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調査記録などのメモ

■大田の産業に足跡を残した加藤家吉永藩

 吉永藩は江戸時代の前半(1943〜1682年の間)に大田市川合町に陣屋を置いて20ヵ村を支配した小藩です。この藩の領主である加藤家は40年の治世の間に、三瓶山での牛の飼育をはじめ、さまざまな経済振興策に取り組み、そのいくつかは現在の大田市の産業や景観に影響を及ぼしています。

 江戸時代のはじめ、この地域は幕府が直轄する石見銀山領でした。江戸幕府は重要な財源となる石見銀山とその周辺の広い範囲を直轄管理したのです。石見銀山領を支配したのは幕府から派遣された奉行と代官で、領主が支配する藩とは体制が違ったのです。吉永藩は天領の一角を割く形で置かれ、40年の治政の後にはその領地は再び石見銀山領になるという異例の歴史があります。

 短い治世の中で多くの実績を残した吉永藩。記録がほとんど残っていない幻の存在でもありますが、大田地域の歴史において大きな存在に違いありません。

加藤家吉永藩の位置

吉永藩の位置。幕府直轄の天領を割く形で吉永藩が置かれた。

1.吉永藩の藩主、加藤家

 吉永藩を率いた藩主は加藤明友という人物でした。本人はほとんど江戸にいて幕府の役職を務め、大田を訪れたのはほんの数回だったと考えられていますが、その家臣らが藩を支えました。

 加藤家は、大田へ来る前は会津藩(福島県)で40万石を所領する大大名でした。会津藩初代領主の加藤嘉明ははじめ豊臣秀吉、のちに徳川家康に仕えて功績を残した人物で、伊予(愛媛県)20万石の領主として伊予松山城の築城と城下の整備を手がけ、その後、加領されて会津へ転封しました。

 ところが、嘉明の子である明成は家老の堀主水と争い、「会津騒動」と呼ばれる内乱を招きました。この内乱は藩主としては大変な不祥事で、所領をすべて取り上げられる「お家断絶」になっても仕方ない事態だったものの断絶は免れ、1万石に減封されながらも存続を許され、1643年に大田に転封になりました。断絶を免れたのは、嘉明の功績や加藤家の家臣らが持つ技能を評価されたと推定されています。

 会津を後にした加藤家は家臣団を引き連れて、陸路を新潟まで移動した後、海路で大浦湊(五十猛町)に渡り大田に来ました。家臣は約80名と考えられ、家族や職人らを合わせると500人以上が大田へやって来たと推定されています。

 大田に来た一団は、はじめは大田南村に逗留して拠点となる地を検討し、はじめは大田北村の現大田市駅付近を候補としたものの水の便が悪いことから諦め、吉永に陣屋を構えました。

2.吉永藩の領地

 石見銀山領の一部を割いて加藤家に与えられた領地は、吉永村(川合町と大田町)、川合村(川合町)大田南村、大田北村、市野原村(大田町)、刺鹿村(久手町)、朝倉村(朝山町)、神原村、山中村、才坂村(富山町)、小豆原村、多根村、池田村、小屋原村、志学村、長原村、加淵村、上山村、円城寺村(三瓶町)、東用田村(長久町)で、安濃郡のかなりの部分にあたります。

 海岸に面して港がある鳥井村(鳥井町)と波根西村(久手町)、波根東村(波根町)は所領しておらず、飛び地として石見銀山領のまま残されました。港を代官所が直営するとともに、この一帯の海岸にあった松林は銀の製錬に用いる灰の原料を調達する場所だったことから、銀山領とされたそうです。また、出雲国との境で山陰道の島津屋関所があった仙山村(朝山町)も銀山領で、要所は吉永藩に渡さないという幕府の意図が見え隠れする領地でした。

加藤家吉永藩の領地

吉永藩はおもに安濃郡を領地とした。港は幕府領とされており、石見銀山領との複雑な関係をうかがい知ることができる。

3.吉永藩が大田で取り組んだ事業

 吉永に陣屋を構えた加藤家はさまざまな事業に取り組みました。明成は吉永の陣屋で蟄居し、明成の子、加藤明友が家長となりますが、明友は江戸で奏者番という重職についており、大田での事業を直接指揮したのは家臣らでした。会津で40万石の大藩を支えた家臣には優秀な人材が多くいたのでしょう。

