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出前授業資料

■大田二中波根湖学習資料

2015年2月27日 説明の概要と使用画像

はじめに

 大田市久手町と波根町にまたがる広い水田地帯には、1950年まで「波根湖」という湖が存在しました。大正時代には波根旅館街の賑わいとともに観光地として栄え、湖上には宴会場まで建てられていました。この湖は第二次世界大戦後の食糧難の時代に水田に変えられて現在に至っています。湖があった時代を知る人も次第に少なくなり、忘れられつつある部分もありますが、この湖の水田化は日本の農業史において重要な意味がある出来事で、大田市が誇るべき地域の歴史のひとつなのです。
 今日は、大田二中のみなさんに波根湖の湖としての特徴と、水田に変化した技術史的なことを紹介したいと思います。

 本題に入る前に、自分自身の波根湖との関わりを少しお話ししましょう。
 学校の図書館を探すと、「波根湖って知ってますか?」という冊子があると思います。大田市教育委員会が1998年に作成して市内の学校に配ったものです。これを執筆したのは松井整司先生という、大田高校で長く理科を教えていた先生でした。松井先生は1994年から1997年にかけて島根大学が行った波根湖の総合的な調査に関わっていました。この研究の報告書として「波根湖の研究」を大学が発行し、松井先生がそれを中学生向けに再編集して大田市が発行してくれたものが「波根湖って知ってますか?」です。自分自身は学生として大学の調査に関わり、「波根湖の研究」の共同執筆と編集を担当しました。当時はこうして地元の中学生に波根湖の話をする日が来るとは思っていませんでした。20年前に調べたことが皆さんの参考になれば幸いです。

波根湖という湖

 写真1は1999年に国土地理院が撮影した久手町から波根町にかけての空中写真です。写真の中央付近に規則正しく区画された水田がありますが、ここがかつて波根湖があった部分です。皆さんは「久手田台(でんだい)」、「波根田台」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。大田市では水田が広がる場所を「田台」と呼びます。波根湖跡の田台を例えば大原川の土手から眺めると浅い皿のように広い水田の中央付近に向かって緩やかに低くなっていることに気づくかも知れません。湖だった時の地形がそのまま残っていて、中央あたりは大変低い土地です。

 写真3は1947年にアメリカ軍が撮影した空中写真です。第二次世界大戦後に日本を占領したアメリカ軍は、全国の空中写真を撮影しており、そのうちの1枚です。これは波根湖を上空から写した貴重な写真です。波根駅あたりから柳瀬の砂州が伸びて、その南側に湖面が広がっています。そして、掛戸(写真4)で海につながっていました。掛戸は鎌倉時代に久手の有力者だった有馬氏が親子2代で切り開いて作ったと伝わる人工水路です。掛戸が伝承の通り有馬氏が開削したものかどうか定かではありませんが、人工的に切り開いたことは確かなようで、それ以前は柳瀬の砂州のどこかが切れて海と繋がっていました。もともと、波根湖は入江の入り口に砂州ができたことで海と隔てられた湖です。このようにできた湖は「潟湖(せきこ)」と呼ばれます。「海跡湖(かいせきこ)」という呼び方もありますが、こちらはあまり使われないかも知れません。 入江が砂州で海から隔てられた湖なので、湖底の高さは海面より低く、海と繋がった部分から海水が入ってきます。そのため、波根湖は淡水と海水が混じる汽水湖でした。

波根湖学習スライド

写真1:1999年撮影の空中写真。規則正しい区画の水田が広がっていることがわかる。

波根湖学習スライド

写真2:大西大師山から撮影した水田地帯。水田の先の丘陵が途切れている部分が掛戸。

波根湖学習スライド

写真3:1947年にアメリカ軍が撮影した空中写真。波根湖が写る貴重な写真。

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写真4:掛戸の切り通しと掛戸松島。切り通し部分には岩盤を掘り込んだ溝と石垣を組んだ潮留水門の跡が残る。

