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出雲平野の自然史

■出雲平野と神戸川をめぐる自然史

写真1 出雲平野を流れる神戸川

写真1 出雲平野を流れる神戸川
神戸川は、島根県では4番目に広い集水域を持つ。出雲砂丘の北側で日本海に注ぐ。

 中国山地の脊梁から流れを発する神戸川。幾条もの流れを集めながら、三瓶山の東を下り、立久恵峡の切り立った峡谷を過ぎるとまもなく、視界が一気に開ける。川は、広い出雲平野をゆったりと流れ、やがて波が白砂を洗う大社湾、日本海に至る。平野の北には島根半島北山の山並みが迫る。北山では、日本海から吹く西風によって雲が立ち上り、刻々と形を変えながら東へ流れる。八雲立つ、出雲国の原風景。
 当地を取り巻く地形景観は変化に富んでいる。そして、そこには自然史の物語に満ちている。

図1 出雲平野周辺の地質分布

図1 出雲平野周辺の地質分布
塩冶地区は、出雲平野の西部、神戸川の右岸に位置する。出雲平野は東西に長い沖積平野で、西は大社湾、東は宍道湖に面する。

【出雲平野】

 出雲平野は、南は中国山地、北は島根半島に挟まれた低地(宍道低地帯)に発達し、東西約20km、南北約8kmの広がりを持つ。平野の西は大社湾に面し、長く弓なりに延びる海浜(稲佐の浜、園の長浜)が発達している。海岸の陸側には出雲砂丘と浜山砂丘の二列の砂丘がある。平野の東は宍道湖に面する。
 平野の西部は神戸川、東部は斐伊川の三角州および扇状地によって構成されている。三角州と扇状地は、河川が運搬した土砂が堆積してできた地形である。前者は河口部に発達する低平な地形、後者は谷の出口を頂点として形成されるごく緩やかな傾斜地で、両者は連続的な地形であることが普通である。出雲平野のように、河川が運搬した土砂が海岸や湖岸に堆積してできた平野を沖積平野と呼ぶ。出雲平野は、日本の沖積平野としては比較的大きなもので、山陰では最大である。
 沖積平野は、日本で最も人口が集中している地形である。また、穀倉地帯となっていることも多い。人口集中地の例としては東京(東京下町低地)、大阪(大阪平野)、名古屋(濃尾平野)など、穀倉地帯としては十勝平野、新潟平野が挙げられる。出雲平野も、島根県最大の穀倉地帯であるとともに、松江平野に次ぐ人口集中地である。
 出雲平野西部は近年の市街地化が著しい地域である。この付近では、神戸川は扇状地面よりも一段低い氾濫原を形成して流れている。古い時期に形成された自然堤防などの微高地は半ば段丘化しており、そこには弥生時代以降を中心とする時代の集落遺跡が数多く分布している。
 一方、平野東部を流れる斐伊川は天井河川になっている。幾条もの明瞭な微高地列があり、現在の集落や道の多くは微高地上に並んでいる。この微高地列の大部分は、近世から近代の堤防および旧河道である。斐伊川の中〜上流部では近世を中心に製鉄が行われた。その影響によって土砂供給量が著しく増大し、氾濫や人為的な川の付け替えが繰り返された結果、多数の微高地列が残された。出雲平野は、これを構成する二つの河川それぞれに流域の地質に由来する特性があることから、その地形発達史は全国の沖積平野の中でも際立った特徴を持っている。それについては、後の項で紹介する。

図2 出雲平野西部の微地形

図2 出雲平野西部の微地形
神戸川扇状地には、扇頂付近から北へ向かう明瞭な旧自然堤防などの微高地が認められ、そこは遺跡の集中地になっている。現在の河道は、扇状地面より一段低い氾濫原を形成して流れている。

【神戸川】

 神戸川は、中国山地の脊梁部から流れ出る河川で、幹川の源流は飯南町上赤名の女亀山(830m)である。大万木山(1218m)、琴引山(1014m)などが源流域にある。また、中流部で合流する支流の角井川、伊佐川は三瓶山(1126m)から流れ出る。河口は大社湾にそそぎ、幹川延長は82.4km、流域面積は199.6平方kmで、江の川、斐伊川、高津川に次いで島根県で四番目の河川規模を持つ。
 流域の地形をみると、中〜上流域では飯南町赤来付近は平坦な盆地をなしているが、それ以外では、起伏に富む山地〜丘陵地が大部分で、神戸川は狭い谷を形成して流れている。出雲市乙立町にある立久恵峡では、侵食によって比高200mにも達する深い谷を形成しており、垂直に近い岩壁が、特異な景観と生態系を育んでいる。出雲市馬木で丘陵地から平野へ流れ出ると、流路は西へ向かった後、出雲砂丘に遮られる形で北へ向きを変え、大社湾に至る。
 流域の地質は、源流域〜上流域には古第三紀の花崗岩類が広く分布し、中流域には新第三紀の火山岩類、堆積岩類が分布している。下流域は第四紀の堆積物からなる沖積平野である。また、流域西端の三瓶山付近には、三瓶火山のデイサイト質の噴出物が分布している。

写真2 立久恵峡

写真2 立久恵峡
中新世の火砕岩を神戸川の流れが削り、切り立った岸壁が連続する景観を形成している。その景観とともに、岸壁に成育する植物群は学術的に貴重。

【島根半島】

 島根半島は東西に細長く延び、標高400〜500mの峰が連なる急峻な地形である。山塊は、日御碕から旅伏山(457m)に至る西列、十六島鼻から松江市北西部の朝日山(344m)に至る中列、松江市鹿島から美保関の地蔵崎に至る東列の三列に分かれ、雁行状に並んでいる。また、東列の南側には、嵩山(298m)と和久羅山(262m)が孤立した山塊として存在する。西列はピークが南側に偏っており、南斜面の傾斜が大きい。そのため、出雲平野からは壁のように迫って見える。中列はピークが著しく北に偏っていて、宍道湖に面した南側はなだらかな丘陵地だが、日本海側は傾斜が極めて急である。東列は他の二列に比べてやや複雑な形状である。日本海側は入り組んだ湾が連続するリアス式海岸で、大小の島が点在する。

