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出前授業資料

■久手小学校「三瓶学〜久手の大地を作った三瓶山」資料

大田市の象徴、三瓶山

 三瓶山は大田市の象徴、シンボル的な存在です。市内のいろいろな場所から見え、久手町も久手港や少し高い場所からは三瓶山を見ることができます。最初に、各所から見た三瓶山を写真で紹介しましょう。

金剛山から見た三瓶山

写真1
静間町の金剛山から見た三瓶山、下に流れているのは静間川、水田が広がっているのは長久町稲用です。山の中腹に安楽寺という寺があり、そこからさらに登ると展望所があってこの風景をみることができます。

五十猛町の大岬灯台から見た三瓶山

写真2
五十猛町の大浦灯台から見た三瓶山です。手前に赤瓦の屋根が目立つ大浦の家並みがあり、遠くに三瓶山が見えています。

長久町の三瓶川土手の桜と三瓶山

写真3
長久町のイオンの近くから見た三瓶山で、この写真は2016年に撮ったものですが、2020年4月にも桜と雪の三瓶山の風景を見ることができました。海岸に近い平野部と比べて三瓶山が寒いことがよくわかります。

三瓶山の上に登る満月

写真4
石見銀山世界遺産センター(大田市大森町)の上、仙ノ山の中腹にある展望所から見た三瓶山です。この写真を見ると、周囲には高い山がなく三瓶山だけがぽつんと高いことがわかります。周囲は標高400〜500m程度、三瓶山は1126mあり、その差は約600m。ぽつんと高いおかげで、遠くからも良く見えます。

大田市久手町沖から見た三瓶山。

写真5
写真5は、久手町の沖から見た三瓶山です。沖に行くほど手前の山が低く見える代わりに、三瓶山だけが目立つようになります。手前は掛戸です。

「座」。昔の人々にとっての山

 三瓶山は、大田市だけでなく出雲も含めた広い地域にとって古くから「特別な山」でした。それは、単に目立つということではなく、古くからの歴史にも関わりがあると思われます。
 高い山の数え方で、1座、2座と「座」で数えることがあります。この「座」には、山は神様がいる(座する)場所という意味があります。昔の人々は、田畑を潤してくれる川の源である山に神様がいると考えました。その地域で目立つ高い山は、神様の山でもあったのです。

 三瓶山が古くから特別な山であったことは、「出雲国風土記」が伝える国引き神話が教えてくれます。出雲国風土記は、約1300年前に書かれたもので、出雲国の地形や特産品のことが地域別に記されています。この中に、出雲国を作った神様が、小さくて狭い国を広げるために海の彼方から「国のあまり」に綱をかけて引き寄せて国を広げたという物語があります。これが国引き神話です。神話では、引き寄せた国が島根半島、綱が「薗の長浜」と「弓ヶ浜」、綱を止めた杭が「佐比売山(=三瓶山)」と「大山」とされています。国の成り立ちを説明する神話に登場する山であるということは、三瓶山と大山は神様が座する「特別な山」だったことを物語っています。

出雲市大社町の奉納山から見た三瓶山。

写真6
出雲市大社町の奉納山から見た三瓶山。手前に出雲平野と大社湾が広がり、その海岸に続く砂浜が薗の長浜。

 写真6は、出雲市大社町から見た景色です。遠くに三瓶山がそびえ立ち、薗の長浜がまさに綱のように伸びています。昔の人が地形をよく見て神話を作りあげたことがよくわかります。図1の地図で見ると、その位置関係がわかります。島根半島の両側に長い浜が伸び、その先に三瓶山と大山があります。これが、昔の人が神話に織り込んだ地形です。

国引き神話の舞台となった場所の地図

図1
国引き神話に登場する地名(現在の地名)を入れた地図。地理院地図を使用。

国引き神話は出雲の物語ですが、大田の人にとっても、田畑を潤す静間川と三瓶川の源である三瓶山は神様の山だったでしょう。山頂にあるほこらは、三瓶山に対する古くからの信仰の名残です。当日は紹介しませんでしたが、物部神社の祭りでも三瓶山にいる田の神「サンバイさん」を迎えるものがあります。神様がいる山として信仰されてきたことから、三瓶山は今も特別な山なのでしょう。

三瓶山はなぜ「特別な山」?

