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出前授業資料

■大田一中・大田の自然

2007年6月4日(月)大田市立第一中学校講演要旨

大田市の恵まれた環境

 浜があり磯がある海、大田の町からよく見えて大山と並んで中国地方を代表する山の三瓶山、そしてかつて世界の歴史を動かす役割を果たして世界遺産登録を目前に控えた石見銀山。やさしい自然と世界に繋がる歴史のふたつの宝物があります。

 地元で育つみなさんにとってはごく当たり前、日常の風景の中にすばらしいものがいくつもあるのです。時々、「大田には何もない。」という言葉を耳にすることがあるかも知れません。そんなことはない。何もないどころか、これほど宝物に恵まれた町なんて滅多にないと思います。この宝物を活かすことは町の元気につながると思っています。今日は、大田の自然のしばらしさをお伝えできればと思います。

静間海岸

静間海岸(近藤ヶ浜)

三瓶山

円城寺(大田市三瓶町野城)から見た三瓶山

石見銀山本谷地区

石見銀山本谷地区

三瓶山

 三瓶山は大田市のシンボルです。皆さんは何度も行ったことがあるでしょう。毎日、大田の町から見上げている人も少なくないと思います。冬の晴れた日に見える雪をかぶった三瓶山は実に良い姿ですね。この姿の良さは、火山のおかげです。三瓶山が火山であることはこれまでに聞いたことがあると思います。数年前には活火山に指定されました。

 三瓶山の形の良さとよく目立つことは火山のおかげなのです。火口から吹き出した溶岩でできた山のために形が整っています。「石見富士」という呼び名を聞いたことがあるかも知れませんが、確かに見る角度によっては富士山に少し似ています。また、火山によって同じような形の山がいくつもできたおかげで、男三瓶山、子三瓶山、孫三瓶山が並ぶ美しい景色も生まれました。

 よく目立つのは、中国山地の主軸から離れていて周りに高い山がない場所で火山が噴火したおかげで、標高はそれほど高くないものの周りよりひときわ高いおかげでよく目立つのです。人が多く暮らしている海岸に近いことで、多くの人の目にもとまります。出雲や松江からも三瓶山を見ることができ、出雲に伝わる国引き神話では、三瓶山は国を引き寄せた綱をとめた杭として登場します。

雪の日の三瓶山

雪の日の三瓶山。大平山から見た風景

 三瓶山は国立公園に指定されています。国立公園は日本を代表するような自然が残る場所が指定されるものです。三瓶山の自然は草原と火山地形に加えて、三瓶山自然林という森林があることや湯量に恵まれた温泉などが評価されて国立公園になりました。三瓶山に草原があるのは、江戸時代から牛を盛んに飼育していたためです。草を食べる牛を飼うためには広い草地が必要です。三瓶山の山すそにはなだらかな土地が広がっていて、そこを牧草地、放牧地に使ったのです。三瓶山で牛を飼った理由として、この山には地面を流れる水がないために田んぼや畑を作ることが難しいこともありました。火山灰が降り積もってできた土地は水はけがとてもよく、降った雨が地面に染み込むので水がないのです。田畑にできない土地を何百年も牛の飼育に使い続けてきたことで今の風景があるのです。

西の原の草地

草原が広がる西の原の景観

 三瓶山が国立公園に指定された1963年頃は、山の上までずっと草原が広がっていたそうです。特に子三瓶山と孫三瓶山はきれいな草山だったと聞きます。山の広い範囲が草原だった三瓶山ですが、男三瓶山の北側には森林が残りました。人が切ったりすることがあまりないまま何百年か気が育ち続けてできた森で、三瓶山自然林の名前で国の天然記念物に指定されています。これもすごいことです。なぜ男三瓶山の北側には森林が残ったのか、理由はよくわかりませんが江戸時代まで三瓶山を境に石見国と出雲国に分かれていて、出雲国の部分に森林が残っています。おそらく、国の違いが関係しているのでしょう。

 自然という言葉を聞くと、人の手が加わらないものをイメージするかも知れません。三瓶山自然林の自然にはその意味がありますが、三瓶山の自然全体をみるとそうではないのです。草原は人が使うことで成立した環境です。三瓶山は火山がつくり、火山ならではの土地を人が使い、人の暮らしと自然が調和してきたことで三瓶山の環境が生まれたのです。