 島根半島には、平行する東西方向の断層が数条走り、それらの構造運動が地形の成り立ちに深く関わっている。地質分布は、断片的に分布する小規模な沖積平野と段丘をのぞいて、新第三紀の火山岩類と堆積岩類からなっている。

写真3 島根半島の急峻な海岸

写真3 島根半島の急峻な海岸
島根半島の海岸は急峻な地形が連続する。写真の小伊津海岸でみられる地層は急角度で海側に傾き、島根半島を形成した構造運動を物語る。

【三瓶山】

 三瓶山は、主峰の男三瓶山(1126m)をはじめ、女三瓶山、子三瓶山、孫三瓶山などのピークからなる独立峰である。男三瓶山の東斜面と女三瓶山が神戸川の集水域にあたる。
 三瓶山の峰は火山活動によって形成されたものである。三瓶火山の活動は約10万年前に始まり、これまでに少なくとも7回の活動期があったことが明らかになっている。古い時期の活動では、多量の火砕物を噴出する大噴火を伴っており、2回目の活動期には直径5km近いカルデラが形成されている。現山体はそのカルデラ内部に成長した溶岩円頂丘群で、日影山という峰が最も古い1万6000年前の溶岩でできている他は、1万年前以降の活動でできた新しい峰である。確実な最新の活動は約4000年前で、この時に現山体の原形が完成したと考えられる。中国地方では最も新しい火山で、活火山に指定されている。
三瓶火山の溶岩は、流紋岩と安山岩の中間的な組成の火山岩「デイサイト」で、灰〜赤灰色の石基中に、斜長石、角閃石、黒雲母の大きな結晶が点在していることが特徴である。三瓶火山のデイサイトは、神戸川によって出雲平野までもたらされ、塩冶地区の地表付近にも多量に分布している。

写真4 雪を頂く三瓶山

写真4 雪を頂く三瓶山
三瓶山は、出雲と石見の国境にあり、島根県を代表する山である。また、中国地方では最も若い火山で、活火山に指定されている。

1.日本海の形成と島根半島

写真5 島根半島と出雲平野

写真5 島根半島と出雲平野
急峻な島根半島と広く平坦な出雲平野は対照的な地形である。島根半島の西列山地(北山)と出雲平野の境には、大社衝上断層という断層が存在すると考えられている。

 島根半島は、塩冶地区の地形・地質的な成り立ちにおいて重要な要素である。中国山地北縁と平行するように島根半島が存在することで、両者の間に出雲平野、宍道湖、中海へと続く低地が形成された。広い沖積平野と潟湖は生産性が高く、豊かな農作物と漁獲をもたらす。そういう意味では、これらの地形が縄文時代以来、出雲地域の人々の暮らしを育んできたと言うことができ、歴史と文化の面においても、島根半島の存在は大きいと思われる。
 島根半島には、地質時代で新第三紀中新世(2600万〜650万年前)と呼ばれる時代の地層が分布している。この時代は、日本海が拡大し、日本列島がユーラシア大陸から離れたという、日本の自然史において大きな変換期のひとつ。島根半島で見られる岩石の多くは、広がりつつあった日本海の海底や海岸付近で形成された火山岩や堆積岩である。その成り立ちは、地球規模のダイナミックな変動と無縁ではない。

図3 地質年表

図3 地質年表
出雲平野周辺の丘陵地には、新第三紀中新世の火山岩類、堆積岩類が広く分布している。中新世は、日本海が形成された時代で、日本列島の地史の中で重要な位置を占める。

 地震や火山噴火以外に、日常の暮らしにおいて私たちが大地の動きを実感することはない。しかし、大陸も海洋底も常にゆっくりと動き続けている。日本列島の近くでは、太平洋の海底がユーラシア大陸の下に潜り込み、太平洋東部の中央海嶺では新しい海底が生まれている。日本列島で発生する地震や火山噴火は、このような動きと関わりが深い。大陸や海洋底は、地球内部のマントルの動きにともなって動いている。マントルは岩石でできた固体であるが、長時間にわたって加わる力に対しては液体のように流動する性質がある。地球深部では熱が発生しており、それによってマントルは対流している。大陸や海洋底はいくつかに割れた薄い殻のようなもので、マントルの上に乗って動き、ぶつかり合ったり、相手の下に潜り込んだりしている。その速度は年間数cmから10cmと非常にゆっくりとしたものであるが、地球の長いタイムスケールでみると、その変化量は極めて大きくなる。例えば、年間5cmの動きが1000万年続くと、500km移動することになる。これは出雲市から富士山までの距離とほぼ等しい。この動きと、浸食・堆積の作用によって、地形は変化を続けている。地球内部に起因する動きは常に一定ではなく、時には突発的な現象が生じることもあると考えられている。それは、マントル深部から巨大なマグマの塊が上昇してくるという「スーパープリューム」という現象で説明されている。巨大なマグマの塊がマントル上部まで上昇することで、地表では大きな地殻変動が生じ、マントルの動きにも影響を与えるという説である。日本海の裂開にも、地下深くから大量のマグマが上昇したことが関係していると考えられている。

図4 プレート運動の概念図

図4 プレート運動の概念図
大陸や海洋底を構成する地殻と、マントルの最上層部を合わせた固い部分を「プレート」と呼ぶ。プレートはマントル対流によってゆっくりと動いている。日本列島付近では、ユーラシアプレートの下に海洋プレートが潜り込んでいる。プレートはある程度の深さに達すると融解し、マグマが発生する。

 日本海が拡大した過程には、海底が拡大し、日本列島が横に移動したという説(拡大説)と、日本海部分が陥没した(陥没説)という2通りの説がある。近年は拡大説で説明されることが多く、本章でもこれに基づいて紹介する。
 中新世の初期、当時のユーラシア大陸東縁部で活発な火山活動が始まった。それに伴い、大地が拡大を始めた。拡大の中央には地溝帯と呼ばれる谷が形成され、次第にその幅が広がった。同様の現象は現在でも見ることができる。アフリカ東部の大地溝帯(グレート・リフト・バレー)がそれである。大地溝帯はマントルの上昇流によって大地が引き裂かれつつある場所で、拡大を続けている。このまま拡大が続くと、アフリカ大陸は大地溝帯を境に分断されることになる。拡大を始めた当初の日本海付近は、大地溝帯のような状況だったのだろう。
 中新世初期にユーラシア大陸東縁部で拡大を始めた地溝帯には、やがて海水が流れ込むようになり、日本海の歴史が始まった。この拡大にともない、2500万年前頃に移動を始めた日本列島は、1500万年前にはおおよそ現在の位置になったと考えられている。ただし、その形は現在とは全く異なるもので、変化を続けながら現在に至っている。また、日本列島の全体が同じように移動したのではなく、西日本と東日本は別々に動いたと考えられている。