汽水の潟湖について、中海を例に見てみましょう(写真5)。 中海は日本で5番目に広い湖で、米子から境港へ弓なりに伸びる「弓ヶ浜砂州」で日本海と隔てられています。この砂州は、米子市の東部を流れる日野川が運んだ砂が海流でさらに移動して形成されたものです。中海は典型的な形の潟湖と言えるでしょう。
 あらためて1947年に撮影された波根湖を見ると(写真6)、柳瀬の砂州が伸びて入江が隔てられたことがイメージできるのではないでしょうか。また、久手の町も柳瀬より少し古い時代の砂州です。ずっと古い時代の波根湖は、掛戸がある丘を境に、西は久手、東は柳瀬の砂州によって海から隔てられていたのです。

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写真5:島根県と鳥取県にまたがる湖、中海。中央付近の島は大根島、その東に江島がある。黄色の矢印部分に日野川が流れている。

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写真6:波根湖と砂州の関係。波根側から伸びる柳瀬の砂州は鰐走城跡の丘陵に向かって伸びる。久手側ももともと砂州としてできた地形。

潟湖の特徴

潟湖の特徴について、中海と宍道湖を例に紹介します(写真7)。中海は海につながる典型的な潟湖です。宍道湖は変則的な潟湖で、もとは西に向かって開いていた入江ですが、入江の入り口は土砂によって完全に埋まって広い平野(出雲平野)が形成され、海とは切り離されています。普通、このように海から切り離されたら淡水になるはずです、宍道湖の場合は入江の一番奥の部分(東側)で中海につながっていました。入江の入り口が閉じてからも、中海を通じて海水が入り込みます。そのため、中海の塩分は3分の2程度、宍道湖は10分の1程度という塩分が異なる汽水環境ができています。塩分の違いにより、中海と宍道湖では生息する生物にも違いがあります。宍道湖でたくさん採れるシジミは中海では川の河口部分しか生息しておらず、漁獲されていません。その代わり、50年ほど前までの中海は一般に「赤貝」と呼ばれるサルボウガイがたくさん採れました。その頃の中海は漁業が盛んで、湖としては日本一の漁獲高だったこともあるそうです。

 さて、先ほど、中海と宍道湖で塩分が異なると言いました。その塩分は常に一定ではなく、湖に入り込む海水の量や川の水の変化によって変わります。中海は海水とほとんど変わらない塩分になることもあります。また、湖の中の上層と下層でも塩分が異なります。海水は淡水よりも重いために下に潜り込み、上層は塩分が低く、下層は高くなります(図1)。塩分が異なる水は意外なほどに混じり合わず、明確な境界を作って重なります。風が吹いて波立てばこの境界は壊れて水が混じりますが、穏やかな日が続くと深い場所の海水は何日も動かないことがあります。そうなると、水中の生物によって海水中の酸素が使われてしまい、無酸素の水ができます。海水が混じる汽水湖では、下層に無酸素水の層ができて生物が死んでしまうことがあり、特に夏季にそのような現象が発生します(図2)。
 波根湖の場合、5000年以上前は10mより深い水深があり、底の方に入り込んだ海水は上層の水と混じることはほとんどなかったようです。そのため、下層は常に無酸素状態になり、生物が生息していませんでした。 1994年に波根湖研究で行ったボーリングでは、波根湖の底に溜まった泥の地層に厚さ1〜2mmで繰り返される縞模様が発見されました(写真8)。これは、夏にはプランクトンが多く沈み、冬には泥の割合が多くなることを繰り返すことでできたもので、「年縞(ねんこう)」と呼ばれる特殊な地層です。湖底に生物が生息していないため沈んだ泥がかき乱されずにそのまま残り、年縞が形成されたのです。このような地層が残されるのは汽水湖ならではの特徴です。大変珍しい地層でもあり、波根湖での発見は福井県の水月湖で国内で最初に年縞が確認されてから間もない頃で、国内2例目の発見でした。

 話がそれますが、年縞が発見されたボーリングとは別のボーリングでは、海面を漂って流れ着いた韓国の鬱陵火山の軽石層も見つかっています。約1万年前に噴出され、日本海を漂って波根湖に流れ着き、当時の湖岸に堆積したものです。鬱陵火山から流れ着いた軽石の層は国内では他に発見例がないもので、当時の海面の高さが現海面下14m付近にあったことを示す重要な証拠でもありました。

