわかります。

 宍道湖や中海でも、波が起きない無風状態の天候が続くと、低層に入り込んだ海水中の酸素が消費されて、海水は無酸素〜貧酸素水になり、時折、魚類の大量死が発生することがあります。

 河川の河口付近では、地形や潮汐によって淡水と海水の混合の具合が変化します。広島県に流れを発し、島根県江津市で日本海に注ぐ江の川の場合、下流域で河床の高さが海面高度より低いことが特徴です。ここでは、河口から10km程度上流まで表層を流れる河川水の下に海水が入り込んでいます。→江の川の塩水くさび

 江の川が注ぐ日本海は、潮汐差が小さいために、安定的に海水が河道に入り込みます。一方、瀬戸内海のように潮位変化が大きい条件では、満潮時には海水がそ上し、干潮時には海水が沖側へ逃げるという変化を繰り返します。潮汐差が大きい場合、汽水域の環境は1日の中でも大きく変化します。

汽水湖のイメージ

汽水の潟湖は、砂州部分に開いた水路を通じて淡水と海水の出入りがあります。潟湖に入り込んだ海水は淡水の下に潜り込み、塩分躍層という層構造を作ります。波などの動きで乱されると躍層は崩れ、淡水と海水が混じりますが、静かな条件では層構造が長時間維持されます。

4.不思議な縞模様

 1994年に、島根大学の研究室が波根湖のボーリング調査を行いました。元の湖底に堆積した泥を調べ、この湖の環境がどのように変化してきたかを明らかにするためです。

 波根湖の湖底には細かな泥がたまり続け、その厚さは40mにも達します。この泥を、乱さないように地下深くから抜き取り、調べるのです。深さ20mまでのボーリング試料を採取し、X線写真を撮影すると、泥の地層にははっきりとした縞模様があることがわかりました。X線を良く通す層と通し難い層が2mm前後の厚さで交互に繰り返されているのです。

 縞の部分を顕微鏡で観察すると、X線を良く通す層はほとんどがプランクトンの遺骸でできていました。通しにくい層は、粘土分が多い泥です。このような縞模様は、中海や宍道湖では見つかっていませんでした。当時、福井県の水月湖でこのような縞模様が見つかっていて、プランクトンが大発生する夏と、少ない冬の季節変化を反映したものであることが明らかになっていました。季節変化を反映した縞模様は、樹木の年輪のようであることから、年縞(ねんこう)と呼ばれます。波根湖で見つかった縞模様は、全国でも福井県の水月湖に次いで数例目の年縞でした。

 このような縞模様ができるためには、ある条件が必要です。それは、いったん湖の底に溜まった泥が、かき乱されずに重なり続けることです。普通、湖の底には様々な生物が生息しています。魚が底の泥をかき乱したり、貝などが泥を掘って生活するため、大なり小なり地層はかく乱されます。

 また、波の影響で底の泥がまき上げられることもあります。波根湖では、このようなことが生じない、特殊な条件があったようです。波根湖の場合、湖に入り込んだ海水が、湖底に滞って動かなくなる鍋底状の地形だったと推定されます。海と通じる水路が狭く、水の行き来が少なく、波の力が湖底まで及ばない程度の水深があったのです。

 湖面近くには川からの淡水があり、湖底の海水とははっきりと層が分かれてなかなか混じりあいません。この状態になると、湖底の海水は酸素を含まない水になり、生物が生息できないのです。かつての波根湖は、湖底には生物がほとんど生息しておらず、静かに泥がたまり続けたために年縞が残されたのです。

 3000年前頃になって、水深が浅くなると波の力が及ぶようになり、年縞は残されなくなりました。年縞がない部分には、貝の化石などが含まれていて、生物が生息していたことがわかります。

波根湖堆積層の年稿

波根湖干拓地で採取されたボーリングコアのX線写真。深さ18mからの約85cm分。明瞭な濃淡の縞模様が年稿。-18.25mとした左から2番目の画像の下部約2cmの黒い部分は、約7300年前に九州南海中の「鬼界火山」が大噴火した際に噴出された火山灰、「鬼界アカホヤ火山灰」の地層です。

5.九州の火山が噴出した火山灰

 先に紹介したボーリングを詳しく調べると、厚さ2cmほどの火山灰層が縞模様が発達した泥の層に挟まれていました。この火山灰を水で洗い、粒を顕微鏡で観察すると、薄いガラスのコップをばらばらに砕いたかけらのような透明な粒が大半であることがわかりました。肉厚の部分はビール瓶のように茶色をしています。これは、火山ガラスというもので、爆発的な噴火でマグマが一気に空中に放出され、急冷された時にできるものです。