図5 白亜紀以降の日本列島古地理図

図5 白亜紀以降の日本列島古地理図
2500万年前頃から、ユーラシア大陸の東縁部が裂開し、日本列島と日本海が形成された。開きつつあった日本海の海底では、活発な火山活動が生じた。島根半島にはその火山噴出物が広く分布している。

 さて、広がりつつあった日本海の海底と海岸では激しい火山活動が繰り返された。島根半島には海底火山の噴出物が広く分布している。海底火山の活動によって海底に堆積した火砕岩(凝灰岩類)は緑色を帯びることが多く、それは島根半島でも見ることができる。中新世に日本海の海底火山の影響を受けて形成された地層は、緑色の凝灰岩が普遍的に含まれることが特徴であることから、この地層が分布する地域は「グリーン・タフ(緑色凝灰岩)地帯」と総称される。グリーンタフ地帯は島根県以東の日本海沿岸地域を中心とする範囲で、鉱物資源に富む地域として知られている。島根県には、この火山活動の影響で形成された金属・非金属鉱床が多く存在する。

写真6 鵜峠海岸の枕状溶岩

写真6 鵜峠海岸の枕状溶岩
海底で噴出した溶岩が、海水で急冷されて塊状に固結し、そのすき間から次々に溶岩が噴出しては固結したもの。生まれたばかりの日本海海底で形成された。

 島根半島には、海底に泥や砂が堆積してできた岩石の地層も分布している。この地層に含まれる化石などからは、環境の変遷を知ることができる。島根半島に分布する最も古い堆積岩類は、およそ2000万年の地層である。この地層は沿岸部で形成されたもので、シジミの仲間の化石などを産する。それより時代が新しくなり、1800万年前頃になると島根半島一帯は深い海に変化し、火山活動の影響を受けない場所では静かに泥が堆積して、厚い頁岩層を形成した。また、地震によって海底地滑りが発生し、沿岸部の砂が深い海底にもたらされることが頻繁にあった。1800万年から1400万年前頃にかけての地層では、海底地滑りの繰り返しによって形成された頁岩と砂岩の見事な互層をみることができる。1400万年から1000万年前頃の島根半島一帯は、静かな浅い海に変化し、その後は陸地化が進んだ。

写真7 松江市島根町の洗濯岩

写真7 松江市島根町の洗濯岩
海底地滑りによって形成された砂岩と泥岩の互層が波食台に露出している。柔らかい泥岩の部分が浸食され、洗濯板状の凹凸が形成されている。

 ここまでは島根半島について紹介してきたが、同じ時代の地層は中国山地北縁側の丘陵地、つまり出雲平野や宍道湖の南方にも分布している。島根半島よりも陸側でできた地層だが、基本的には一連のものと言ってよい。中国山地側の地層からは化石を多く産出する。貝化石が中心だが、大型ほ乳類の化石を産出することもある。出雲市と松江市では、中新世の海岸に生息していた珍獣・デスモスチルスの化石が発見されている。大きなものでは体長3mに達する動物で、カバのような生活をしていたと考えられている。このような動物が闊歩していた海岸は、現在とは全く異なる光景だったことだろう。もちろん、その時代には島根半島の山並みは存在しない。海底で形成された地層は、断層や褶曲をともなう地盤の変動によって隆起し、急峻な山並みを形作った。

写真8 出雲市上塩冶町の地層

写真8 出雲市上塩冶町の地層
砂岩の地層中に化石を含むノジュールが並んでいる。ノジュールは、貝などのカルシウム分が地層中に溶け出し、周りの砂粒子を固結したもの。この地層は1200万年前頃に内湾で形成された。

写真9 デスモスチルスの骨格標本

写真9 デスモスチルスの骨格標本
デスモスチルスは、新生代を代表する動物化石のひとつ。日本では松江市で最初に発見された。写真は三瓶自然館の展示標本で、北海道標本のレプリカ。

 島根半島には東西方向の断層が幾本も走っている。断層は、地盤になんらかの力が及び、破壊した傷跡である。島根半島の断層を作ったのは、南北方向に地盤を圧縮する力だった。その源は、太平洋の海底がユーラシア大陸にぶつかり、その下に潜り込む運動にある。その力によってによって島根半島一帯に歪みが生じ、地盤が壊れてずれた痕跡が断層で、地盤が押し曲げられたものが褶曲である。島根半島の断層は、大きなものでは“ずれ”が何百メートルにも達する。それは一時に動いたものではなく、1000万年以上をかけて、ずれが蓄積された結果である。
 島根半島の隆起は、中国山地の隆起と同じ頃に始まった。中国山地の中ほどにある三次盆地には、島根半島の地層が形成されたのと同じ中新世の地層があり、海に生息する貝などの化石を産出する。中国山地は、千数百万年の間に数百メートルから1000メートル前後隆起したと考えられている。その動きと、島根半島の隆起は、太平洋海底の動きによって西日本に及んだ力に起因するもので、一連の動きと言ってよい。 島根半島のおいたちには、地球内部のエネルギーが生みだすダイナミックな活動の一端をみることができる。

2. 出雲平野の地形発達

 島根半島の形成は、数百万年、1000万年という長いタイムスケールでの出来事である。年間数mmというような小さな変動も、長い時間をかけると大きな変化を生じる。しかし、次に紹介する出雲平野の地形発達史は、数千年、数万年という時間の中での現象で、島根半島形成の場合とはタイムスケールが全く異なっている。もちろん、地盤の昇降運動は数千年のスケールのなかでも進行しているが、ここでは、島根半島と中国山地は基本的に“動かないもの”として考えたい。出雲平野の形成は、地盤の昇降運動による変化を無視し得るほど、短期間に急速に進んだのである。また、その地形発達は、縄文時代から弥生時代、そして現在へと至る文化の歴史と同時代に進んできた。出雲平野の形成は、この地における文化史とも密接な関わりを持っている。