波根湖学習スライド

写真7:宍道湖・中海の地形と生息する主な魚介類。

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図1:汽水湖の水の動きのイメージ図。海水は下に入り込み、その上を河川から流れてきた淡水が流れる。淡水と海水の境目を塩分躍層という。

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図2:塩分躍層が長時間維持されて下層に海水が滞ると、水中の酸素が消費されて無酸素水になる。

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写真8:波根湖で採取したボーリング資料(棒状に採取した泥)のレントゲン写真。はっきりした縞模様が年縞。

港としての波根湖

 古代から中世頃までの山陰海岸にはいくつもの潟湖がありました。日本海は満潮と干潮の差が小さく、潟湖が形成されやすいのです。その潟湖の中には、港として使われたものがありました(図3)。益田潟(益田市)は九州などとの交易拠点として中世の益田の繁栄を支えました。下府潟(浜田市)と淀江潟(米子市)のそばには塔を持つ古代寺院があり、やはり交易拠点だったことを物語ります。古代の出雲大社の南には神門水海(かんどのみずうみ)があり、古代出雲の拠点的な水域だったと推定されます。山陰では潟湖が交易の拠点だったのです。

 波根湖も交易拠点のひとつだったと推定されます。中世に中国で記された記録には、石見の代表的な港の一つに「ハネ」と読めるものがあり、波根湖意外にこれが当てはまる港はありません。波根町大津の地名は「大きな港(津)」に由来するとみられますが海には面しておらず、かつての波根湖湖岸にあたる場所が大津です。波根湖が港として使われた可能性を支持する地名です。そして、大津の東には塔を持つ古代寺院「天王平廃寺」があったことがわかっています(写真9)。天王平廃寺が建てられた白鳳時代は仏教が日本に伝わってから間もない頃で、塔を持つ寺院は都市や人が行き交う拠点に作られました。下府廃寺(浜田市)、上淀廃寺(米子市)が潟湖のそばに建てられたのは、そこが港として使われたことを物語ります。天王平廃寺があった波根湖もまた港だったのです。
 また、16世紀に石見銀山を巡って争奪戦が繰り広げられた時には、安来を本拠とした尼子氏は波根湖に水軍を展開して毛利氏と戦ったと伝わります。
 「波根湖の研究」では、中世の波根湖に大陸との交易を行うような大型船が入ることができたのかについての議論もあります。地元の伝承のとおり、鎌倉時代に有馬氏が掛戸を切り開いたのなら、すでに大型船が入ることができる水路がなかった可能性が高いのです。関心がある方は、読んでみてください。

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図3:島根県の主な消滅潟湖と遺跡の関係。

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写真9:天王平廃寺の塔を支えた礎石。丸く削られた部分に太い柱が立っていた。国道9号線の建設工事時に出土し、現在は道路脇に置かれている。

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写真10:山口市にある瑠璃光寺の五重塔。形は違うだろうが、このような塔が波根湖を見下ろす位置に建っていた。

湖から陸へ

 湖は底に砂や泥がたまることで浅くなり、やがて陸化して消滅する運命を持っています。世界で最も長い時間存在している湖はロシアのバイカル湖で100万年以上の歴史を持ちますが、これは異例で多くの湖は数万年も持たずに陸化します。波根湖は約1万年前に形成され、最も深い時には水深30m前後ありましたが、年に2〜5mmずつ砂や泥が溜まり続け、1945年頃の水深は1mほどしかありませんでした。湖としては終わりに近い段階だったのです。
 その浅いことが、波根湖が水田に変わる契機になりました。

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図4:波根湖の底に堆積した泥の層のイメージ図。干拓直前の水深は1m前後で、現在の神西湖と広さ、浅さが似た湖だった。干拓場所を選定する段階で、波根湖と神西湖が比較され、漁業が行われていなかった波根湖が選ばれた。