 三瓶山は、古くは神様がいる山として信仰の対象であったことが、特別な山として意識される理由だろうということを紹介しました。よく目立つ高い山であることが信仰の対象になった理由ですが、周辺に比べてひときわ高い山が生まれた自然の歴史はどのようなものだったのでしょうか。

大田市の地形図

図2
大田市の地形図。地理院地図を使用。

 図2は大田市周辺の地図です。高低を色で示してあり、三瓶山が目立って高いことがわかると思います。1126mという標高は、その数字だけで比較するとそれほど高いものではありません。島根県内だけでも、三瓶山より高い山が10以上ありますが、三瓶山ほど存在感がある山は見当たりません。県内で三瓶山より高い山は、広島県、岡山県との県境にあたる中国山地の中軸部分にありますが、三瓶山はそれから離れた場所にぽつんとそびえています。海岸からも近く、平野部から良く見えます。

 中国山地は、長い時間をかけて辺り一帯が高くなり、標高1000mを超える山々の連なりができました。三瓶山は中国山地とは別に、火山の噴火によってぽつんと山ができました。火山が作った山であることが、人々が多く暮らす海岸近くの平野からも良く見える、「特別な山」になった理由です。

三瓶山のおいたち

 日本は火山大国とも呼ばれ、世界の活火山の1割が日本列島にあるとされます。図3は、日本列島の活火山の分布図です。活火山が列のように並んでいて、その列をピンク色の帯びて示しています。この帯は、プレート境界と平行する形です。日本列島の火山の多くはプレートの動きと関係があります。
活火山とは、1万年前以降に噴火した火山で、日本では111火山が指定されています。三瓶山もそのひとつです。その火山としての歴史はつぎのようなものです。

日本列島の活火山分布図

図3
日本列島の活火山分布図。ピンク色で示した「火山フロント」と呼ばれる線に火山が並ぶ。

 三瓶火山が最初に噴火したのは約10万年前です。ここで「三瓶山」と呼ばず「三瓶火山」と呼ぶことには理由があります。火山の活動が始まった頃、三瓶山はなかったのです。
最初の噴火は、特に何もない場所で突然始まりました。そして、その噴火はとても大きなもので、噴出した火山灰は松江市付近で1m前後、石川県の能登半島でも5cm前後の厚さでたまっていて、さらに東北地方でも火山灰の地層が見つかっています(図4)。この噴火は、日本列島で過去10万年間に発生した噴火の中でも20番以内に入る規模のものです。

三瓶木次テフラの分布図

図4
三瓶火山が約10万年前の活動で噴出した三瓶木次火山灰(軽石)の分布図。

 約10万年前の火山活動を終えると、三瓶火山は長い間活動を休止しました。桜島のように何十年にもわたってひんぱんに噴火を繰り返す火山は大変珍しく、多くの火山は噴火する時期(活動期)と休止を繰り返します。三瓶火山は活動の間隔が長く、最初の活動から次の活動まで3万年以上の間休止していました。
約5万年前、三瓶火山は再び活動を始めました。この時も大噴火を行い、火口から噴出されたぼう大な量の火山灰と軽石が流れ下る大規模な「火砕流」が発生しました。その火砕流の地層は、大田市内のあちらこちらで見ることができます。写真7、8、9、10はいずれもこの火砕流によって積もった火山灰と軽石の地層です。写真7は三瓶町上山、写真8は大田町の大田市立病院近く、写真9は大田町の青果市場近く、写真10は久手町の久手小学校西方の丘です。どの場所でも厚さ10mを超える地層を見ることができ、これが1回の火砕流で堆積したものなので、いかに大きな噴火であったかが想像できるでしょう。もし、同じ噴火が今発生したら、三瓶町はもちろん、川合町から大田町、久手町にかけての地域が一瞬で覆い尽くされ、焼き尽くされてしまいます。

