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出前授業資料

■大田小学校石見銀山学習2018 資料

1.鉱物資源・地下資源とくらし

 「石見銀山って何だろう?」
 このように問いかけると、世界遺産であること、歴史があることなど様々な答えが返ってくると思います。石見銀山には様々な側面があって一言で説明することは難しいものです。それでも一番の根っこの部分を表すなら、「かつてたくさんの銀が採れた鉱山」ということだと思います。16世紀という時代に、当時としては世界でも指折りの量の銀が採れ、その銀によって日本だけでなく世界の経済と文化に大きな影響を及ぼしたのです。

 「鉱山」と言っても皆さんはピンと来ないかも知れません。今、皆さんの生活で鉱山を意識する機会は少ないでしょう。鉱山とは、人の暮らしに役立つ資源が採れる場所のことです。岩石に含まれる資源が採れる場所が鉱山、地層中にあっても石油は油田、石炭は炭田と呼び分けられますが、これらをまとめて「地下資源」と言います。地下資源は、現代の生活に欠かすことができません。教室の中を見回しても、机や椅子の鉄、窓枠のアルミ、窓ガラスなど、たくさんの地下資源が使われています。

 生活に欠かせない地下資源ですが、日本が自給できる資源はごくわずかで、多くを海外から輸入しています。身近に鉱山の存在を感じることはないでしょうし、製品として出来上がった机や窓を見ても、それが鉱山で採れたものを使っていると意識することはないでしょう。しかし、”地下資源を使えない世界”を想像してみてください。木と石の道具で暮らす石器時代に戻るしかないかも知れません。それだけ地下資源は重要であり、すごく大きな「力」をにもつながります。

 例えば、石油産出国のアラブ首長国連邦は大変豊かな国です。その豊かさの源は石油にほかなりません。世界が石油を買ってくれるので豊かです。そればかりか、石油という「切り札」を握っている国は、お金以上の力さえ持っています。なぜなら、石油がない国は「売ってください」とお願いするしかないのです。資源が「力」を持っているという意味が想像できたでしょうか。

 資源が持つ「力」について長く説明したのは、かつての石見銀山がまさにこの「力」を持つ鉱山だったからです。現代で例えるならアラブの油田のような、世界でも圧倒的な存在だったのが石見銀山なのです。さしずめ、大森はドバイのような町だったと言えるかも知れません。

 では、石見銀山が世界的な存在だったのはなぜなのでしょうか。

 石見銀山が栄えた400〜500年前は、現代ほど地下資源の重要性は高くありませんでした。石油、石炭の燃料資源はまだ使われず、金属の使用も現在よりもずっと少量です。その中で、銀は特別でした。なぜなら、当時の主要な国々の間では、銀は共通の「お金」として使われたからです。石見銀山は、世界共通の「お金」がざくざくと湧き出る、宝の山だったのです。想像してみてください。世界で1、2を争う量の「お金」がでてくる山です。石見銀山の銀を目指して多くの人が動き、物が動き、争いも起きた。その様々な動きは、日本国内から東アジア、さらにはヨーロッパの人々にまで影響を及ぼしたのです。

 石見銀山の銀を目指してヨーロッパの船が中国の南、香港やマカオあたりの港を訪れるようになり、東アジアとヨーロッパの航路が初めてつながりました。それまで、東アジアとヨーロッパの間は、陸路(シルクロード)をはるばる行き来することしかできず、人の動きは限られました。しかし、船が行き来するようになったことで、多くの人が動き、文化の交流が生まれたのです。様々な物や技術、風習がヨーロッパから東アジアに伝わり、またその逆にヨーロッパに伝わったものもありました。日本にキリスト教や鉄砲が伝わったのも、石見銀山をきっかけに航路がつながったためだったと言われています。この文化交流の始まりは、世界の歴史の中で大きな出来事のひとつです。おそらく、世界の歴史に与えた影響の大きさでは、日本国内では石見銀山に並ぶものはないでしょう。そのことが高く評価されて、石見銀山は世界遺産にも登録されました。