 昔の日本は慢性的に食料不足でした。米をより多く作るため江戸時代には水田の開発が盛んに行われ、波根湖の浅瀬は埋め立てられて水田に変えられていきました。石見銀山の代官だった川崎平右衛門が波根湖で水田開発を行ったことが記録に残っています。同じように全国で水田開発が行われました。
 波根湖については、大正時代から昭和の前半に全体を水田にすることが計画され、戦中の1943年には事業化されながら、第二次世界大戦の戦況が悪化したことで、事業はいったん棚上げされました。そして、1945年に終戦を迎えると、戦中からすでに食料不足が深刻になっていたことに加えて、朝鮮や満州で暮らしていた人たちや兵隊として戦線へ出兵していた人たちが帰国したことで食糧難が深刻化し、食料増産は国にとっての大きな課題になりました。このような時代的背景の中で、1948年に波根湖の水田化が再開されました。

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図5:日本の人口推移。総人口と対前年変化。太平洋戦争終戦の直後、外地からの帰還により対前年の人口が急増し、食糧難に拍車をかけた。

 波根湖の水田化は、土砂で湖を埋める方法ではなく、湖の水を汲み上げて陸地化する干拓によって行われました。波根湖は海につながっており、干拓で陸化するには堤防で囲って水が入らないようにする必要があります。現在の大原川の堤防は干拓のために作られたものです。もとの波根湖の西岸に堤防を作って大原川をその外側に迂回させて掛戸から直接海に流れ出るようにした上で波根湖の水をくみ出して陸地化していきました。
6emsp;湖を水田に変える干拓は、内陸では京都にあった池の干拓などの実績がありましたが、海水が入る水域を大規模に干拓したのは波根湖が国内では最初でした。海水が混じる場所では、塩類によって稲の成長が阻害され、枯れることもあります。海水が入る水域で堆積した泥には、塩類に加えて硫黄分が多く含まれ、乾燥が続くとそれが稲を枯らしてしまいます。波根湖の干拓地では、2年目から塩類による塩害と硫黄に関連する酸性障害が発生し、それを克服するために大変な苦労がありました。海水が入る水域を干拓した事例がなく、対処方法がわからなかったのです。 しかし、農業普及員として干拓後の水田開発に関わった高橋氏らはさまざまな事例を調べて対策を検討し、大量の石灰を水田に投入して酸を中和するなどの取り組みを行いました。石灰の投入は酸性障害に有効で、水田としての利用がようやく軌道に乗りました。
 波根湖干拓以降、秋田県の八郎潟干拓をはじめ、汽水や海水の湖や入江の大規模な干拓が行われ、波根湖での経験が役立てられました。波根湖干拓は日本での近代的な干拓事業の先進例なのです。

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図6:干拓のイメージ図。波根湖では、以前の大原川の河口部分から掛戸まで、湖岸の西側に干拓堤防を作り、掛戸に近い排水機場で揚水した。

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写真14:大原川の河口部分は調整池と呼ばれる池になっている。その向こうの干拓地は調整池の水面より低い。

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写真15:排水機場。この中にあるポンプが停止すると、干拓地は湖に戻ってしまう。

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図7:波根湖干拓の歴史。

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図8:国内の主な干拓地。海水が流入する環境で水を動力(ポンプ)で常時排水して陸化する方式の干拓では、波根湖が国内最初の事例。

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図9:国内の主な干拓事業の一覧。

 波根湖干拓地には苦労する面もあります。海面より低い土地が広がり、常に排水ポンプを動かし続けておかないと水没してしまいます。土地を維持するために排水ポンプの維持費と電気代がかかり続けます。湖の底に溜まった泥はとても柔らかく、水をたっぷり含んでいるために地盤沈下が発生します。波根湖干拓地では、橋が道路よりも高くなっていて、急な坂で繋がれている部分があります。もともと橋を作った時には高さの差はあまりなかったのですが、道路の部分の地面が沈んだために段差ができてしまったのです。道路を高くするために砂利を敷き詰めて盛り土しても、その重さで沈下が起こり、やはり段差になってしまいます。地盤沈下は水を含んだスポンジを押すようなもので、重さがかかると水が逃げ出して、その分だけ沈んでしまうのです。柔らかい泥のために、大きなトラクターで水田を耕すとはまり込んで動けなくなることもあります。さらに、地面が乾いた状態が続くと塩類やイオウ分が地下から染み出してきて、稲の生育を妨げる塩害や酸性障害が発生します。水を張って塩類を洗い流したり、石灰を入れて中和する作業が必要になります。干拓地では、苦労を重ねながら農業が続けられているのです。

