タイトルバナー

大田の石こう鉱山関連

■鬼村鉱山と大田の石こう鉱床群

はじめに

 石こうはセメントの副原料であるほか、石膏ボードなどにも用いられる重要な鉱物資源です。かつて、島根県は全国一の石こう生産量を誇り(シェア70〜80%に達した時期があるとの記述もあります)、島根県の石こう鉱山群の先駆的存在だった鉱山のひとつが大田市大屋町の鬼村鉱山でした。大田市には他にも松代鉱山(久利町)、石見鉱山(五十猛町)などの石こう鉱山があり、全国一の生産量だった出雲市に続いて昭和40年代まで国内有数の石こう生産地でした。島根県産の石こうの多くは九州山口のセメント製造会社に販売され、日本の近代化から高度成長期までを下支えしてきました。ここでは、鬼村鉱山ほか大田市の石こう鉱床群の地質的背景と開発史の概要を紹介します。

1.石こうについて

 石こうは、カルシウム(Ca)とイオウ(S)の化合物である硫酸カルシウム(CaSO4)を主成分とする鉱物です。鉱物としては、二水和物(CaSO4・2H2O)を石こう、無水物(CaSO4)を硬石こうと区別しています。色は基本的に無色透明〜白色で、微量成分によって緑や黄色を帯びることもあります。形状には幾通りかあり、透明度が高い結晶を「透石こう」、雪のように細かな結晶が集まり白色に見えるものを「雪花石こう」、細い筋目が発達したものを「繊維石こう」というように呼び分けました。

 石こうの用途は、セメントや建材の原料となるほか、各種の造形用材料、農業用など多岐にわたります。工作用に市販されている粉状の焼石こうは、石こうを熱して水分の大半を失わせたもので、加水すると短時間で再固結する性質を持ち造形用材料に適しています。また、古くから薬としても用いられており、現在も漢方薬として使われ、解熱などの効能があるとされています。

 日本での石こう生産の歴史は、漢方薬としてはかなり古く、少なくとも江戸時代には採掘されて使われていたようです。工業用の利用は明治時代以降にはじまり、1875(明治8)年に白墨(チョーク)を作ることを目的とした焼石膏の製造が最初とされます。工業用の石こう鉱山の開発は1902(明治35)年に山形県の戸田鉱山が最初とされ、翌年に島根県出雲市大社町の鵜峠鉱山が開発されています。鬼村鉱山は1909(明治42)年に鵜峠鉱山の山師が当地を訪れた際に、地元の人からかつて鬼村で石こうを薬として採っていたことを聞き、開発したと伝わります。

鬼村鉱山

図1 鬼村鉱山周辺の地質
1.鬼村鉱山 2.松代鉱山 3.石見鉱山 4.延里鉱山 5.長谷鉱山 6.仁摩鉱山$emsp;7.大森鉱山(石見銀山)
大田市は広い範囲に中期中新世の地層が分布している。特に、この時代の火山噴出物が多く分布しており、鬼村鉱山をはじめとする石こう鉱床群は、火山活動に伴って形成された。(新編島根県地質図編集委員会(1997)を元に作成。)

2.大田の地質と石こう鉱床群

 大田市の地質分布を俯瞰すると、南東部に当地の基盤をなす花崗岩類(古第三紀)が分布し、これを不整合で覆う新第三紀の地層が北東部から西部にかけて広く分布しています。西部では新第三紀の地層の上に第四紀の堆積岩類が断続的に重なり、この地層は石州瓦の原料となる陶土を産し、地層名は「都野津層(群)」という名前です。都野津層の分布域では、この地層と一部で重なり合う関係で大江高山火山の噴出物があります。また、南東部には花崗岩類を貫いて噴出した三瓶火山の噴出物が分布しています。鬼村鉱山をはじめとする石こう鉱床群は、いずれも新第三紀の地層中にあり、地層形成と同時に形成されたものです。

 新第三紀は、約2300万年前から約250万年前までを指す地質時代で、中新世と鮮新世に2分されます。大田市に分布するこの時代の地層は、約1800万〜約1500万年前の中期中新世に、当時の海底または海岸付近で形成された堆積岩類と火山岩、火砕岩で構成されています。石こう鉱床群の形成はこの地層が形成された過程と深い関わりがあり、それは日本列島形成の歴史と関わりが深いものです。