法蔵寺山から見た大田の町

写真1
法蔵寺山から見た大田の町。建物、道路、橋、自動車など、様々なものに地下資源が使われ、私たちの暮らしは、地下資源のおかげで成り立っています。

2.石見銀山で銀が採れたわけ

 前置きが少し長くなりました。地下資源の「力」を抜きに石見銀山を理解することはできないことから、現代の石油に例えて説明しました。これからは、地下資源を掘った鉱山としての石見銀山について紹介します。

 鉱山とは何かを説明すると地質学や鉱床学といった学問の分野に深く入り込んでしまうので、それはなるべく避けていくつかのポイントに絞ってお話しします。

 銀が採れるとはどういうことか、ということから考えてみましょう。大地は様々な岩石からできていて、その岩石も様々な成分でできています。そこら辺に転がっている石にも、金や銀を含むものがあるでしょう。しかし、その量はごくわずかです。大地に含まれる物質の平均的な量を計算した人がいて、銀がどれくらい含まれているかも計算されています。どれくらいだと思いますか?

大地(地殻)に含まれる銀の量は?

図1
大地に含まれる銀の平均的な量は、1トンの岩石中にどれくらいの量になるでしょう?

 地球表面の岩石(地殻と呼ばれる部分)に含まれる銀の平均的な量は、1トンの岩石中におよそ0.1gです。正確には、クラークという人の計算によると1トンあたり0.07gとされています。ちなみに、金の場合はもっと少なくもう一桁下、1トンあたり0.004gです。鉄の場合は56kgも含まれているので、銀や金がいかに貴重なものかがわかると思います。

 そこら辺の石にも銀が含まれているものがあるとはいっても、そこから銀を取り出していたら100円分の銀を取り出すために何万円もかけてしまうことになります。不可能ではないでしょうが、産業としてはとても成り立ちません。ところが、地球上には貴重な物質が集まっている部分が所々にあります。その量が、取り出すための費用よりも、取り出した物質を売って得られる儲けの方が大きかったら、その場所は鉱山として成り立ちます。

 では、石見銀山の岩石にはどれくらいの銀が含まれていたのでしょうか。石見銀山の中心は仙ノ山という山で、その所々に銀がたくさん集まっている部分があります。そういう場所を鉱床と呼び、銀を含んでいる石(他の金属などの場合も)を鉱石と言います。昔、石見銀山で掘られていた鉱石は、1トンあたり200〜500gの銀を含んでいました。普通の石と比べると、3000〜7000倍も銀が「集まっている」ことになります。これは明治時代の品質なので、さらに古い江戸時代のはじめ頃にはもっと品質が良いものもあったでしょう。

石見銀山の鉱石に含まれる銀の量

図2
明治時代に掘られていた石見銀山の鉱石は、1トンあたり200〜500gの銀を含んでいました。

 地球上には所々に銀がたくさん集まる場所があり、そのひとつが石見銀山であることがわかりました。次に、どうして銀が集まったかを考えてみましょう。

 石見銀山に銀が集まった理由には、火山が関わっています。仙ノ山は火山です。仙ノ山の西にはこんもりとした山がいくつも集まっています。大小30個以上の山があり、その中で一番高いのは大江高山です。標高808mあり、大田市では三瓶山に次いで高い山です。大江高山を筆頭とする山の集まりは全て火山噴火でできたもので、これらをまとめて「大江高山火山」と呼びます。大江高山火山は200万年前から70万年前頃にかけて幾度も噴火を繰り返し、たくさんの山を作りました。そのひとつが仙ノ山です。

大江高山火山の遠景

写真2
大田市水上町の福原農道から見た大江高山火山。こんもりとした山の中に、ひとつだけなだらかな仙ノ山があります。仙ノ山は火山灰や溶岩のかけらが積もってできた山、他は溶岩でできた山なので、形が違います。