 火山ガラスが、薄いガラスコップを割ったような形状で、茶色を帯びていることを特徴とする火山灰に、約7300年前に鹿児島県の南の海中にある鬼界火山が巨大噴火を起こした時に噴出した「鬼界アカホヤ火山灰」があります。この火山灰は、日本のほぼ全土に降りつもっていて、地層の年代を示す目印として良く知られています。地層中にアカホヤ火山灰が挟まれていたら、その部分は7300年前に堆積した地層というわけです。

 山陰地方では、松江市の西川津遺跡で最初に発見され、その後、宍道湖や中海の湖底、出雲平野の地下などで次々に発見されました。島根県でそれまでに見つかっていたアカホヤ火山灰の地層の厚さは1〜2cmで、波根湖で見つかったものもそれと同じくらいでした。分析機器を用いて波根湖で見つかった火山ガラスの成分を調べたところ、アカホヤ火山灰の成分とぴたりと一致し、これがアカホヤ火山灰であることが確認されました。

 火山ガラスの成分は、火山毎に、そして同じ火山でも噴出の時期によって違いがあり、これを調べることで供給源の火山と噴出時期を高い精度で特定できます。日本列島に広く分布している火山灰は、すでに詳しく調べられていて、成分が明らかになっているので、比較することでどれかわかるという仕組みです。犯罪調査などでDNAを調べることと似ています。このように、火山灰が詳しく調べられているのは、火山灰層が地層調査や遺跡の発掘調査で、地層の年代を知る手がかりとして有効だからです。波根湖のボーリング調査でも。アカホヤ火山灰層が見つかったことで、7300年前という年代の目印が得られたのです。

 7300年前頃は、最終氷期以降の海面上昇にともなって、海が最も陸側にまで拡大した時期にあたり、アカホヤ火山灰層を挟む前後の地層は、波根湖が最も広がっていた時代に堆積したことがわかりました。

6.鬱陵島から流れ着いた軽石

 波根駅の近くで掘削されたボーリング試料には、波根湖の湖底に厚く堆積した泥の層の一番下、正確には、湖底の泥に続く、浅い湿地に堆積した植物質の泥の部分に、軽石の層が挟まれていました。軽石とは、火山の噴出物で、マグマが泡立った状態で固まったものです。昔ながらのポン菓子は米をふくらませたものですが、軽石はこれと良く似ています。ポン菓子は圧力をかけた状態で米を熱し、一気に圧を抜くと米の中の水が沸騰して米をふくらませます。軽石は、高圧の地下から一気に放出されたマグマ中の水などが沸騰してふくらんだものです。

 さて、ボーリング試料から見つかった軽石は、大きなものは小豆くらいの大きさで、角が取れて丸みを帯びたものでした。その軽石が1cmほどの層をなして、びっしりとつまっていたのです。

 当初、波根湖に近い三瓶火山の噴出物と推定されました。この軽石も成分分析を行ったところ、予想に反して三瓶火山由来ではなく、日本列島のものですらないという結果が得られました。成分から大陸の火山に由来するものと考えられたのです。

 日本列島の火山は、その噴出物の成分が細かく調べられていて、比較することが可能ですが、日本以外の火山のものは供給源が分からない可能性があります。ところが、日本に分布している火山灰のデータに、波根湖の軽石と極めて近いものがありました。その火山灰は、鬱陵隠岐火山灰と呼ばれるもので、約1万年前に韓国沖の鬱陵火山(鬱陵島)が噴出し、日本列島にも飛んできたものです。

 そこで、鬱陵火山の噴出物と比較分析してみると鬱陵隠岐火山灰と同時代に噴出した火砕流の軽石と一致することが判明しました。波根湖で発見された軽石は、鬱陵火山が噴出し、多量に日本海に流れ出たものの一部が流れ着いたものだったのです。鬱陵火山から流れ着いた軽石は、国内の他地域では見つかっておらず、これが初めての発見でした。

 この軽石には、その層が挟まれている高さが、約1万年前の海面の高さを示す証拠であるという意義もあります。その高さは標高-16mで、鬱陵火山が噴火した時に、そこに海面があったということを示しています。気候変化にともなう海面変化の歴史を解明する上でも、重要な発見だったのです。

7.掛戸開削

 現在、波根湖干拓地を流れる大原川と波根川の水は、干拓地の北側の岩山を開削した「掛戸」を経て、日本海へ流れ出ています。干拓以前の波根湖は、掛戸を通じて淡水と海水の行き来がありました。

 もともと、波根湖は砂州の一部に開いていた水路で海に通じていました。しかし、河川の水量が少ない時期には砂州に開いた水路は閉ざされがちになります。その状態で大雨が降ると湖が増水し、水害をもたらすことがあったようです。そのため治水を目的に掛戸の開削が行われたと伝わります。