三瓶町上山の三瓶大田軽石流堆積物の露頭

写真7
大田市三瓶町上山で見られる約5万年前の大火砕流の噴出物。写真の崖は高さ約15mあり、すべてが1回の火砕流で堆積した軽石と火山灰の地層。

大田町吉永の三瓶大田軽石流堆積物の露頭

写真8
大田市大田町吉永で見られる約5万年前の大火砕流の噴出物。

大田町大田の三瓶大田軽石流堆積物の露頭

写真9
大田市大田町大田で見られる約5万年前の大火砕流の噴出物。

大田町大田の三瓶大田軽石流堆積物の露頭

写真10
大田市久手町刺鹿で見られる約5万年前の大火砕流の噴出物。

 大火砕流を発生させた約5万年前の噴火はあまりに規模が大きかったので、三瓶火山には巨大な噴火口が形成されました。図5は三瓶山の地形図です。この地図で巨大な噴火口の名残を見ることができます。それは、男三瓶山などの峰をとりまく外側、西の原、東の原、北の原と呼ばれるなだらかな地形が広がる範囲で、図5の破線で示した円が噴火口の縁にあたります。大噴火によって地下から一気にマグマが噴き出され、地面の下が空っぽになったために火口の周りが落ち込んで穴が広がりました。この噴火が終わった後、この場所にはぽっかりとクレーターのような穴が残されていたはずです。水が溜まって湖になっていたかも知れません。このようにしてできた巨大な噴火口を「カルデラ」といいます。

三瓶山の地形と主な地名

図5
三瓶山の地形と主な地形。破線がカルデラの範囲。

 巨大な噴火口ができた時、三瓶山はまだ影も形もありませんでした。今の山ができたのはこれよりもずっと後のことです。巨大な噴火口を作った約5万年前前の噴火の後、三瓶火山は約4.6万年前と約1万9000年前にもかなり大きな噴火を行いました。約1万9000年前には大量の軽石を噴出する爆発的な噴火の後、ゆっくりと溶岩を噴き出すタイプの噴火も行い、その溶岩によって三瓶山で最も古い日影山ができました。
男三瓶山など、その他の峰は、約5500年前と約4000年前の2回の活動でできたとみられます。三瓶火山の6回目、7回目の活動期です。約1万年前にも小さな噴火を行っており、全部で7回の活動期があったことがわかっています。その最後の2回で、今見られる三瓶山の大部分ができたのです。

※活動期の年代について、第2活動期、第3活動期、第4活動期を従来は約7万年前、約3万年前、約1.6万年前としていましたが、近年の報告にもとづいてそれぞれ約5万年前、約4.6万年前、約1.9万年前に訂正します。

山体を作った噴火

 三瓶山を作った噴火は、ゆっくりと溶岩を噴き出すタイプの噴火だったと紹介しました。火山の噴火は、マグマの質や量、地下から上ってくる速度などの条件の違いに様々なタイプがあります。マグマは動かないのに、周辺の地下水がマグマの近くに流れ込んで急激に沸騰して爆発を起こす水蒸気噴火というものもあります。三瓶火山を活動させたマグマは粘り気が強いタイプでした。これが大量に、高い温度のままで地表近くまで上昇してくると爆発的な大噴火を起こすことがあります。三瓶火山の活動初期に発生した大噴火はそのようなものでした。同じように大量のマグマが上昇してきても、流れやすいさらさらのマグマの場合は爆発的な大噴火にはつながりにくいものです。例えば富士山はこのタイプの火山で、火口から溶岩を繰り返し噴き出して高い山を作りました。大爆発を起こすと、富士山のように整った形の山はできません。

雲仙平成新山と平成噴火の噴出物が作る斜面

写真11
雲仙平成新山と平成噴火の噴出物が作る斜面。2018年2月撮影。

 粘り気が強いマグマがそれほど一気に上昇してこない場合には、溶岩が火口からゆっくりと押し出されるように出てきます。溶岩はほとんど流れずに固まって高まりを作り、しばしばそれが崩壊して火砕流を発生させることを繰り返します。三瓶山の峰の大部分はこのような溶岩噴出と火砕流を繰り返すタイプの噴火によって形成されました。

 溶岩をゆっくり噴出する噴火で山ができていく様子は、1990年代に長崎県の雲仙岳で観察されました。写真11が雲仙岳で、右奥の岩がむき出しの山が1990年代の噴火でできた平成新山です。この時の噴火の様子は、テレビ局や新聞社などのマスコミが毎日取材して、映像と画像の記録が大量に残されました。その記録には、災害の瞬間も残されていて、撮影していた人が火砕流に飲み込まれたり、逃げ惑う人々の姿を撮影したものもあります。写真12は島原市の旧木場小学校跡地にある看板です。学校で授業をしている時に大火砕流が発生し、校舎から児童が逃げ出す様子が写っています。幸い、この学校では被害者はありませんでしたが、校舎は火砕流の熱で燃えてしまい、今も災害の記録としてそのまま保存されています。雲仙岳の平成噴火の記録は、火山災害の怖さを物語ると同時に、粘り気が強い溶岩を噴出する火山噴火によってどのように山体が形成されていくのかを知る貴重な資料となっています。その画像と動画は、雲仙岳災害記念館のホームページなどで多数紹介されているので、それらを見ると三瓶山ができた時の様子が想像出来ると思います。