 仙ノ山では、噴火によって山ができた後、活発に温泉が噴き出しました。150万年前頃の仙ノ山では、山の上からもうもうと湯気を噴き出していたことでしょう。この温泉が銀を集める働きをしました。仙ノ山に噴き出した温泉は、地下のマグマから放出された水やマグマのそばで高温に温められた地下水です。マグマから水が出てくると言うと不思議に思うかも知れませんが、温度が高いマグマはたくさんの水を含んでいます。その水は数百度の温度があり、マグマのそばで温められる水もやはり数百度の温度まで加熱されることがあります。地下深くでは、水は100度で沸騰せず、高い温度になることができるのです。

 高温の温泉水(正確には熱水と言いますが、ここでは温泉水と表現します)は、周辺の岩石の成分を少し溶かします。マグマから放出された水にも岩石の成分が溶けています。仙ノ山で湧き出した温泉水は、銀が溶けている割合が多かったのでしょう。この温泉水が岩の割れ目を伝って地下から上ってきて噴き出すまでの間に、岩の割れ目や隙間に銀を含む成分が沈殿して銀の鉱石になりました。

 理科で、温度が高いお湯に塩を溶けるだけ溶かしてから冷ますと、塩の結晶が出てくるという実験をやったことがないですか?

 同じように、温泉水に溶けていた銀は、温泉水の温度が下がるとともに溶けきれなくなって沈殿したのです。このように温泉の働きでできた鉱床には、熱水鉱床という呼び名があります。湯が石を作ると聞くと不思議に思うかも知れません。でも、案外身近な場所でも湯から石ができています。三瓶温泉の湯は濁っていますが、これはカルシウムや鉄などの石の成分が溶けているからです。昔、木の樋(とい)を使って湯を流していた頃、時間が経つと樋の中は湯から沈殿してできた硬い石で覆われていました。もっと温度が高い湯の場合は、金や銀が溶けていることもあるのです。

湯気を吹き上げる雲仙地獄

写真3
長崎県島原市の雲仙岳は活動的な火山のひとつで、1990年代にも大きな被害を発生した噴火を行いました。その中腹にある「雲仙地獄」は高温の温泉が噴き出している場所で、あたり一帯に湯気が立ちこめています。150万年前の仙ノ山はこのような状態でした。

石見銀山の鉱床形成イメージ

図3
石見銀山の銀鉱床は、マグマから放出された水と、マグマの熱で加熱された水が温泉として湧き出したことで作られました。数百度の温度があった水には銀が溶け込んでいて、それが地上まで上昇する間に銀を含む石を沈殿させて鉱石ができました。仙ノ山には、地表近くと地下ではタイプが少し違う鉱床があり、地表に近い「福石鉱床」と呼ばれた鉱床が銀生産の主力でした。永久鉱床は銅が主体で銀を含む鉱床でした。

3.鉱山としての石見銀山の特徴

 500年近く前に石見銀山が世界的に影響するほどにたくさんの銀を生産できた理由として、鉱山としての特徴は重要な部分だと思います。石見銀山は、500年前の技術で岩盤を掘って鉱石を採り、鉱石から銀を取り出すことに適した特徴を持っていたのです。この特徴があったからこそ、石見銀山が「大銀山」として世界に影響することができたのです。

 石見銀山は日本国内では「大銀山」であることは確かで、佐渡金銀山(新潟県)、生野銀山(兵庫県)とともに国内の「三大銀山」と言えるでしょう。しかし、銀の総産出量で見るとこの3つの中では最も少ないと見積もられていて、最大の佐渡金銀山には大きく引き離されています。いずれの銀山も最盛期が古い時代のために正確な産出量は不明とはいえ、石見銀山は国内でナンバー1ではないことは確実です。石見銀山は大正時代には銀、銅があまり採れなくなって生産を休止したことに対し、佐渡、生野は昭和の後半、1980年前後まで生産が続けられましたが、それも鉱山として規模が大きかったことの証です。生産が始まった時代はほぼ同時期で、最初の数十年間は石見銀山が先頭を走るものの、その後は佐渡、生野が追いつき、やがて追い越したのです。石見銀山が世界でも指折りの銀山だったことは確かですが、その期間は短く、銀鉱山の規模としては決して一番ではないのです。

