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出雲平野の自然史

■斐伊川・神戸川と出雲平野

出雲平野

 “「八雲立つ出雲国は狭い布のような若い国。これを縫って大きくしよう」と言った八束水臣津野命は,志羅紀の三埼をみて国の余りを綱をたぐって引き寄せた.これが八穂爾支豆支の御埼で,引き寄せた綱は園の長浜,佐比売山を杭にして綱を繋ぎ止めた・・・”

 出雲國風土記の国引き神話は「大社の日御碕を,多伎から大社へ続く園の長浜で引き寄せ,三瓶山を杭にして繋ぎ止めた」という内容で始まります。その舞台と言える出雲平野の地形発達史は,神話を彷彿とさせるドラマを秘めています。

 出雲地方と呼ばれる島根県東部地域は、神話と多量の青銅器に象徴される独特の古代文化が栄えた地域です。その古代文化の表舞台と呼ばれる出雲平野は、中国山地を流れる斐伊川と神戸川の下流に発達した沖積平野で、その地形発達史はそれぞれの河川流域の地質を反映した特徴的なものです。ここでは、出雲平野の地形発達史を紹介したいと思います。

地質のあらまし

 出雲平野は、海岸に平行してのびる島根半島と、中国山地の間に形成された沖積平野で、おもに斐伊川と神戸川の堆積物によって作られています。西側は日本海に面し、海岸部に出雲砂丘、やや内側に浜山砂丘があります(図1)。

地形図

図1.斐伊川・神戸川の流域と出雲平野

 斐伊川の流域には、深層まで風化が進んで砂状(マサ)になった花崗岩類が広く分布しています。斐伊川流域に分布する花崗岩には、良質の鋼の原料になる磁鉄鉱(砂鉄)が含まれていることから、かつては砂鉄採取と製鉄が盛んに行われ、近世には日本一の鉄生産地でした。 一方の神戸川は、流域に完新世に数度の噴火活動を行った三瓶山(三瓶火山)があります。三瓶火山の噴出物は、出雲平野の地形発達に大きな影響を与えています(図2)。

 出雲平野の東には、全国で7番目の水域面積をもつ宍道湖があります。宍道湖はかつての内湾が、出雲平野の発達によって海から遮断してできた潟湖(海跡湖)です。宍道湖は、内湾の入り口側は完全に閉鎖されていますが、湾奥側の狭い水道(大橋川)で隣の中海と通じていて、そこから海水が流入するため、低塩分の汽水湖になっています。

 日本海の荒波を遮り、出雲平野と宍道湖が形成される空間を演出した島根半島は、標高400m前後の急峻な山地が連なっています。新第三紀中新世の火山岩類、堆積岩類からなり、東西方向に伸びる断層や褶曲の運動によって隆起した地形です。日本海をわたってきた風が島根半島にぶつかり、ここで雲がわき起こることから、雲が出る国、すなわち「出雲」の地名が生まれたといわれています。

地質図

図2.斐伊川・神戸川流域の地質分布

出雲平野が海だった時代

 沖積平野は、1万年前以降の堆積物で形成された地形です。では、平野が広がる以前の出雲平野一帯はどのような場所だったのでしょうか。

 6〜7千年前、出雲平野の一帯には内湾が広がっていました。西に向かって開いた細長い湾で、現在の出雲平野から、宍道湖、そして松江低地まで続いていました。出雲平野の地下をボーリング調査によって調べると、平野を作っている砂の層の下に、内湾の底に堆積した泥の層が厚く堆積していることがわかります。その泥の層には、約6300年前に起きた九州南方海中の鬼界カルデラの巨大噴火によって降った「アカホヤ火山灰層」が挟まれていて、その分布を調べてみると、当時の湾は水深20m以上あったことがわかります。

 出雲平野の一帯に深い内湾が広がった原因は、1万年前に終わった最終氷期に海面が大きく低下したことにあります。全地球的規模での気候変化が、出雲平野の環境変化に深く関わっているのです。