島原市の旧木場小学校の看板

写真12
島原市の旧木場小学校にある看板、火砕流が校舎に迫り来る瞬間の写真が紹介されている。

噴火は森を残した

 約4000年前の噴火では、現在の三瓶山の原型が出来上がりました。この噴火は、世界的にも珍しい太古の森を現在に残す役割も果たしました。その森とは三瓶小豆原埋没林です。ここでは、現在の山では見ることができないような巨大な木が火山灰に埋もれて、立ったままで地下に残されています。巨大な木の種類はスギが多く、それは現在のものと同じ種類です。人に切られたり燃やされたりせずに500年、600年もの時間をかけて育ったことで、巨大な木になり、巨大な森を作り上げたのです。このような過去の森の姿を実際に見ることができるおかげで、人の手が加わる前の自然の姿を知ることができ、その大きさを実感できます。このような森を見ることができる場所は、世界でもここしかありません。

三瓶小豆原埋没林

写真13
大田市三瓶町の三瓶小豆原埋没林。地下を掘った展示室に直径2mを超える巨大な木が立っている。その根本には噴火の時に発生した土石流で倒された木もたくさんある。

 三瓶小豆原埋没林を発見したのは、大田高校などで長く理科を教えていた松井整司先生でした。松井先生は三瓶火山の研究者でもありました。ある時、松井先生は田んぼの工事中に出てきた巨大な木の写真を見て、地下に森が埋もれているかもしれないと気づき、様々な調査をしてそれが実際に存在することを突き止めました。三瓶火山を熱心に、粘り強く研究した松井先生だからこそ、世界的に貴重な森を発見することができたのです。

三瓶小豆原埋没林

写真14
埋没林が発見された時の写真。発掘調査で現れた木のそばに立っている人が松井整司先生です。

 埋没林が発見される半年前の1998年3月、松井先生は「波根湖って知ってますか?」という冊子を作り、大田市教育委員会で印刷して当時の小中学生全員に配りました。久手町と波根町の間にあった波根湖の歴史は、大田市にとっても大切な歴史だということでこの冊子を作ったのです。1冊、皆さんにプレゼントするので読んでみてください。

児童の皆さんからの質問

・三瓶山は何歳ですか?

A.三瓶山としては、19000歳。今の形になったという意味では4000歳。  三瓶火山は10万歳。

・三瓶山の噴火の歴史を教えてください

A.10万年前に活動を始め、5万年前前、4.6万年前、19000年前、11000年前、5500年前、4000年前に噴火した。ひとたび噴火を始めると、数年から10数年噴火する。それ以外の時は現在と同じように静かな状態。三瓶火山の歴史の中で、噴火していた時間はとても短い。

・三瓶山はどうやってできたのですか?最初は今より高かったのですか?

A.粘りけが強い溶岩が火口から押し出され、それが不安定になると崩れ落ち、再び溶岩が押し出されることを繰り返しながら次第に高い山ができた。 高い「大三瓶山」があって、それが噴火で壊れて今の形になったとも言われるが、男三瓶山、子三瓶山などはそれぞれ別の火口から噴出した溶岩でできていると思われる。

・三瓶山は男三瓶山だけだと思っていたのですが、なぜ6つぐらいあるのですか?

A.上でも紹介したように、少しずつ火口の位置が変化しながら男三瓶山をはじめとする峰ができたと思われる。それが輪になって並んだのは、カルデラができたときの岩盤の割れ目に沿っているのではないか。峰に囲まれた中心部では、爆発的な噴火が起きて室ノ内が火口のくぼ地として残され、室ノ内から吹き出された火山灰などが積み重なって大平山ができた。

・三瓶山の6つの山の高さを足したら、何mになりますか?

A.地図で高さを調べて足し算してみてください。

・つぎに噴火するのはいつごろですか?噴火する前に、噴火しそうだということがわかりますか?