 なお、石見銀山から少し遅れて開発され、世界一の銀鉱山になったポトシ銀山(ボリビア)は総生産量が45,000トンと推定されていて、石見銀山の1,400トンは世界的にみると中規模以下の銀鉱山という評価になります。そのことは、石見銀山が小さいからダメだという意味ではありません。鉱山としては小さいにもかかわらず、一時は世界屈指の大銀山であり、世界の歴史に大きな影響を与えたなんて、すごいことではないでしょうか。小さな鉱山が大銀山になったことに、自然と歴史の面白さが潜んでいると思います。

 小さな鉱山が大銀山になったのはなぜか。先に「500年前の技術に適していた。」と紹介しました。石見銀山の開発が始まった頃から明治時代のはじめの約150年前までの間、鉱石を掘り出す作業は、かなづちとたがねによる手作業です。岩盤の硬さは、掘るスピードに直接関係します。もちろん、機械や爆薬を使う現代でも硬い岩盤を掘り進めるには時間がかかりますが、手作業で硬い岩盤に挑むのはなおさら大変です。しかし、仙ノ山の岩盤は柔らかく、掘りやすいものでした。それは山が形成された大地の歴史と関わりがあります。

 仙ノ山は溶岩のかけらである「火山れき」と火山灰が積もってできた山です。その岩盤は隙間だらけです。銀の鉱石は、この隙間だらけの石の隙間に銀(を含む鉱物)が沈殿したもので、やはり隙間だらけの軟らかい石です。掘り進めるには好都合です。しかも、掘っている途中で崩れ落ちる部分が少ない岩盤でした。鉱山では、硬い岩盤であっても所々に割れ目が集まっている部分があることが多く、掘り進めると落石、落盤の危険性があります。仙ノ山の場合は、もともともろい岩盤ではあるものの、大きな割れ目が少なく、坑道(間歩)の内部での落盤が少ないのです。

 他の鉱山と比べるとどうでしょう。多くの銀鉱山の場合、銀は「石英」という硬い石の岩脈(鉱脈)に含まれています。石英の綺麗なものは水晶と呼ばれる硬い石です。鉱脈以外の岩盤も、れきや火山灰の土砂が積もってできた仙ノ山のように軟らかいことは滅多になく、ずっと硬い岩盤です。石見銀山とほぼ同じ頃に開発が始まった佐渡金銀山の場合、坑道を掘り進める速度は、1日で10cmほどだったと言われます。石見銀山の場合は30cmも掘り進んだということで、3倍も早く掘ることができたことになります。早く掘ることができれば、同じ時間で掘り出すことができる鉱石の量も多くなり、たくさんの銀を採ることができる可能性があります。鉱石の品質など他の理由もあるので、単純ではありませんが確実に有利です。

石見銀山の福石

写真4
石見銀山の代表的な鉱石で「福石」と呼ばれた石。「火山れき」が集まってできていて、そのすき間を黒い脈が埋めています。この脈の中に銀が含まれます。銀を含んだ温泉水が火山灰やれきが積もった地層に染み込んで、このような鉱石を作りました。

 石見銀山の鉱石の掘りやすさには、もう一つのポイントがあります。それは「広い範囲が鉱石」ということです。ぴんと来ない話だと思うので、岩盤の中で鉱石がある部分=鉱床のイメージを少し説明します。先ほど紹介したように、鉱石は温泉が作りました。温泉は岩盤の割れ目を伝わって流れ、その割れ目に銀などの成分を沈殿させるのです。硬いちみつな岩盤の場合、温泉は岩にはほとんど染み込むことができませんから、割れ目の部分だけに鉱石ができます。ところが、仙ノ山はれきと火山灰が積もった山ですから、砂場で作った砂山のようなものです。温泉は山の広い範囲に染み込みます。すると、温泉が染み込んだ部分が広く鉱石に変わったのです。