 伝承では、14世紀初頭に地域の有力者であった有馬氏が2代にわたって掛戸の開削工事を手がけ、これを完成させたとされます。

 ところで、中世の波根湖は港として機能したと考えられています。波根湖に面して港を示す「大津」の地名があることや、中世の中国の文書に石見の港として波根と推定される地名があることがその理由です。

 それより古い古代には波根湖を見下ろす南東の高台に、高い塔をともなう白鳳時代の寺院「天王平廃寺」が存在しています。同時代の塔をともなう寺院として、彩色壁画が描かれていた鳥取県の上淀廃寺や浜田市の下府廃寺があり、いずれも潟湖に面した高台に立地しています。これらは、山陰海岸の潟湖が交流拠点として機能したことを物語るもので、古代の波根湖が港として機能していたことをうかがわせます。

 また、16世紀に石見銀山の争奪戦を繰り広げた尼子氏は、波根湖を水軍の拠点にしたとも言われます。

 港として機能するためには、船が出入りする水路が必要です。しかし、掛戸は浅く船の出入りはできません。掛戸を開削したことで淡水の流出経路が確保され、砂州部分にあった水路はそれまで以上に塞がり気味になったことは確実です。ある程度大きな船が出入りする時代は14世紀までだったのか、あるいは砂州部分の水路を管理して維持し続けたのか、いずれかだったのでしょう。

波根湖

波根湖からの排水路として切り開かれたと伝わる掛戸。掛戸の床面は海面高度とほぼおなじで、排水のための水路がその床面に掘り下げられている。

8.波根湖干拓事業

 江戸時代初頭の波根湖は、東西1.6km、南北0.8kmの広さで、水深は最大で3m前後でした。広さの割に浅く、当時から埋め立てによる水田開発が行われました。1762年に、石見銀山領の代官であった川崎平右衛門が波根湖の新田開発と掛戸水路の改修を実施し、その後も代々に渡って新田開発が行われました。

 現在の干拓事業は、第二次世界大戦中の1941年に計画されたのが始まりです。それまでの水田開発が埋め立てによって陸地を広げたことに対し、干拓は堤防で水の流入を遮断し、ポンプで水を排水し湖底を陸化する事業です。波根湖の湖面は海面よりも低い土地を作る計画でした。しかし、この事業は1943年に着工したものの、同年の水害や戦時下の社会事情などの影響によっていったん中断され、そのまま終戦を迎えました。

 戦後、食料難の解消と、農業就業者を増やす目的で波根湖干拓事業が再開されました。1948年から干拓工事が行われ、1950年に干陸化、1951年に干拓工事が終了しました。

 干拓後、水田として利用が始まったものの、田の水を抜くと酸性障害により収穫がままらない状況が発生するようになりました。波根湖は海水が流入する環境であったため、底の泥には、海水中に含まれていた硫酸イオンが黄鉄鉱の形で固定されています。これが酸化すると強い酸性となり、稲の発育を阻害することになります。

 酸性障害への対策には何年にもわたる苦労を要しました。多量の石灰を投入して中和することで、安定的に米を生産できるようになりましたが、現在でも干拓地の土壌には多量の硫化物が存在しており、渇水時には酸性障害が発生することがあります。

 波根湖の干拓事業は、汽水の潟湖を干拓した事業としては国内の先進例で、酸性障害などの土壌に関する事例に関する調査とその対策は、後に全国各地で実施された干拓事業に応用され、波根湖と同じように汽水湖を干陸化した八郎潟干拓でも参考とされました。

9.地盤沈下

 波根湖干拓地の地盤は、湖底に細かな泥が厚く堆積してできた超軟弱地盤です。そのため、地盤沈下の問題が現在も引き続いています。

 干拓地の地盤の泥は、プランクトンの遺骸を多量に含んでいるために密度が小さく、泥の重量に対して1.5倍程度の水を含んでいます。そのため、荷重がかかると泥の中の水が逃げ出し、その分体積が小さくなって地盤が沈下してしまうのです。干拓地内には縦横に道路が通っていますが、建設時には水田面よりも高く盛土して作られています。ところが、何年か経つと、地盤沈下によって盛土部分が沈み、水田面との差がほとんどなくなってしまいます。用水路にかかる橋は、硬い地盤まで基礎を打って作られているために沈まず、沈んでしまった道路と橋の間に段差が生じます。

 干拓地内を歩くと、橋だけが高いことに気付きます。地盤沈下は、堤防などの構造物にも影響を与え、不均等な沈下が生じた場所では、コンクリートにひび割れが生じていることもあります。都市の開発では、軟弱地盤の土壌の一部を置き換えたり、固めたりする改良工事が行われます。しかし、広い水田で地盤沈下への対策を施すことは、経済的な理由などから対応が難しい課題です。

※このページの内容は、島根大学汽水域研究センター(1997),島根大学汽水域センター特別報告第3号,「波根湖の研究」.68p.を元に再編集しました。

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