三瓶山自然林の林内

三瓶山自然林の林内

火山の歴史

 火山としての三瓶山の歴史も紹介しましょう。三瓶火山の活動は約10万年前に始まりました。ここで三瓶火山と言ったのは、火山としての歴史と山としての歴史を区別する必要があるからです。三瓶火山は火山活動を行なっていない休んでいる時間が長い火山で、過去10万年間で噴火した時期は7回です。平均すると1万年以上は休んでいて、たまに噴火を始めると数ヶ月から数年、せいぜい10年くらい活動してまた休むということを繰り返してきました。

 約10万年前の最初の活動、約5万年前の2回目の活動ではとても大きな爆発的な噴火を行なっています。いずれも、過去10万年間に日本列島で発生した火山噴火で上位20位以内に入るくらいの規模です。少なくとも有史以降の日本では記録がない規模です。約5万年前の噴火では大田市街にも大量の火山灰と軽石が堆積しています。大田一中もその地層の上に建っていて、学校の前や球場のまわりで地層を見ることができます。画像は大田町吉永の栄町団地の中ですが、2階建ての家よりはるかに高い崖の地層が1回の噴火で積もった火山灰と軽石です。火砕流という現象で、ものすごい量の火山灰が500度を超える温度のガスと一体になって一気に流れ下ってきたのです。もし、今この瞬間に同じ規模の火砕流が襲ってきたら、校舎も体育館も埋まってしまう規模です。スピードも時速100kmに達するほどなので、走って逃げられるものではありません。三瓶火山はそんなとんでもない噴火を起こしたことがあるのです。

大田町吉永の大田軽石流堆積物の地層

大田町吉永でみられる大田軽石流堆積物の地層

 三瓶火山が大田の町を一瞬で埋め尽くすような大噴火を起こした時、「三瓶山」はどのような形だったでしょう。今と同じような形だったでしょうか。誰も見たことがないので正解はわからないのですが、地形の形などから推定すると三瓶山の位置に山はなく巨大な噴火口、クレーター地形が残されていたと考えられます。三瓶山のふもとは西の原、東の原、北の原というなだらかな地形が取り囲んでいますが、この範囲はかつての巨大な噴火口の跡なのです。直径4.5kmもあり、ふもとを一周している道路はその内側を走っています。このような巨大な噴火口はカルデラと呼ばれます。

三瓶カルデラの範囲

赤い破線が三瓶カルデラの範囲

 噴火では火山灰が流れ下るだけでなく高く吹き上げれて風で遠くまで飛んでいます。約10万年前の火山灰は東北地方でみつかっていますし、その後の約5万年前、約4.6万年前、約1.9万年前の合計4回の火山灰はいずれもかなり遠くまで飛んでいます。三瓶山より東の中国地方には広い範囲で三瓶の火山灰が積もっていて、奥出雲町と雲南市の境にある尾原ダムを作るときの発掘調査では、火山灰の下から2万年以上前の旧石器がたくさん見つかっていて、古いものは約3万年前までさかのぼります。約1.9万年前の三瓶火山の火山灰の下に石器があって、そこからさらに掘り進めると約2.9万年前に九州の姶良火山から飛んできた火山灰の下からも石器が見つかったのです。島根県では最大の旧石器遺跡で、時代がはっきりしているものでは最古です。火山灰のおかげで石器が残り、その時代がわかったのです。

尾原ダム建設現場の発掘調査風景

尾原ダム建設現場の原田遺跡発掘調査風景

 ところで、約10万年前、約5万年前の大噴火では巨大な噴火口、カルデラが形成されたことを紹介しましたが、三瓶山はいつ出来たのでしょう。カルデラが形成された段階ではクレータ状の穴があり、水が溜まって湖になっていたかも知れません。この時は三瓶山と呼べる山はないのです。三瓶山を作る溶岩がいつの噴火で吹き出されたものかを調べてみると、一番古い部分で約1万9000年までの噴火、それ以外は約5500年前と約4000年前の噴火によるものとわかりました。三瓶火山の歴史は10万年ですが、三瓶山は1万9000年前にできはじめて、大部分は縄文時代にできた新しい山なのです。火山としての歴史と山としての歴史を区別する必要があるというのはこういう意味なのです。