鉱床の形のイメージ

図4
仙ノ山では岩盤の広い範囲が鉱石です。多くの鉱山の場合、岩盤の割れ目部分だけに鉱石ができ、細い脈になります。(これを鉱脈と言いますが、実際は板状の形です。立体的な広がりを想像できるでしょうか。)

 図4は上が仙ノ山、下が普通の鉱山のイメージです。地下の様子を立体的にイメージすることは難しいと思いますので、ここでは平面のイラストで考えてみましょう。細い坑道を掘って鉱石を取り出す場合、どちらが掘りやすいか想像できるでしょうか。仙ノ山の場合、広い部分では縦横10mくらいの範囲が鉱石です。脈の場合は幅50cmくらいが普通でしょう。

 次の図5は掘り進めた様子をイラストにしてみました。たがねとかなづちで掘ることができる量はわずかなものですから、無駄に掘り広げることはできません。細い脈の場合、坑道の先端にいる一人が鉱石を追いかけて掘り続けるしかありません。上下に分かれて掘るにしても、それほど大人数で作業することはできません。ところが、仙ノ山のように鉱石が広がっていると、何人もが壁に向かって掘り進めたら、人数分だけ鉱石を採ることができます。かなり単純化していますが、石見銀山は手作業で掘る時代には作業の効率がとても高い鉱山で、たくさんの鉱石を採ることができたのです。その優位性は、採掘の技術水準が低い時代ほど生産の効率に大きく影響したのではないでしょうか。

鉱床の形のイメージ

図5
鉱石が広がっている部分(上)では、大勢が一度に鉱石を掘ることができるが、脈の場合は作業できる人数が限られます。石見銀山は上のタイプです。なお、石見銀山も地下の少し深い部分には下のタイプの鉱床があります。

 実際、仙ノ山の地下には鉱石を掘り広げたあとに残った大空間がいくつもあります。明治時代の測量図には10カ所以上が描かれていて、そのうち7カ所には「福石場」という名前が付けられています。この空間こそ、石見銀山の「掘りやすさ」を物語る証拠です。図5は測量図の一部で、大久保間歩という大きな坑道(間歩)の奥の部分です。緑色に色をつけた部分が福石場です。大久保間歩の開発は江戸時代になってからですが、それより以前には地表にも福石場にあたる場所があったと想像されます。地面を掘っていけばあたり一帯が全て鉱石という状態があったのではないでしょうか。

石見銀山福石鉱床の坑道測量図の一部

図6
明治時代に石見銀山を再開発した際に坑道を測量した図面の一部です。明治時代に掘った部分もありますが、ほとんどは江戸時代に掘られた坑道です。福石場と書かれた広い空間があり、大きなものは長さ20m、幅10m、高さ10m以上に達します。

 石見銀山は鉱石も軟らかかったので、掘った後の作業効率も良かったと思われます。掘り出した鉱石は、品質の良い部分を目で見て選り分けてから、「かなめ石」という石(写真5)の上で砕きます。砂つぶくらいまで砕くと、水の中で揺すって重たい部分だけを選る「わんがけ」という方法で質の良い部分だけを取り出します。石見銀山の鉱石は、砕く作業の効率も良かったと想像されます。

 鉱石を砕いたかなめ石は、大森町内に大量に残っています。これは、大勢で作業していたことを物語るものでしょう。同時に、大勢で砕かなければ間に合わないくらいたくさんの鉱石が掘られていたということでもあると思います。石見銀山は、実に生産性が高い鉱山だったのです。

鉱石を砕くために使ったかなめ石

写真5
鉱石を砕くために使ったかなめ石。くぼんだ部分で細かく砕いた後、「ゆりぼん」という木皿の上に鉱石を乗せて水の中で揺らし、銀を含む重たい部分を選り分けました。