 氷期とは気候が数万年以上の期間にわたって寒冷化する時代で、これまで幾度も繰り返されてきました。気候が寒冷化すると、大陸上に氷床が発達するため、水が氷として陸上に閉じこめられ、海水の量が減少します。そのため、海水面の低下が起こります。最終氷期にもっとも寒冷化が進んだ2〜1.6万年前の日本列島周辺の海面は、現在より100m前後低かったと考えられています。

 海面が大きく低下すると、同一地点での河川の浸食営力が大きくなります。特に、海岸部では河川の浸食作用はごく小さくなり、堆積が進みますが、海面が低下して海抜高度が高くなると浸食が進むようになります。出雲平野一帯でも、氷期には河川の浸食によって谷が形成されました。この谷は、松江付近からはじまって、宍道湖の湖底下、出雲平野の地下へと西へ行くほど深くなります。出雲平野の西部では、地表から40m以上の深さに当時の谷が埋もれています。

 氷期が終わると、気候の温暖化とともに海面が上昇し、氷期の谷は海中に没して内湾になりました。このように、海が陸側に広がる現象は「海進」と呼ばれ、最終氷期以降の海進は縄文時代に起こったことから「縄文海進」と呼ばれることがあります。縄文海進によって、海がもっとも陸側深くに入り込んだのは6〜7千年前です(図3)。

 また、この時期には現在よりも気候が温暖だったことが知られています。出雲平野一帯の地層からも、温暖な気候を示す証拠がみつかります。この時代の地層には「ハイガイ」という二枚貝の化石が含まれています。ハイガイは、現在は瀬戸内海以南にしか分布していない暖流系の貝ですから、当時は現在よりも温暖な環境だったことがわかります。

縄文海進の頃の古地理図

図3.縄文海進の頃の古地理図

平野の拡大がはじまった

 1万年前から6千年前頃までは、海面の上昇速度が大きかったために三角州の成長がさえぎられ、平野はほとんど広がりませんでしたが、海面上昇が終わると平野の拡大がはじまりました。

 流域面積が広く、そこの風化が進んで砂状になった花崗岩が広く分布している斐伊川は、土砂の運搬量が多いために三角州の成長速度が比較的速かったことが推定できます。一方の神戸川は、斐伊川に比べて流域面積がずっと小さいのですが、4千8百年前頃と3千7百年前頃に三瓶火山が噴火したことで、その噴出物が三角州の拡大に大きく影響しました。火山噴出物が平野形成に影響を与えたことは、地表付近の堆積物から明らかになりました。

 神戸川の三角州と扇状地によって構成されている出雲平野の西部では、地表付近の堆積物の大半が三瓶火山の噴出物です。遺跡の発掘調査などで掘り下げた部分を観察すると、火山噴出物の地層は、洪水によって堆積したり、火山泥流で堆積した地層であることがわかります。

 神戸川扇状地の扇頂部に近い、出雲市上塩冶町の三田谷1遺跡の発掘調査では、地形発達の過程を調べる目的で、ボーリング調査が行われました。建設工事などで行われるボーリングとは少し異なり、砂や泥などの堆積物を乱さないで採取する方法が採られました。その結果、弥生時代の建物跡などがある地盤の下に10m以上の厚さで砂や泥が堆積していて、そこに2枚の洪水堆積層があることがわかりました。洪水堆積層は三瓶火山の噴出物でできており、それぞれの厚さが3〜4mもあります。

 洪水の年代を調べるために、洪水堆積層の直下にある古土壌層から木片を採取して、放射性炭素同位体法による年代測定を行いました。洪水堆積層の中にも火砕流に取り込まれて炭化したとみられる木片がたくさん含まれていましたが、これはいったん堆積した火砕流が長い時間を経てから洪水で運ばれたものだった場合に、洪水の年代ではなく火砕流の年代を示してしまいます。そのために直下にある古土壌の資料を使ったのです。