【沖積平野の形成と気候変動】

 出雲平野は、過去1.1万年間に神戸川と斐伊川が運搬した土砂が堆積して形成された。山間部を流れる河川は地盤を浸食し、浸食によって発生した土砂を運搬する力を持つ。そのエネルギー源は、重力によって水が下方に流れ落ちようとする“位置エネルギー”である。水は海に達するとそれ以下には流れ落ちることができない。すなわち、位置エネルギーを失い、運ばれてきた土砂は河口部で沈降し堆積する。河口に河川の堆積作用によってできる地形を三角州という。山間部と三角州の間には、粗い土砂が堆積して緩やかな斜面をもつ扇状地が形成される。三角州と扇状地で構成された平野は沖積平野と呼ばれる。沖積平野には、大陸を流れる大河川の河口部に発達する広大なものから、ごく小規模な河川で作られたものまで大小様々である。その違いに関わらず、沖積平野は基本的に過去一万年間の堆積物でできている。それは、沖積平野が形成される位置が、海面の高さが基準になることと関係している。

図6 三角州の模式断面図

図6 三角州の模式断面図
三角州の上面は頂置面と呼ばれる平坦面で、その先の斜面は前置面と呼ばれる。河川水流によって頂地面を運ばれた砕屑物は、前置面を転がり落ち、安定勾配を作って停止、堆積する。前置面の先は底置面と呼ばれ、水中に懸濁して運ばれる細粒分が堆積する。

 海面の高さは、気候変動にともなって変化してきた。地球は寒冷な氷期と温暖な間氷期を繰り返してきたことが知られている。その周期は10万年前後で、現在は間氷期である。その前の氷期、すなわち最終氷期は、10数万年前に始まり、1.1万年前に終わったとされている。氷期中には海面が低下しており、最も寒かった2万〜1万6000年前頃の海面は、日本列島周辺では100m前後低下していたと考えられている。
 その後海面は上昇し、7000年前頃には概ね現在と同レベルに達した。沖積平野は、このような海面変化に応じて発達してきた。海面変化には地域ごとに小さな差があるものの、大局的に見れば地球的規模の気候変動に呼応したもので、全世界共通の変化である。したがって、それに応じて形成される沖積平野の形成時期が世界的に共通するのである。

図7 宍道湖周辺の過去1万8000年間の海面変化

図7 宍道湖周辺の過去1万8000年間の海面変化
1万年前に-40m付近にあった海面は、その後急上昇し、6000年前には現在とほぼ同レベルに達した。5000年前頃に、+1m程度の最高海面に達した後は、小変動を繰り返しながら現在に至っている。

 なお、気候の変化にともなって海面が上下する原因は、氷床の拡大縮小にある。地球表面では、海面から蒸発した水が雨となって陸上に降ると、川を流れて海に戻るという循環が繰り返されている。ところが、陸上に降った水が氷床として固定されると海に戻る水が減少し、海面が低下する。逆に、氷床が溶けた場合は海面が上昇する。
 出雲平野付近の海面変化については、次のように考えられる。氷期中に大きく低下していた海面は、氷期が終わり気候が温暖化するにとともに上昇した。出雲平野付近では、1.1万年前に-30~-40mにあった海面は、9000年前頃に-10mまで上昇し、7000年前には現在とほぼ同水準に達した。その後、6000年前には現在より1m程度高くなり、5000年前以降は大きな変化はなかったと考えられている。
 出雲平野などの沖積平野は、現在の海面高度を基準にして発達している。したがって、平野表層の堆積物の大部分は、海面が現在とほぼ同水準に達した7000年前以降のものである。しかし、平野のおいたちは最終氷期最盛期の1万6000年前、または最終氷期が終わった1.1万年前を始まりとして考ることが地質学的には普通である。地表には見えていないことが多いが、平野の地下には最終氷期以降の堆積物が連続的に堆積している。なお、地質時代は基本的に生物種の変遷を基準に決められているが、最も新しい時代だけは最終氷期が終わった1.1万年前を境として、それより前を更新世、1.1万年前から現在までを完新世としている。以前は、1万6000年前を境として洪積世と沖積世と区分していた。今は前者が用いられることが多いが、後者が用いられることもある。

図8 最終氷期最盛期の古地理図

図8 最終氷期最盛期の古地理図
最終氷期中、最も寒冷化した16000年前頃の海面は、-100m付近にあった。この時、島根半島から北へ半島が延び、隠岐が陸続きになっていた。

【地下に埋もれた谷】

 出雲平野を構成する堆積物の下には谷が埋もれている。谷の形状は、建設工事に伴うボーリング調査などから明らかになっており、平野の西側ほど深く、神戸川の河口付近では地表からの深さが40mを越える。この谷は宍道湖の湖底下にも連続している。島根大学の研究グループは、音波探査という方法で宍道湖湖底に埋もれる谷の詳細な地形を明らかにしている。その結果は、三梨・徳岡(1988)にまとめられていて、それによると出雲平野の地下から宍道湖湖底へ続く谷は、現在の大橋川付近を頂点としている。大橋川から東には、中海湖底へ続く別の谷が存在している。
 地下に埋もれている谷は、最終氷期中に当時の海面高度に応じて形成されたものである。氷期には最大100m前後の海面低下があり、海岸線は現在よりずっと沖側にあった。つまり、出雲平野の辺りは海抜100mほどの丘陵地だったことになる。大橋川付近を流れ出た川は、丘陵地を浸食して谷を形成し、斐伊川、神戸川と合流して海に達していた。ボーリング調査によると、埋もれた谷の谷底付近には川原礫が堆積している。氷期の河床に堆積した礫である。この谷の存在が、後に出雲平野が形成される大きな要因である。最終氷期以降の海面上昇によって谷が水没することで、湾が生まれ、そこが三角州が成長する場となるからである。
 ところで、建設工事のボーリング調査によって地下の谷地形が分かったことはすでに述べたが、それには次のような事情がある。ある程度大きな建築物を建設する場合、沖積平野を構成する地層では十分な支持強度が得られない。平野の地層は、1.1万年前以降に堆積した泥や砂が大半を占める。この地層は軟弱で、特に泥の地層は自重で沈下するほど柔らかい。砂の地層も、地震で容易に変形してしまう。そこで、建築物は基礎杭を平野の地層の下、すなわち氷期に形成された谷まで打ち込んで支持させることが多い。そのための調査の結果、地下の谷地形が明らかになったのである。