 中期中新世は、日本列島の地史において重要な時代です。この時代にそれまでユーラシア大陸の一部だった大地が裂開し、日本海の拡大と日本列島形成の大地殻変動が生じました。その原動力は、地下深部から上昇した超巨大なマグマの塊「スーパープリューム」と考えられています。スーパープリュームはプレート縁辺部における海洋プレートの沈み込みと連動して発生する現象とされ、これが上昇することで大規模な火山活動が生じるとともに、大地を押し広げる力が働き、日本海の拡大が始まりました。

 日本海が形成、拡大する過程で、その海底では引き続き活発な火山活動が生じ、これに伴って熱水活動が盛んでした。熱水とは地下深部の高温の水で、マグマから放出された水やマグマ近傍で加熱された地下水です。熱水には金属、非金属の鉱物成分が溶けていることがあり、鉱床形成の役割を果たす場合があります。拡大しつつあった日本海の海底では、火山噴火によって形成されたカルデラなどの窪みがありました。ある程度水深が深く海流の影響が小さい窪みの中で熱水が噴出すると、海水によって冷えるとともに各種の鉱物が熱水噴出口の周辺に沈殿しました。その沈殿物は、銅、鉛、亜鉛など様々な鉱物が混合する「黒鉱」という鉱石となり、黒鉱の周辺部には石こうが沈澱することで黒鉱−石こう型の鉱床が形成されました。大田市の石こう鉱床群はこのような過程で形成されたものです。石見鉱山と延里鉱山では黒鉱を対象に採掘が行われた時期がありました。

 黒鉱−石こう型の「黒鉱鉱床」は日本列島の日本海側を中心とする地域に固有の世界的に珍しいタイプの鉱床です。黒鉱鉱床の大規模な鉱山としては小坂鉱山(秋田県)があり、東北地方に規模が大きなものが多くあります。西日本には黒鉱鉱床は少ないものの、大田市と出雲市は東北地方にも劣らぬ規模の黒鉱鉱床が存在する鉱床集中地です。

3.大田の石こう鉱山の開発

 石こうの採掘は生薬などの用途としては古くから小規模に行われていたようです。鉱山としての本格的な開発は、上記のように明治時代後半に始まり、山形県の戸田鉱山、出雲市の鵜峠鉱山に続いて鬼村鉱山が先駆的な役割を果たしました。出雲市の鰐淵鉱山は江戸時代から銅山として開発され、のちに日本最大の石こう鉱山になりました。

 鬼村鉱山の歴史は、桜井(1979)が紹介した夏野金次郎氏(1898−1975年)の手記「石膏山記」に詳しく記されています。これによると、明治42(1909)年に、鵜鷺村(現出雲市大社町鷺浦)の鉱山師、岡有市氏が探鉱を手がけたことが鬼村鉱山の本格的な開発の始まりです。その後、経営を担った塩田万市氏らが大正7(1918)年に「大阪石膏株式会社」を大阪に設立し、鬼村松代石見出張所と唐川出張所(出雲市唐川町)、鵜峠出張所(出雲市大社町鵜峠)に設けて大規模な操業を行いました。大正9(1920)年には鬼村から静間駅まで石こう運搬用のトロッコ軌道が敷かれ、トラック輸送に代わる昭和15(1940)年まで使われました。

 松代鉱山は、大田市(1968)によると明治34(1901)年から個人による採掘が行われていたとされています。大正7(1918)年に大阪石膏株式会社が松代での本格的な採掘を開始し、翌年には新たに山陰石膏株式会社が設立され、一時は大日本石膏鉱山株式会社と合わせて3つの事業所が松代に置かれました。松代鉱山は大田市最大の石こう鉱山でした。

 石見鉱山は、大正8(1919)年に重晶石の採掘から始まり、昭和10(1935)年に金銀鉱山として開発されました。鬼村鉱山や松代鉱山に比べて石こう鉱床の存在深度が深かったことから石こう鉱山としての開発は遅く、昭和26(1951)年に日満鉱業株式会社が黒鉱−石こう鉱床を発見し、石こうの採掘を始めました。

 その他、長谷鉱山(大田町)は、大正10(1921)年頃から昭和の初めまでの短期間、石こうが採掘されました。また、延里鉱山は昭和38(1963)年に黒鉱−石こう鉱床が発見され、昭和45(1970)年から石こうと黒鉱が採掘されましたが、5年足らずの操業で終わりました。