石見銀山と三瓶山の意外な関係

 大田市の歴史の宝物、石見銀山は間もなく世界遺産に登録されて世界の宝物として認められます。「登録延期」という勧告が出たので世界遺産にならないと言う人もいますが、きっと登録されます。
 さて、石見銀山は人の歴史で重要なものですが、石見銀山を作り出したのは自然の作用です。石見銀山の銀鉱床は仙ノ山という山にあります。江戸時代に書かれた「銀山旧記」には、博多の商人神屋寿禎が出雲の鷺銅山に向かう船の上から山に光を見て銀山を発見したと書かれています。銀峯山と書かれている山が仙ノ山です。仙ノ山は大江高山火山の一部です。大江高山火山という言葉は初めて聞く人が多いと思いますが、大田市の南西に大江高山という山があり、その周りにたくさんの山が集まっています。晴れた日に三瓶山に登ると西に山がぎゅっと集まった場所が見えるのですが、見たことがある人もいるのではないでしょうか。これが大江高山を最高峰とする火山の集まり、大江高山火山です。

海から見た仙ノ山

仁摩沖の海から見た仙ノ山

大江高山火山の山群

三瓶山の北側、三瓶ダム展望所から見た大江高山火山の山群

 大江高山火山の一部である仙ノ山は150万年前頃に噴火して山ができました。溶岩のかけらと火山灰が降り積もってできた山です。山ができた後、地下から高温の温泉水が吹き出したのですが、その温泉水には銀が溶けていました。山を作る地層に染み込んだ温泉水から銀の成分が沈殿して、辺り一帯の石を銀鉱石に変えました。こうしてできた石は「福石」と呼ばれました。一見、普通の石にしか見えないのですが、その中から銀を取り出すことができ「福」を招いたのです。おそらく、福石という名前はそういう意味でしょう。石見銀山だけで使われた名前です。ただの石のような銀鉱石はとても珍しいタイプで、日本の他の銀鉱山にはありません。火山が作ったこの特別な鉱石が、石見銀山を特別な銀鉱山にしたのです。

福石

石見銀山の大久保間歩で採取された福石。大森鉱山として操業されていた大正時代に採取されたもので、九州大学に保管されています。操業当時に採取された数少ない福石です。

 福石は掘りやすく、銀を取り出しやすい鉱石でした。その鉱石のおかげで、16世紀という時代に銀の量産に成功したのです。そして、石見銀山の成功に続いて佐渡鶴子銀山(新潟県)、生野銀山(兵庫県)が開発され、日本の銀を求めてヨーロッパ人が船で東アジアにやってくるようになったのです。これによってはじめてヨーロッパと東アジアが直接交流するようになり、人や文化が行き来しました。日本に鉄砲やキリスト教が伝わったのも石見銀山から始まった動きの一部でした。もしも、石見銀山の銀鉱石が福石ではなく、他の銀鉱山と同じようなものだったとしたら、日本の銀生産の先頭に立つことはなかったかも知れません。世界の動きも違うものになっていた可能性が高いのです。石見銀山の歴史的な影響はとても大きく、それは火山が作った福石あってこそだったと言えるのです。

 火山は、三瓶山と石見銀山という大田市のふたつの宝物を作り出しました。大田市だけの宝物ではありません。三瓶山には登山や自然学習、キャンプに県外からも多くの人が訪れます。石見銀山は世界の宝物として認められようとしています。この大切な宝物を君たちの手で未来へ伝えて欲しいと思います。

銀の積出し港だった沖泊の夕日

銀の積出し港だった沖泊の夕日

講演の最後に石見銀山の世界遺産登録について触れています。世界遺産会議において「逆転登録」が決まったのはこの講演から25日後でした。ICOMOS(国際記念物遺跡会議)の勧告によって登録延期の勧告が出されたことで、登録は難しいという雰囲気に包まれていた時期でしたが、登録されるに違いないという思いを最後のスライドに込めて、生徒の皆さんへのメッセージとしました。

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