図9 出雲平野一帯の完新統基底面等深線図

図9 出雲平野一帯の完新統基底面等深線図
過去1万年間の堆積物に埋積されている谷地形の様子。最終氷期末の地形と対応する。谷地形は東から西へ低くなり、出雲平野の西端では-40m以深に達する。図中の数字は標高を示す。

【谷から湾へ】

 最終氷期の終焉は1.1万年前とされている。氷期が終わると気候は急速に温暖化し、それに伴って海面の上昇が生じた。1.1万年前から7000年前までの間の海面上昇量は40mに達する。平均すると、100年で1mの速度である。これは人が実感し得る早さであろう。海岸の低地では、数世代前の人が暮らした場所が海面下に没しているということがあったに違いない。“ノアの洪水”のような洪水伝説が世界各地でみられることについて、この時の海面上昇が語り継がれた結果ではないかという説もある。
 急速な海面上昇によって、海岸線は陸側に移動する。その現象は、海が陸側に進むという意味で、海進と呼ばれる。逆に、海岸が沖側に移動する場合は海退と呼ぶ。最終氷期以降の海面上昇に伴う海進現象は、それが縄文時代にあたることから「縄文海進」と呼ばれることもある。
 最終氷期中に出雲平野一帯にあった谷には、海進によって海水が入り込むようになり、やがて東西に細長い湾が出現した。出雲平野のボーリングを詳しく調べると、軟弱な泥の層の下部から内湾に生息する貝の化石が見つかることがある。そこがかつて内湾だったことを示す証拠である。地層には地形変化の歴史が残されている。それを調べることで、海進によって内湾が出現し、やがて平野へと変化した過程が明らかになりつつある。

図10 中海・宍道湖一帯の地下地質断面図

図10 中海・宍道湖一帯の地下地質断面図
平野部の地下深くと水域の底には泥層が厚く堆積している。そこに含まれる化石などから、水域の環境変化を知ることができる。平野を構成しているのは、水域を埋積した三角州や沿岸砂州の砂質堆積物。

 1.1万年前、海面は標高-40m付近にあった。その時、出雲平野一帯はまだ谷の状態である。海面の上昇とともに谷は海没して湾へと変化し、1万年前頃には宍道湖湖心付近まで海が達した。7000年前には湾の広さは最大となり、大社湾から松江平野まで続いていた。ちょうどその頃、九州の南の海中にある鬼界火山が巨大噴火を起こした。南九州の縄文文化が一時断絶したとされるほどの大きな影響を及ぼした噴火で、それによって噴出された火山灰は九州から北海道まで、日本列島のほぼ全体に分布している。この火山灰は鬼界アカホヤ火山灰と呼ばれ、地質調査や遺跡調査において縄文時代早期と前期の境界付近を示す目印(鍵層)となっている。出雲平野下の地層にもアカホヤ火山灰が挟まれている。厚さ2cm未満の薄い層であるが、大部分が火山ガラスからなる特徴的な火山灰であるため、識別は比較的容易である。この地層は、出雲平野の西部では標高-20m以深に挟まれ、東へ行くにつれて浅くなる。それは、埋没谷の地形面に沿っている。宍道湖の湖底から、松江平野まで追跡することができ、松江平野北部の島根大学構内遺跡では、標高-0.5m付近を上限として、湿地の堆積物に挟まれている。アカホヤ火山灰の地層面は、それが降灰した時の海底地形を示している。そして、前述の地点ではアカホヤ火山灰を挟む地層は海底または海水が流入する環境に堆積したことが分かっている。当時の海面高度は標高-0.5m前後とみられる。すなわち、当時この地域に存在した湾は、出雲平野付近では水深20mに達し、松江平野の北部まで続いていた。大橋川の部分は細い水道となり、中海側に通じていた。火山灰層によって、海進によって海が最も広がった時の地形を知ることができるのである。

写真10 アカホヤ火山灰の産状

写真10 アカホヤ火山灰の産状
7300年前に九州の鬼界火山の噴火で噴出したアカホヤ火山灰は、中海・宍道湖一帯では2cm未満の地層として連続的に追跡することができる。写真は、松江平野北部の島根大学構内遺跡における産状。

 ところで、この湾の環境はどのようなものだったのだろうか。前述のように、湾の底に堆積した泥層からは内湾に生息する貝の化石を産する。しかし、地層のどの位置(一続きの地層の中である位置を示す時は層準という)からも同じように産する訳ではない。内湾生の貝を多く含むのは、アカホヤ火山灰より少し下の層準に限られる。年代的には8~9000年前である。海面上昇中の一時期、出雲平野一帯の湾は外海水の影響が最も強いとなり、貝が多く生息していたが、海域が最も広がった7000年前頃には外海水の影響がやや弱くなり、少し閉鎖的な内湾の環境になったことが分かっている。

【三角州の前進】

 最終氷期以降の急速な海面上昇は、7000年前以降は鈍化し、6000年前頃に標高1m前後の最高海面に達した後は低下し、数10cmの変動幅での小変動に転じた。すると、河川の河口部では三角州の前進が始まった。河川は海面上昇中にも土砂を運搬し、河口部に堆積させているが、海面上昇が土砂の堆積速度を上回ると三角州は前進できない。もっとも、斐伊川のように大きな河川は土砂の供給量が多いため、海面上昇中にも三角州がある程度形成されていたかもしれない。

写真11 斐伊川の河口部

写真11 斐伊川の河口部
宍道湖に注ぐ斐伊川の河口部では、三角州の成長が続いている。神戸川でも土砂は河口に供給されているが、沿岸流によって三角州の成長は阻害されている。