A.つぎはいつか予想は難しいが、いつかまた噴火すると思われる。それは三瓶山のような火山の寿命が50万年から100万年だから。これまでの噴火の間隔は、平均1.4万年。現在、最後の噴火から4000年前なのでまだまだ先とも考えられる。 つぎに噴火が起きるためには、地下の深いところ(10km以上下)からマグマが上がってくる必要がある。4000年前の噴火を起こしたマグマはもうかなり冷えてかたくなっているので、噴火を起こすことはない。 マグマが上がってくる時、火山性地震や火山性微動という動きが地震計で観測できる。この動きによってある程度マグマの動きを知ることができる。浅いところまでマグマが上がってくると、地面がふくらんだり、温泉の温度が変化するなど目に見える変化も現れる。

・今、三瓶山が噴火したら、大田市や久手町はどうなりますか?

A.噴火の規模によって違う。 5万年前前と同じ噴火が起きたら、久手町まで火砕流が流れて辺り一帯が10m以上の火山灰に覆いつくされる。 4000年前の噴火の場合、三瓶川と静間川が流れる大田町、川合町、長久町などは土石流や洪水の被害を受ける。大田町は町が埋もれるかも。

・三瓶山が最後に噴火したとき、三瓶や大田の町はどうなりましたか?

A.三瓶山の近くには火砕流や土石流が流れ下った。大田の町の地下にはは噴火の時に三瓶川が運んだ土砂が10mくらいの厚さでたまっている。その下には、縄文人が暮らしていた家などが埋もれているかも。

・噴火したら、どこに逃げたらいいですか?

A.火山灰から逃げるには西へ。5万年前前の噴火の場合、久手町も埋もれるので温泉津町よりも西が安全。4000年前の噴火の場合、久手町はたぶん大丈夫。

・溶岩(マグマ)はどこまで流れますか?

A.三瓶火山の溶岩はほとんど流れない。それは、粘り気がすごく強いため。ハワイの溶岩は何kmも先まで流れる。

・火山灰は、どのぐらい飛びますか?

・最大パワーの噴火が起きたら、どんな状態になりますか?

A.噴火で吹き上げられる高さは最大で上空2万kmくらい。それくらいの規模の噴火の場合、黄砂のような大きさの細かい火山灰は地球を何周もまわる。 三瓶火山が10万年前、5万年前前に起こした規模の噴火の場合、細かい火山灰が地球の広い範囲をおおうことで太陽の光が届きにくくなり、数年にわたって気候に影響を与えたと思われる。 日本にはもっと大きな噴火を起こした火山がある。9万年前の阿蘇火山の噴火は、過去10万年間に地球上で発生した最大級の噴火のひとつ。もし、同規模の噴火が現在発生したら、九州は全滅、日本列島のほぼ全土で生活が困難になる。 世界最大級の噴火を起こしたイエローストーン火山の場合、人類滅亡につながると言われている。

・西之島が噴火で大きくなっていると聞きました。三瓶山の噴火で増えた土地はどのぐらいですか?

A.海中で噴火した西ノ島と異なり、三瓶火山が直接土地を作ることはほとんどない。噴出物が川で運ばれて入江などを埋めて土地を広げた場所は、出雲平野の西部(出雲ドームより西側)と大田の平野(大田町、長久町、静間町)。

・男三瓶山の横の長さはどれぐらいありますか?

A.「地理院地図」というサイトを使うと距離を測ったり、自分で決めた場所の地形の凹凸をグラフのようにできるのでためしてみよう。

・室ノ内は噴火口だったと聞きました。なぜ噴火口に池ができるのですか?  ガスは今も出ていますか?浮き布池も噴火口ですか?

A.室ノ内池は、地下水面が地面より上になったから池になっている。砂浜で穴を掘ると水が出てくるが、それと似た状態。このような池になったのは、噴火でできた穴だからで、普通は水の働きで谷ができるので湧き出した水は流れてしまう。 池のそばにある鳥地獄では今もわずかに二酸化炭素が出ている。何年か前に九州大学の学生が調べたが、吹き出すガスの量はとても少なかった。ここ数十年でも減っていると感じる。 浮布池は谷がせき止められてできた天然のダム湖で、火口ではない。

・3年前の地震は、三瓶山の火山活動と関係がありますか?