 大田で取り組んだ事業としては、次のことが伝わります。

 ・三瓶の原に牛を放牧
 ・浮布の池に鯉の養殖
 ・山林植樹の奨励
 ・桐・柿・梅等の植樹
 ・漆器の製造
 ・土木事業(堤防改修・用水等)
 ・備荒貯蓄のため貯穀(慈恩の釜)
 ・吉永鉱山・鈩製鉄の試み
 ・交通路の整備

 三瓶山での放牧は現代まで受け継がれ、今も島根県でトップクラスの生産高を有する大田市の畜産業の基盤になっています。西の原の景観に代表される牧野景観は三瓶山の象徴的な景観で、国立公園指定の指定時(1963年)もこの景観が高く評価されました。この景観もまた吉永藩の事業に端を発するものです。

 吉永藩が手がけたとされ、今も使われている用水路として、三瓶川から取水して大田町の橋北と長久町の川北の田を潤す守山(森山)用水があります。加藤家は会津では磐梯湖からの用水を行っており、その技術を導入したことが想像できます。ため池の整備も行い、富山町の徳田池は吉永藩が作ったと伝わっています。天然湖沼の浮布の池でも、そこから取水する用水の整備を行い、周辺の水田に水を供給したと伝わります。

 吉永藩は領地での農産業の発展を中心にてがけ、家臣と領民の暮らしを支えたことがうかがわれます。40年の短い治世で文書などの資料もごくわずかしか残っていないにもかかわらず、この地を去ってから340年経った今も語り継がれていることは驚くべきことで、革新的な取り組みを数多く行ったことが想像されます。

4.石見銀山代官と周辺の領主にとっての吉永藩

 幕府から派遣される代官は重職とはいえ一役人の立場です。代官にとって、減領されたとはいえ、もとは40万石の大大名だった加藤家は「格上」の存在にあたり、加藤家にとっても代官の背後にいる幕府は決して逆らうことのできない存在です。吉永藩と代官の関係は互いに緊張感があったと想像されます。吉永藩に関する資料がほとんど残っていないことは、加藤家が大田を去る時に「格下」の代官に資料をゆだねることはなかったことが一因と考えることもできます。

 物部神社に残る石見銀山領の記録では、吉永藩が治世した40年間について「年殺」と書かれているのみで記載がなく、そのことからも代官にとって吉永藩が目障りな存在だったことが想像されます。

 領地が一部で隣接する松江藩の松平家にとっても、加藤家は一目置かざるを得ない存在だったと想像されます。実力で会津の大大名に出世した加藤家は、藩を経営する能力と実績があり、この点では松平家を上回っていたと思われます。領地は接していないものの、浜田藩主にとっても同じように一目置くべき存在だったでしょう。

5.大田を去ってからの加藤家

 加藤家は1682年に水口藩(滋賀県)へ移封されます。水口は京都に近く、東海道で最初の宿場町でもある要衝です。ここを任されたのは、大田での実績が評価されて格上げされたということで、所領も1万石から2万石に加領されました。

 また、琵琶湖の水利を中心にした産業振興が期待されたことも想像されます。

 水口で幕末まで領主を務めた加藤家は、明治時代以降も県知事を輩出するなど、滋賀県において重要な役割を果たしました。

 歴史に「if」はないと言われますが、もしも、吉永藩が幕末まで存続して加藤家が大田に残っていたら、大田市のみならず島根県の歴史が大きく変わっていたのかも知れません。吉永藩、加藤家とはそのように大きな存在だったのです。

 水口へ移封した加藤家ですが、家臣には大田に残った人もいました。幕末から明治にかけて、用水などの公共事業を幅広く手がけて大田の発展に尽力した岩谷九十老は、家臣の子孫にあたり、その仕事は加藤家の理念を受け継いだかのようでもあります。

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