 大田市では明治時代から昭和の後半まで複数の石こう鉱山が稼働しましたが、安価な化学石こうや輸入石こうによって市場を奪われるなどの要因で急速に停滞し、鬼村鉱山が昭和42(1967)年に休山、他の鉱山も次々に休閉山して、1975年まで石こう産出地の歴史に幕を閉じました。その後、石見鉱山は黒鉱の採鉱からさらにゼオライト鉱山へ移行し、2022年まで採掘が行われました。また、石こう鉱山としては短命だった長谷鉱山も石見鉱山と一体的に経営され、ゼオライト鉱山として操業されました。

鬼村鉱山

図2 松代・松代石こう鉱床の模式断面図
 石こう鉱床は、海底に噴出した熱水から沈殿して形成された。鬼村鉱山の鉱床は黒色頁岩(上図では黒色泥岩に相当)に胚胎されていたとされる。上図では、松代鉱床は泥岩と火山砕屑岩の境界部、延里鉱床は火山砕屑岩中に胚胎されている。熱水活動と並行して、火山噴火が断続的に生じ、海底に泥岩と火山砕屑岩が交互に堆積したことがうかがわれる。(石見鉱山の未公表資料を元に作成)

4.鬼村鉱山の意義

 大田市は全国的に見ても鉱物資源に恵まれた地域と言えます。歴史的には石見銀山が圧倒的な存在で、その陰に隠れがちではあるものの石こう鉱山のほか多くの鉱山が存在し、一部は2024年現在も稼働しています。大田市産の石こうは九州山口のセメント産業を支え、明治時代以降の近代化から高度成長期までの社会活動に貢献しました。石見鉱山が閉山する2022年まで、ゼオライト(石見鉱山、長谷鉱山、仁万鉱山)、けい砂(三子山鉱山)、ベントナイト(朝山鉱山)の生産は、いずれも国内屈指の生産量を誇り「鉱山王国・大田」は令和の時代まで継続しました。

 鬼村鉱山は石こうの生産量では松代鉱山に及ばなかったものの、近代的な石こう鉱山としては国内のパイオニア的存在であり、その歴史的意義は大きいと言えます。鬼村鉱山の開発に端を発して大阪石膏株式会社が設立され、松代鉱山、鰐淵鉱山を含む組織的な開発が行われ、島根県が日本一の石こう産出県に至ったのです。このことはほとんど注目されず、大田市でも石こう鉱山の記憶は失われつつあります。その歴史と各地に残る採掘と運搬の痕跡を、近代化に貢献した遺産群として評価する必要があると思います。

 また、石こう鉱床群は当地の大地の歴史においても重要な存在です。大田市は日本列島形成に関わる火山活動の噴出物が西日本では最も典型的に分布している地域で、その地層が石こう鉱床を伴うとともに、黒鉱、ゼオライト、ベントナイトといった資源をもたらしました。大田市の大地の歴史とって石こう鉱床を伴う地層は重要であり、産業史にとっても重要なのです。

 現在、大田市において石こう鉱山の歴史が注目される機会は少ないものの、当地の自然史の象徴であり、産業として50年以上も地域経済と全国のインフラ整備に貢献したことは確かです。地域を学ぶ教材として注目する価値があると思われ、操業当時を知る人への聞き取りや残存する資料の掘り起こしによって記録を整理、保存しておきたいものです。

鬼村鉱山

図3 島根県の石こう生産量推移
 大正時代以降、島根県は日本一の石こう生産地であった。昭和48(1973)年の例では、全国の生産量が約38万tに対し、島根県は26万tを産出した。そのうち、量的には出雲市の鰐淵鉱山がかなりの割合を占めていた。大田市の産出量は、昭和42年に大阪石膏株式会社の産出量として1.2万tの記録がある。(島根県統計科編(1974)を元に作成)

鬼村鉱山

図4 西日本の石こう、石灰、石炭産地
 鬼村鉱山ほか、大田市の石こうの多くは山口、北九州に運ばれた。その地域は国内屈指の石灰石と石炭の産地で、重工業地帯だった。国内で最初のセメント工場が小野田(現山陽小野田市)で設立され、現代もセメント工業が盛んな地域でもあり、大田市と出雲市で産した石こうがセメント生産を支えた。

参考文献

石見鉱山株式会社石見鉱業所(未公表資料)概況. *1974年作成か。
大田市(1968)大田市誌〜15年のあゆみ.
桜井貞光(1979)夏野金次郎の「石膏山記」について.石東史叢,第16号.
島根県統計課編(1974)島根県統計100年史.

inserted by FC2 system