 石見銀山にとっての幸運は岩盤と鉱石の硬さだけではありませんでした。砕いて選り分けた鉱石は、炉の中で溶かして銀を取り出します。より分ける作業から銀を取り出す作業のことを「製錬」と言います。この製錬のうち、炉で溶かす工程でも有利な点がありました。

 石見銀山では、国内で最初に「灰吹法」という製錬技術が導入されたとされます。石見銀山に伝わった技術は、鉱石を溶かす段階で鉛を混ぜて、鉱石の中にある銀を鉛に吸い取らせるというものです。鉱石の中では他の物質と混じっていた銀は、溶けた鉛に出会うと他の物質から離れて相性が良い鉛に混じって合金になるのです。この銀と鉛の合金は「貴鉛」と呼ばれました。最終工程では、貴鉛を松葉や動物の骨を燃やした灰の上で溶かして、鉛だけを灰に染み込ませて銀を取り出しました。

灰吹法のイメージ図

図7
灰吹法のイメージ図。鉱石の中には、銀の他にも鉄やマンガンなど様々な物質が含まれていて、溶かしただけでは混じった状態のままです。ところが、鉛を一緒に溶かすと銀は鉛と混じります。銀と鉛の合金は重く、溶けた液の下部にたまるので上澄みを流して捨てると、合金を取り出すことができます。この合金を灰の上で空気を送りながら溶かすと、鉛は灰に染み込んで銀が残ります。(Ag:銀、Pb:鉛)

灰吹法のイメージ図

図8
銀と銅が混じる鉱石を灰吹法で製錬した時のイメージ図。銀、銅、鉛が一緒に溶けると、やはり合金になります。この合金を灰の上で溶かすと、銀と銅の合金が残り、銀だけを取り出すことはできません。銀と銅を分ける技術は「南蛮吹」といい、江戸時代のはじめ頃に日本に伝わりました。(Ag:銀、Cu:銅、Pb:鉛)

 この技術が導入されたことで、石見銀山の銀生産は飛躍的に増えたのですが、灰吹法にはひとつの弱点があります。それは、銀と銅が混じった鉱石から銀だけを取り出すことはできないのです。多くの銀鉱山では、銀は銅と混じった状態で鉱石の中に含まれています。ところが、石見銀山の福石は、銅をほとんど含みませんでした。伝わったばかりの技術で質が良い銀を取り出すことができた、すなわち「取り出しやすかった」のです。このことも石見銀山にとって大きな優位性でした。

 石見銀山は世界的に見れば小さな銀鉱山です。その生産量は、現代の銀生産量からみるとわずかなものですが、400年から500年近く昔の時代には世界でも指折りの、一時は世界一だったと言える量でした。当時は全体の生産量が少なく、その中で石見銀山は圧倒的とも言える量を生産したのです。「鉱石の品質がものすごく良かったから量産できた。」という考え方もあるでしょう。部分的には素晴らしい品質の鉱石があったはずです。しかし、古い時代に開発された鉱山は、初期には高品質の鉱石が採れることが珍しくありません。それ以前に、福石という鉱石は高品質にはなり得ないタイプなのです。

 それにも関わらず石見銀山が世界の歴史に影響を与えるほどの銀の生産に成功したのは、岩盤や鉱石の性質が当時の技術に適した「掘りやすく、取り出しやすい」ものだったからです。もちろん、開発に携わった人の技術や、いち早く灰吹法を導入できた技術交流という歴史的な背景も見逃すことはできません。それにしても、火山噴火でできた仙ノ山の岩質、鉱床の性質ぬきには、石見銀山の成功を語ることはできないでしょう。石見銀山は、大地が大田にもたらした宝物なのです。そして、大田市には他にも大地がもたらした宝物がたくさんあります。いつか機会があれば、石見銀山以外の宝物についても紹介したいと思います。

このページは2018年11月27日に大田市立大田小学校6年生の石見銀山学習として石見銀山を自然史的な面から紹介した際の資料です。
ご質問があれば、お問い合わせフォームからお寄せください。

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