 ここで、三角州が前進するしくみを簡単に紹介しておく。川が運ぶ土砂のうち、礫と砂は基本的に水流に押されて川底を転がって流される。一方、泥は懸濁状態で水中を浮遊して運ばれる。なお、礫、砂、泥はその粒径によって区分されていて、直径2mm以上の粒子が礫、13分の1mm以下の粒子が泥、その間が砂である。川底を転がって運ばれる礫と砂は、河口から吐き出されると急速に沈下し、堆積する。この時、河口の先には堆積した砂礫によって斜面が作られる。後から運ばれてきた砂礫は次々に斜面に付加されていく。こうして三角州が前進する。細かな泥は、礫や砂を運ぶような流れがある場所では堆積せず、さらに沖でゆっくりと沈殿する。沖積平野の地層は、上部に礫や砂の層があり、下部に泥の層があることが多い。出雲平野の大部分の地点も同様である。その地点が河口から遠い沖合の環境にある時は泥が堆積しているが、三角州が近づくと礫や砂が堆積するようになり、泥層の上に重なる。泥層はほぼ水平に重なっていくが、礫層と砂層は側方から発達してきたととらえると、三角州の前進によって平野が成長する過程を理解しやすいだろう。
 ところで、前項で“島根半島が存在することで、両者の間に出雲平野、宍道湖、中海へと続く低地が形成された”と述べた。もしも島根半島がなかったら、神戸川、斐伊川が運んだ土砂は波浪と沿岸流によってさらに運ばれ、三角州はほとんど成長できなかったはずである。海岸線は単調で、当然、宍道湖も存在しない。波浪で海浜に打ち上げられた砂の一部は風に運ばれて、大規模な砂丘を形成したかもしれない。島根半島が日本海の強い波浪と沿岸流をさえぎることで、神戸川、斐伊川の三角州が発達することができたのである。

【三瓶火山と神戸川】

 出雲平野の地形発達には、三瓶火山の活動が大きく影響している。
 出雲平野の西部、神戸川の三角州と扇状地で構成される地域には、古志本郷遺跡や矢野遺跡をはじめ、数多くの遺跡が知られている。中には縄文時代晩期までさかのぼる遺跡もあるが、平野上にいくつもの集落が形成されたのは弥生時代になってからのようである。この地域では、弥生時代の生活面、すなわち当時の人々が暮らしていた地表面が、地表下数十センチメートルまでの比較的浅い所にある。そして、弥生時代の生活面の直下には、三瓶火山が噴出したデイサイト質の火砕物*からなる厚い地層が分布している。これは何を意味するのだろうか。
 古志本郷遺跡では、弥生時代の生活面のさらに下を掘削して調査が行なわれた。火砕物の地層の厚さは2.5mメートルに達し、それは上部は洪水によって堆積したもの、下部は泥流的な流れによって堆積したものであることが確認された。泥流とは、土砂と水が一体となって流下するもので、大規模な崩壊に伴って発生する現象である。放射性炭素法による年代測定によると、この地層が堆積したのは約4000年前(暦年較正値)である。この年代は三瓶火山の第7活動期に一致する。
 三田谷遺跡でも火砕物からなる地層が確認されている。ここでは、2層の洪水堆積層が見いだされた。いずれも火山灰と軽石からなり、それぞれの厚さは5mに達する。放射性炭素法によるそれぞれの年代は、上のものが約4000年前、下のものが約5500年前で、三瓶火山の第7活動期と第6活動期に一致する(中村2006)。
 これらのことは、平野の拡大が始まった6000年前以降の2回の三瓶火山の活動によって、神戸川下流に多量の火砕物がもたらされたことを示している。1990年代前半に発生した長崎県の雲仙火山の活動では、溶岩ドームの崩壊による火砕流が幾度も発生し、堆積した火砕物によって土石流、泥流、洪水といった現象が繰り返された。これと同様の現象が三瓶火山の活動期に神戸川流域で発生したのである。上記のふたつの遺跡で見いだされた地層の厚さから、平野部に供給された土砂量は莫大なものであったとみられる。その土砂によって、三角州は急激に前進し、扇状地は肥大した。
 火砕物が堆積してできた地層は、出雲平野西部に広く分布し、それは現地表のすぐ下にある。古志本郷遺跡と三田谷遺跡の調査結果からみて、それらは約4000年前に形成されたとみてよいだろう。すなわち、現在の地形面の原形は、その時にでき上がったといえる。1回の活動期の間に、三瓶火山が火砕物を噴出し、火砕流や土石流が繰り返し発生したのは、せいぜい10年程度の期間と推定される。平野発達の歴史の中では、ごく短い期間である。その間に、急激な平野の拡大が生じ、現地形がほぼ完成したのである。つまり、塩冶地区の地形がほぼでき上がったのもこの時である。もちろん、その後も小流路や湿地が形成されたり、氾濫による土砂の供給などの自然現象に加えて、人為的な改変によって地形は変化し続けて今日に至っている。しかし、その礎となる地盤の形成には、三瓶火山の影響が極めて大きいのである。
 なお、三瓶火山の火砕物は、斐伊川下流域の出雲平野東部の地形発達には直接的な影響は与えていない。平野東部においても、地下から火砕物の地層が見いだされることがあるが、その厚さは10〜20cm程度の薄いものである。5500年前以降の三瓶火山の活動では、斐伊川流域に降下火山灰を供給しているが、その量は少なく、地形形成に大きく影響するほどではない。また、神戸川から供給された火砕物は、神戸川三角州と斐伊川三角州の境界付近より東には達していない。
 現在、神戸川は三瓶火山の噴出物からなる地形面より一段低い位置に氾濫原を形成している。堆積と浸食のバランスが本来の状態に戻ると、神戸川は火山活動期に作られた地形面を浸食して流れるようになったとみられる。火山活動期に形成された微高地には氾濫の影響が及びにくくなり、堆積物が供給されることが少なくなった。弥生時代には微高地に集落が作られ、人々が暮らすようになった。出雲平野西部に多くの弥生遺跡があることの背景のひとつとして、弥生時代までにその地形がほぼ完成していたことが挙げられるだろう。