 年代測定の結果は、上の洪水堆積層が約3700年前、下の洪水堆積層が約4800年前というものでした。この年代値はそれぞれが三瓶火山の活動期と一致します。2回の活動期に、多量の火山噴出物が神戸川を流れ下って堆積したことが証明されたのです。

出雲平野西部の地下断面と得られた年代値

図4.出雲平野西部の地下断面と得られた年代値

 さらに、三田谷1遺跡から約1km下流の出雲市古志町の古志本郷遺跡では、深さ4mまで掘り下げた調査孔で洪水堆積層が確認されました。その直下の腐植土層に含まれる植物片を使って年代測定を行うと、約3700年前という結果が得られました。三田谷1遺跡の上の洪水堆積層と同時に堆積した地層であることが確認できたのです(図4)。同様の地層は、出雲平野西部の広い範囲で認められていて、三瓶火山の活動期に神戸川を流れ下った土砂が平野を広く覆っていることがわかります。この土砂によって扇状地は規模が大きくなり、内湾に注いでいた神戸川の河口部では三角州が急激に前進したことが推定できます。

出雲平野の主な弥生遺跡

図5.出雲平野の主な弥生遺跡

●古代文化の舞台

 出雲平野にはたくさんの弥生遺跡があり、古代出雲の表舞台と呼ばれることがありますが、その多くが神戸川の下流域、三瓶火山の噴出物で構成される地形面上にあります(図5)。

 その理由のひとつとして、神戸川扇状地の地形面が三瓶火山が噴火した約3700年前にほぼ完成され、この時に形成された自然堤防列などの微高地が沖積段丘化して、河川氾濫の影響を受けにくい安定した土地になったことが考えられます。つまり、本来はそれほど大きな河川ではない神戸川は、火山噴火時に形成された扇状地を浸食して流れ、微高地を乗り越えるような洪水を起こすことが少なかったのです。そのため、生活の場として安定していたことが想像できます。また、新しい時期の堆積物にほとんど覆われていないために、遺跡が地表直下にあり、発見されやすいことも、遺跡が多くみつかっている理由と言えるでしょう。

開発と山地荒廃

 火山噴火の影響をうけた神戸川に対し、斐伊川の流域では製鉄が盛んに行われ、近世から近代にかけて、洪水の頻発と下流部での平野の急速な発達がありました。

 中国山地には花崗岩類が広く分布していますが、山陰側と山陽側では形成時期や組成が若干異なっています。山陽側の花崗岩類は、白亜紀末に形成されたもので、鉄鉱物としてフェロチタン鉄鉱を含みます。山陰側の花崗岩類は、古第三紀に形成されたもので、鉄鉱物としてチタン磁鉄鉱を含みます。いずれの鉄鉱物も鉄の原料になりますが、硬く粘りがある“鋼”を作ることができるのはチタン磁鉄鉱であることから、山陰側ではより盛んに製鉄が行われました。

 原料となる鉄鉱物=砂鉄は風化した花崗岩を切り崩し、水路に流して比重分別する「かんな流し」で集められました。そして、たたらと呼ばれる炉を使う「たたら製鉄」では多量の木炭を使って鉄が精錬されました。木炭は付近の森林を伐採して作られたことから山地の裸地化を招き、かんな流しによる直接の土砂流出とともに、洪水の大きな原因となりました。19世紀から20世紀前半の斐伊川流域では毎年のように洪水に襲われ、多量の土砂が下流にもたらされるとともに、これによって出雲平野東部は急速に拡大しました。

 この時代の出雲平野東部では、斐伊川の河道は頻繁に変化しました。土砂の運搬量が著しく多いために天井河川化が進み、河道が安定しなかったのです。また、この土砂を使って宍道湖の浅瀬を埋め立てて水田を開発することも行われました。これは、河道を付け替えて埋め立てたい場所に土砂が堆積するようにするのです。こうして、近世以降に広がった部分は平野全体の4分の1にも達します。その地域の地名をみると、「島」「瀬」「洲」など、かつての地形を示すものが目立ちます。