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図10:酸性障害を起こすイオウの変化。海水中に含まれるイオウは、黄鉄鉱として地層中に閉じ込められている。これが参加すると強い酸性の硫酸が発生し、植物の生育を妨げる。

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写真16:大原川にかかる橋。干拓地側が大きく沈み、橋の部分が極端に高くなっている。だんだができる度に舗装し直して急な坂になった。

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写真17:大原川にかかる橋。堤防の護岸が下がって割れ目ができている。橋の基礎は深い地盤でしっかり支えられていて沈まないためにこのような城田になる。

中止された巨大事業

 最後に、干拓と関係する話題をひとつ紹介します。
 潟湖の例で紹介した中海と宍道湖は、国内で5番目と7番目に広い湖で、ひと続きの汽水域としては日本最大です。かつて、この水域を干拓・淡水化する計画があり、工事がほぼ完成しながらもそれが中止された歴史があります。
 宍道湖中海干拓淡水化事業は、波根湖の干拓事業と同じく第二次世界大戦後の食糧難の時代に計画が立てられました。1963年に国営中海土地改良事業として着手され、中海の一部を堤防で囲って干拓し、中海の残りの部分と宍道湖を淡水化して農業用水を確保する計画です。1980年代には中海の北部(本庄工区)を囲む干拓堤防と水を汲み出すための排水機場(森山排水機場)、海水の流入を止めるための水門(中浦水門)が完成します。しかし、日本はすでに「コメ余り」の時代になっており、米の生産量を減らす「減反政策」が進められる中で、広大な水域の環境を改変して干拓地を作ることに対する疑問の声が沸き起こり、干拓淡水化事業に対する反対運動が盛んになります。干拓によって得られる経済的なメリット、デメリット、環境を改変することによる影響などについて、島根大学の研究者を中心に社会科学、自然科学の研究も盛んに行われました。 そして、コメ余りという社会的背景に加えて、干拓淡水化に反対する住民の意見が大きくなったことから、事業の実施は1988年に延期されます。延期後も、事業推進と反対のそれぞれの立場でさまざまな検討、研究、議論が重ねられました。先に紹介した波根湖の研究も、干拓淡水化事業を科学的に検証する研究と関連するものでした。

 長年にわたり蓄積された科学的な情報と、住民らによる議論は行政を動かしました。2000年に本庄工区の干拓の中止が決まり、宍道湖中海の淡水化も2002年に当時の澄田信義島根県知事が「中止が適当である」ということを表明、翌2003年についに干拓淡水化のすべての事業の中止が決定されました。総工費は851億円にのぼり、これほどの規模の国家事業が中止されたのは初めて、とりわけ、工事としてはほぼ完成していたにも関わらず中止されたことは異例なことでした。
 事業の中止決定後、すでに設置されていた施設の撤去が行われました。干拓堤防の一部はすでに生活道路として機能していたことから残されましたが、道路としても使われていた中浦水門は撤去され、代わりに江島大橋が架けられました。堤防に囲まれたことで生物が減少していた本庄工区は、堤防の一部を掘削して水路を作り水を導入する配慮が行われ、事業が中断していた期間に比べて中海の環境は改善されました。 2005年、宍道湖・中海は水鳥などの生物の生息地を保全する国際条約「ラムサール条約」の登録地になりました。現在、この水域は国内最大の冬鳥の越冬地として知られています。無数のカモやハクチョウが湖面に浮かび、シジミ漁の船が行き交う光景は島根県の象徴的な景観のひとつでしょう。この光景には、干拓淡水化を取り巻く数十年の歴史があることを皆さんにも知っておいて欲しいと思い、この話を波根湖学習に加えさせてもらいました。

波根湖学習スライド

図11:干拓が計画されていた宍道湖と中海。中海にある大根島と江島をつなぐ堤防で囲まれた範囲が干拓が予定されていた本庄工区。

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