*火砕物:火山灰や軽石、火山礫など、火山が噴出した土砂状のもの。

【潟湖の形成】

 宍道湖は、内湾が出雲平野の発達によって海から分断された潟湖である。宍道湖が海から分断された時期を示す確かな証拠はないが、約4000年前に神戸川三角州が急速に拡大したことと、同じ頃1996)。
 湾の入り口側が出雲平野によって完全に塞がれた後も、宍道湖は内湾的環境が継続する。それは、湾奥側にある大橋川を通じて、中海から海水が流入するためである。大橋川では表層を流れる河川水の下に潜り込むようにして海水が遡上している。この現象は、淡水と海水の密度差によって生じるもので、海に注ぐ河川の河口部では普通にみられるが、宍道湖と中海の場合は地形と潮汐、風向が絡み合い、複雑な動きをしている。海水の流入量は一定ではなく、宍道湖の塩分は海水の5分の1から10分の1程度の範囲で常に変化している。例えば、潮位が高く、河川水量が減少する夏季には海水流入量が増加する。塩分は場所によっても異なり、同一地点でも深さによって違っている。風がない静かな時には、淡水と海水の層が上下ではっきりと分かれていることがある。その境界は塩分躍層と呼ばれる。
 出雲平野側が閉塞してからも海水流入が続いていた宍道湖だが、江戸時代には淡水湖に近い環境になったことが、歴史的な記録や、堆積物の調査からわかっている。その原因として、大橋川付近で砂州が発達したことや、人為的な開発が進んだことによって、海水が宍道湖まで入りにくくなったことが考えられる。1635年と1639年の洪水で、それまで大社湾に流れていた斐伊川が宍道湖に流れるようになったとされ、それが淡水化に影響している可能性もある。大橋川の河道が狭まったことに加えて、淡水の流出量が増加したことで、海水が遡上する余地が無くなったのかもしれない。なお、河道が十分な広さと深さを持っている場合は、河川水量が増しても海水は遡上する。江戸時代に淡水に近づいた頃は、排水不良により宍道湖が氾濫することが度々あったため、松江市浜佐田から恵曇に抜ける佐陀川が開削された。江戸時代以降は再び汽水の環境になり、今日に至っている。
 潟湖は出雲平野の西にも存在する。神西湖である。これは、出雲砂丘と出雲平野の間に取り残された水域の名残である。出雲国風土記には「神門水海」の名で記されている。神西湖は、三瓶火山が活動した4000年前には、神戸川三角州が出雲砂丘のすぐ手前まで迫り、河川堆積物の影響が及びにくい奥まった部分だけが水域として残ったものである。現在は汽水湖であるが、これは江戸時代に差海川が開削されて海水が流入するようになったためで、2000年前頃までには淡水かそれに近い湖沼になっていたみられる(中村・野坂、2006)。

図11 中海・宍道湖一帯の古地理の変遷

図11 中海・宍道湖一帯の古地理の変遷
最終氷期以降の海進によって形成された内湾は、6000年前頃に水域が最大になった。その後は三角州や沿岸砂州が成長し、平野が形成された。宍道湖は4000年前頃に外海から遮断されたが、その後も海水の流入は続いた。出雲平野の西側では、三瓶火山の活動によって三角州が急速に拡大し、わずかに残された水域の一部が神西湖になった。浜山砂丘の東には、淡水の池が江戸時代まで存在していた。

【弥生時代の斐伊川】

 1990年代まで、斐伊川下流域の出雲平野東部には、古代以前にさかのぼる遺跡はあまり知られていなかった。その理由として、斐伊川が洪水を繰り返した暴れ川であったため、その下流の低平地は居住に向かなかったということが考えられていた。ところが、2000年以降、平野の中央付近で大規模な発掘調査が行なわれるようになると、中野美保遺跡や青木遺跡など弥生時代の遺跡が発見され、そこからは四隅突出型墳丘墓などの重要な発見もあった。頻繁に洪水にさらされるような場所に、大規模な墓を構築することはまず考えられない。洪水が多くて暮らせないという、それまでの印象は完全に覆されたのである。

図12 出雲平野の主な弥生遺跡

図12 出雲平野の主な弥生遺跡
出雲平野では、西部に弥生遺跡が集中している。東部の斐伊川流域でも、近世以降の厚い堆積物の下に遺跡が存在することが明らかになり、未発見のものも多く埋もれていると推定される。

 中野美保遺跡などの調査と同じ頃、斐伊川中流では尾原ダムの建設に伴う発掘調査が行なわれた。ここでは、河岸段丘などに遺跡が存在し、古くは旧石器時代の生活面が確認されている。縄文時代から弥生時代の遺物包含層をみると、河道に近く、河床との高度差も小さいにも関わらず、粗粒な氾濫堆積物はあまりみられず、土壌が安定的に形成されている。同じ場所で、江戸時代頃の氾濫堆積物が厚く堆積していることと対照的である。山地を流れる川の谷底付近のことなので、河道からの距離と高度差が著しく変化したわけではない。
 出雲平野中央部での弥生遺跡の発見、そして斐伊川中流域の尾原地区でみられる堆積物の特徴。これらからみた弥生時代の斐伊川は、暴れ川の印象とはほど遠い。むしろ、穏やかな川だったと言ってもよいだろう。大西ほか(1990)は、宍道湖湖底堆積物について、過去1.1万年間の花粉組成の変化を示している。宍道湖湖底堆積物の花粉組成は、宍道湖周辺と斐伊川流域の植生変遷を反映している。それによると、斐伊川流域には、1.1万年前から7000年前はブナが多くあり、7000年前以降は気候の温暖化によってブナに代わってカシ・シイ類が多くなる。ところが、500年前頃を境に、カシ・シイ類は急減し、マツ類が急増する。マツは裸地化した場所で育つ木であり、この頃を境に、斐伊川流域の山地の裸地化が進んだことを示している。山地の植生の変化は、河川状況と直接的な関係がある。ブナ林やカシ・シイなどの照葉樹林は保水力にすぐれ、洪水を防ぐといわれる。それに対し、裸地化が進むと土砂流出が増大し、洪水の確率が高くなる。堆積物や遺跡の存在から、縄文時代、弥生時代の斐伊川が穏やかだったと推定されることと、植生の変化は調和的といえる。