A.平成30年島根県西部地震は、三瓶火山の活動とは直接の関係はない。 しかし、火山と地震には深い関わりがある。三瓶山周辺で発生する地震の震源は、その多くが三瓶山を通過する直線(北西−南東方向)に重なる。この直線の地下には、岩盤の割れ目があると思われる。三瓶火山もこの割れ目に沿ってマグマが上昇して噴火したことが考えられる。 地下の浅い場所に温度が高いマグマがある火山の場合、地震をきっかけに噴火が発生することがある。噴火は、マグマに含まれる二酸化炭素や水などが「泡立ち」をおこすことで発生するが、地震が泡立ちの原因になると考えられている。マグマが動かなくても、岩盤に割れ目ができるなどして、地下水が温度の高いマグマの近くに流れ込むと、水蒸気噴火という現象が発生することもある。

・三瓶山は最初、さひめ山という名前だったそうですが、なぜ名前が変わったのですか?なぜ三瓶山という名前になったのですか?(るい)

A.神亀3年(726年)に3文字の地名を2文字に改めるよう、朝廷から通達が出された。 この時に「三瓶」の文字を当てた、と石村禎久さんが書いた本に記されている。733年に完成した出雲国風土記には、「神亀3年に地名を改めた」ということがあちらこちらの地名について書かれているが、「佐比売山」についてはこの名で記されているので、地名変更と矛盾する。

・3つの瓶(かめ)の伝説を教えてください(かずなり)

A.よく言われているのは、大きな地震で三瓶山から3つの瓶が飛び出し、物部神社、三瓶大明神(池田にある高田八幡宮? 小屋原の三瓶山神社?)、浮布池にそれぞれ収まった、というもの。 物部神社では、宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が石見国を制し、3つの瓶を一瓶社(物部神社の境内にある)、邇幣姫神社(浮布池のそばにある)、三瓶大明神に納めて平和を祈った。

・日本で何番目に大きいのですか?

A.三瓶山は、高さでは島根県でも17番目。火山としての規模もそれほど大きくはない。

・三瓶山にはどのぐらい観光客が来ているのですか?

A.大田市が発表する数字では約60万人。この数字はいろいろな施設などの利用者を合計しているので、実際の人数はこれより少ないはず。

・三瓶山にはどのぐらい登山客が来ているのですか?

A.正確な人数は不明。環境省がカウンターを付けて西の原と北の原(姫逃池、名号)で人数を数えていて、それから推定すると2~3万人。

・三瓶山はなぜ国立公園になったのですか?

A.国立公園になった時に評価されたのは、「釣り鐘型の火山が連なる山の形と、その裾野に草原が広がる牧歌的な景観が優れている」ということ。その他、温泉があること、三瓶山自然林があることなどが評価された。
※このような環境が生まれた歴史、国立公園になった歴史はそれだけでも大きな研究テーマになる。

・三瓶山は島根県一高いのですか?1位じゃないとすると、何番目ですか?

A.島根県が作成した資料で17番。上位には広島、岡山との県境になる山が多い。

・「サヒメル」の名前の由来は何ですか?

A.佐比売山の「さひめ」と「メール」をつなげて作ったもの。募集した中から選ばれた。

・姫逃池はどうやってできたのですか?カキツバタが生えたのはなぜですか?

A.姫逃池がある北の原は、なだらかな凹凸がある。山裾の少し低い部分に雨水と地下水がたまって池になっている。 カキツバタがいつから生えているのは不明。江戸時代には生えていた。最初は人が植えたのではないか。

・西行法師が「石見富士」と言ったのは三瓶山ですか?

A.西行法師は800年くらい前の歌人でお坊さん。日本の広い範囲を旅して歌を詠んだ人。 「知らで見ば富士とはいわん石見なる 佐比売の嶽の雪のあけぼの」という歌を西行法師が読んだとされる。「佐比売の嶽」が三瓶山。 地名など少しだけ違う歌が他の地域にもあるらしく、これを本当に西行法師が読んだかどうかはわからない。

・湧き水はどこからどのぐらい出ていますか?

A.三瓶山の山裾の標高400〜500m前後のところからわき出ている。何カ所あるか不明だが、大きなものだけでも10箇所以上ある。 三瓶地区では、三瓶に8つの泉があり、それぞれに村ができた、という昔話がある。

・埋没林が腐らずに残っていた理由を教えてください

A.火山灰に埋もれて、火山灰のすき間は地下水に満たされていた。これは「かんづめ」と同じ状態。かんづめは、空気に触れないためにものを腐らせる菌類が繁殖できないため、長い時間保存できる。

・埋没林は掘り起こすまでにどれぐらい(時間やお金)、かかったのですか?