 斐伊川の洪水は、1960年代まで頻繁に繰り返されました。土砂流出が規制されたことと治水事業によって、近年は洪水が少なくなってきていますが、河川が安定状態を回復し、流域の植生が再生されるまでには数百年の年月が必要と予測されています。現在も、洪水時に斐伊川の水を神戸川に放水し、宍道湖沿岸を含めた下流域の氾濫を防ぐための「斐伊川放水路」の建設が進められています。豊かな自然に恵まれたようにみえる出雲地方ですが、このように近世の開発の大きな代償を背負った地域でもあるのです。

内湾から潟湖へ

 出雲平野の発達によって内湾の一部が取り残されてできた宍道湖について紹介したいと思います。

 宍道湖が海から遮断された時期は、残念ながらはっきりとしません。湖底の堆積物を調べると、水域の環境が閉鎖的になった時期が2回あります。最初はアカホヤ火山灰(6300年前)が降る少し前です。それまでの一時期、宍道湖には海生の貝が多く生息していますが、その数が急速に減るのです。次は4000〜3000年前頃で、植物プランクトンの一種、珪藻の種類の変化から淡水の影響が強くなることがわかります。この2回目の変化で淡水の影響が強くなってからは、基本的に同じような環境が続きます(図6)。このことから、宍道湖が海から遮断されたのは4000〜3000年前頃ではないかと推定しています。それ以前の変化は、淡水の影響があまり強くなっていないことから、湾の入り口に砂州が発達し、海水の交換量が少なくなったことを示しているのではないでしょうか。

宍道湖のボーリング試料の珪藻群集

図6.宍道湖のボーリング試料の珪藻群集

 さて、海から遮断された宍道湖ですが、海水の流入はその後も続きます。湾奥側の低地が水道(大橋川)になり、隣の中海と通じているために、そこから海水が流入するのです。いったん中海に流入した海水の一部が大橋川を遡上するという構造によって、宍道湖は長い期間にわたって低塩分汽水の環境が続いています。 宍道湖で獲れる魚介類は「宍道湖七珍」と呼ばれて地域の特産になっていますが、その内容はヤマトシジミ、スズキ、コイ、エビ、ワカサギ、シラウオ、ウナギと、汽水域ならではの組み合わせです。なかでもヤマトシジミは全国屈指の生産高を誇っていますが、この環境が大きく変わる岐路に立ったことがありました。中海・宍道湖干拓淡水化事業です。

 第二次世界大戦後の食糧不足を受け、農地の拡大を目指して1957年に計画発表、1963年の事業開始以来、中海・宍道湖の干拓淡水化を目指した工事が進められ、1980年代にはほぼ完成しました。水門を閉じ、ポンプを稼働させれば中海の一部が干陸化、残りの水域が淡水化する状態まで完成したのです。しかし、計画時とは異なり、米が余って減反が進められる時代にあえて中海・宍道湖の環境を大きく改変する必然性はなくなっていました。そのため宍道湖の淡水化は中断されました、事業の継続に反対する声が住民の間でたかまり、1988年に事業の延期が決定、2000年に中海の4分の1にあたる水域の干拓計画が中止になり、事業が完全に中止されたのです。

 このようにみてくると、斐伊川・神戸川に関わる地形変化の歴史は、自然の作用のみならず、人間の影響が大きいことがわかります。様々な要素が絡み合った出雲地方の自然史は、研究や学習のテーマとして興味深いと言えるのではないでしょうか。

*本文は月刊「理科教室」2003.2月号「斐伊川・神戸川と出雲平野」(中村唯史)を再編集したものです。

*本文中の年代表記は、暦年未補正の14C年代に基づいています。

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