【たたら製鉄と出雲平野】

 江戸時代から明治時代初期まで、奥出雲地方は日本を代表する鉄の生産地だったことで知られる。当時、この地域で行なわれた製鉄は、砂鉄と木炭を原料とするもので、“たたら製鉄”と呼ばれた。砂鉄とは、磁鉄鉱やチタン鉄鉱といった鉄鉱物が母岩から洗い出されたものの総称である。砂鉄は、当初は海岸や河床に堆積したものが集められていたが、それでは足りなくなると、花崗岩の山を切り崩し、その土砂を水路に流して比重選鉱し、砂鉄を集める“かんな流し”が行われるようになった。この地域に広く分布する花崗岩は風化が進んでいるため、比較的容易に土砂の状態にすることができたのである。単純な作業工程で鉄の鉱物を集めることができるものの、花崗岩に含まれる鉄の総量はわずかである。全岩に対する重量比で、FeOとFe2Oを合わせても1%程度しか含まれない。そのため、製鉄に必要な量の砂鉄を集めるためには多量の土砂を流す必要があった。
 神戸川と斐伊川の両河川とも、流域でかんな流しが行われたが、特に流域のほぼ全体に花崗岩が分布する斐伊川では盛大に行われた。その多量の排土は、直接、間接的に川に排出され、斐伊川三角州からなる出雲平野東部の地形発達に影響を及ぼした。
 江戸時代には平野を流れる主要な河川には堤防が造られ、河道が固定されることが多い。かんな流しによって多量の土砂がもたらされた斐伊川の場合、流速が遅くなる平野部では固定された河道内に土砂の堆積が進行する。それが進行すると、河床の高度が周辺の地盤よりも高くなってしまう。この状態を「天井河川」という。天井河川は氾濫を起こす可能性が極めて高い不安定な状態である。実際、江戸時代の斐伊川は氾濫を繰り返した。そこで、出雲平野東部では、河道の付け替えを頻繁に行なった。河床が高くなると、新しく作った河道に水を流し、氾濫を未然に防ごうとしたのである。その痕跡は、現地形にも残されている。斐川町域には現河道と平行する微高地列が幾条もみられる。家並みはその上に形成されているので、地図上でも読み取ることができる。この微高地列の多くは、付け替えによって放棄された河道である。氾濫によって堤防外に堆積した土砂も含め、平野面上には江戸時代以降の堆積物が厚く分布している。それは、平野東部では古い時代の遺跡がなかなか見つからなかったことの一因でもある。
 当然、土砂は既存の地形面を覆っただけではない。この時代、斐伊川三角州は急速に成長した。その地形発達にも人の関与が大きい。江戸時代に川の付け替えを行なった目的は治水だけではなかった。川が運ぶ土砂によって宍道湖の浅瀬を埋め立て、新田開発を行なうことも目的だった。埋め立てたい場所に流路を作り、そこが埋まると、流路を変えて別の浅瀬を埋めるという合理的な方法だった。こうして、出雲平野東部の地形が形作られたのである。
 こうしてみると、出雲平野の発達過程は、極めて独特である。神戸川では、火山活動の影響によって多量の土砂が供給され、三角州が急速に発達した時期があった。一方の斐伊川は、その流域が近世の日本を代表する製鉄地帯で、そのことが三角州の拡大に大きな影響を与えた。これほど特徴的な二つの河川によって構成された沖積平野は、全国的にも例をみない。

写真12 斐伊川の鱗状砂州

写真12 斐伊川の鱗状砂州
斐伊川の河道内には砂が堆積し、水は浅く網状に流れ、鱗状砂州を形成している。平野部では、河床が氾濫原より高い天井河川になっている。

【将来の出雲平野と宍道湖】

 出雲平野と宍道湖は、最終氷期以降に形成された地形である。その地形発達の過程には、人が実感できるほど急速な変化もあった。氷期の終わりとともに生じた急激な海面の上昇や三瓶火山の活動による土砂の堆積がそれにあたる。このような急速なものに限らず、現在も変化は続いている。神戸川と斐伊川は土砂を運び続けている。近い将来、気候の温暖化によって海面上昇が生じるという予測がある。埋め立てや掘削など、人工的な改変は自然の変化よりはるかに早い。
 現在、宍道湖の湖底では年間約2mmずつ泥が堆積し続けている。斐伊川河口に近い部分ではもっと急速に堆積が進行している。単純な計算では、2000年もかからないうちに宍道湖は消滅し、平野に変化する。それは湖沼として当然の変化である。
 温暖化にともなう海面上昇については、海岸浸食、低地での洪水、塩害などが懸念されている。気候変化による環境の変化とともに、世界的な緊急課題となっている。
 人工的な改変では、宍道湖と中海は激動の数十年間を経てきた。1960年代に具体化された干拓淡水化事業では、両湖は淡水化され、その一部に広い干拓地が作られる計画だった。1980年代には設備の大部分が完成していたが、1988年に淡水化事業は凍結、2002年に正式に中止が決定された。事業が計画通りに進行していたら、両湖はすでに淡水湖になっていたはずである。2006年に中海・宍道湖は生態系を育む貴重な湿地としてラムサール条約に登録された。生態系と人の生活が調和した環境を維持していくという課題が、両湖の未来に課された。
 将来について、過去から学ぶべきこともある。過去に生じた突発的な現象は、将来もまた起る可能性がある。三瓶火山の活動である。現在は活動性は極めて低く、わずかに二酸化炭素の噴気があるだけだが、活動を再開する可能性を秘めている。三瓶火山が4000年前と同様の活動を行なった場合、神戸川の下流域では多量の土砂供給によって大規模な泥流や洪水が発生すると考えてよい。
 これまでに紹介してきたように、塩冶地区を取り巻く自然環境は変化に富み、特徴的な自然史の歩みがあった。その中で、地域の歴史と文化が育まれてきた。次々に新しい技術が登場し、目まぐるしく社会情勢が移り変わる時代にあっても、私たちが自然環境の中で生きていることは変わらない。地域を知り、理解することで、その貴重な環境を未来に引き継ぐことができるのではないだろうか。

引用文献

三梨 昴・徳岡隆夫,1988:中海・宍道湖―地形・底質・自然史アトラス.島根大学山陰地域研究総合センター,115p.
中村唯史・徳岡隆夫,1996:宍道湖ボーリングSB1から発見されたアカホヤ火山灰と完新世の古地理変遷についての再検討.島根大学地球資源環境学研究報告,15,35〜40.
中村唯史・野坂俊之,2006:神西湖西岸低地の完新世環境変遷.島根県立三瓶自然館研究報告,4,17〜24.
中村唯史,2006:神戸川デルタの地形発達.島根県立三瓶自然館研究報告,4,25〜30.
大西郁夫・干場英樹・中谷紀子,1990:宍道湖湖底下完新統の花粉群.島根大学地質学研究報告,9,117〜127.

*出雲北浜誌刊行委員会編(2011)「出雲北浜誌」の中村唯史執筆部分を再編集、改定して掲載。

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