A.掘り出して展示室を作る作業は、1999年から2003年にかけての5年をかけて行った。費用のほとんどは、三瓶小豆原埋没林公園として公開している展示室を掘るためにかかっており、10億円以上。

・見つかっていない埋没林はまだ地下にありますか?

A.展示室の外にもまだたくさんあり、未発見のものが100本以上あると推定している。

・三瓶の埋没林は今もまだ生きていますか?

A.木としては、埋もれて間もなく(おそらく1週間くらいで)枯れた。

・三瓶温泉はいつから湧き出していますか?

A.4000年前の噴火直後には湧き出していたのではないか。江戸時代には温泉として利用されていた。

・三瓶温泉にはなぜ鉄分が含まれているのですか?

A.温泉の湯は、地下の深い部分で岩石の成分を溶かしたりして様々な成分を含む。鉄もそのひとつ。鉄は岩石中に比較的多い成分で、低い温度の水にも溶けやすい。つぎの回答のように、三瓶温泉の成分の中で鉄が特に多いわけではない。

・鉄以外にどんな成分が含まれていますか?

A.三瓶温泉の主な成分。Na(495mg)、Mg(42.7mg)、Ca(113mg)、K(53mg)、Fe(5.6mg)。ガス成分として二酸化炭素。

・三瓶山には温泉がどのくらい湧いているのですか?
・三瓶温泉以外にも、三瓶山が関係している温泉があるのですか?

A.三瓶火山に関係があると思われる温泉は、三瓶温泉(志学)、松が平鉱泉(志学小学校の近く)、久部鉱泉(志学。西の原の南西)、小屋原温泉(小屋原)、池田ラジウム鉱泉(池田)、湯抱温泉(美郷町)、千原温泉(美郷町)など。

・三瓶温泉はなぜぬるいのですか?熱くなってきたら噴火が近いですか?

A.現在、湧き出し部分での温度は37度前後。温度が低い理由はいくつか考えられる。ひとつは、地下に残っているマグマの温度がかなり低くなっていること。マグマの温度が低いことは、三瓶温泉がイオウ分のガスを含まないことからわかる。 温度が低いといっても、おそらくまだ200度くらいの温度はあると思われるが、地下で温泉水がたまっている場所(地下水が温められる場所)はそこまで熱くないだろう。 また、マグマの近くでは37度よりずっと温度が高いはずだが、湧き出すまでの間に冷たい地下水が混じって温度が下がる。 噴火が近づくと温度が上がるが、地震によって地下の温泉の通り道が変わることでも温度が上がることがある。逆に下がることもあり得る。

・温泉の温度は日によって変わりますか?

A.ほとんど変わらないが、大雨が続くと少し下がることがある。

・遊園地はどこにあったのですか?

A.浮布池の西側。現在、展望広場になっている場所に遊具があった。

・どんな遊園地だったのですか?なぜグリーンランドという名前になったのですか? どんな遊具があったのですか?

A.実際に見ていないのでよくわからないが、回転する遊具の写真が残っている。いくつか乗り物があったらしい。グリーンランドの下にはボート乗り場があり、今も残骸が残っている。グリーンランドの名前もわからないが、山、緑、グリーン・・・ということでは?

・どのくらいお客さんが来ていたのですか?

A.賑わっていたという話を聞くが、それ以上はわからない。

・なぜやめたんですか?

A.お客さんが減ったからでは。1950年から1970年頃までの三瓶山は、今からは想像できないほど賑わっていたが、その後観光客が減った。グリーンランドをやめたのもその頃。 スキー場は雪が減ってスキーができる日が少なくなったため、経営が難しくなった。

・跡地はどうなっているのですか?

A.一部が浮布池展望広場として利用されている。

・遊園地やスキー場は、もう復活しないのですか?

A.これから三瓶山のどこかに遊園地を作ることは現実的ではないかも。ないとは言えないが、たぶん難しい。昔は大小の遊園地が全国各地にあったが、残っているものは少ない。昔と現代では遊び方が違うためだろう。 スキー場も儲からなくなり、各地で廃業したところが多い。しかし、三瓶の場合はリフトが生きているので、寒い冬が続くようだったら、何かの形で復活できる可能性があるように思う。そり遊び場としてでも復活はできるかも。

このページは2020年6月5日に大田市立久手小学校5年生を対象に三瓶山を紹介した際に作成した資料を再整理して作成したものです。
ご質問があれば、お問い合わせフォームからお寄せください。

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