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出雲平野の自然史

■出雲市乙立地区の地形と地質

乙立町の地形概要

図1 乙立町付近の地形
幅250m以下の谷を埋めた接峰面図。神戸川を境に、本地域の西部は比較的なだらか地形である。

地形の概要

乙立地区は、中国山地北側に連なる丘陵地の北縁に近い位置にある。周辺は標高300〜400m程度のピークが連なる起伏に富んだ地形で、同地区の中ほどを神戸川が南から北へ蛇行を繰り返して流れている(図1)。

本地区内では、平地の分布は狭く、向名から下原にかけての神戸川河岸に氾濫原〜河岸段丘が分布しているほかは、ごく狭小な谷底平坦面が広がっているだけである。向名では少なくとも2段の明瞭な河岸段丘面が認められ、標高80m台の平坦面とこれより低いやや傾斜した面に分けることができ、人家の多くはこの2段の段丘面上に立地している(写真1)。対岸の殿川内では、高位の段丘面はごく断片的で丘陵の裾にわずかな平坦面として残存するだけであるが、低位の面は比較的広く分布している。それより下流では、高位、下位の面とも分布は断片的である。 丘陵地形をみると、西部の見田原付近では起伏が比較的小さく、標高200〜300mのなだらかな地形面が認められるのに対し、神戸川より東側では起伏が大きく、前者の地形面に相当するものは、それほど明瞭ではないが尾根の定高性として認めらる。

向名付近の地形

写真1 向名付近の地形
平坦な段丘面が広がり、少なくとも2段の面に分けることができる。

周辺についてみると、同地区の北側に続く低丘陵地の先に出雲平野が広がっている。出雲平野は中国山地と島根半島に挟まれた宍道低地帯を神戸川と斐伊川の土砂が埋積してできた沖積平野で、山陰地方では最大級の平野である。本地区の南側では、丘陵の高度を次第に増しながら中国山地に至る。

本地区を流れる神戸川は、中国山地の脊梁をなす大万木山、琴引山一帯から流れ出る河川で、島根県では江の川、斐伊川、高津川に次いで4番目の流域面積を持つ。本地区の北部では、神戸川が丘陵を深く穿谷して比高200m以上に達する急崖を形成し、出雲地方を代表する景勝地・立久恵峡の景観を作り出している(写真2)。また、神戸川の流域にある三瓶山は、活火山に指定されている火山で、その火山活動は神戸川下流域の地形形成に影響を与えている。

立久恵峡の岩壁

写真2 立久恵峡の岩壁
神戸川が穿谷し、切り立った岸壁を形成した。

地質の概要

乙立地区には、およそ2000万〜1500万年ほど前の火山活動で噴出した火山岩(溶岩)と、同時に火山灰や火山礫が堆積して出来た火砕岩(凝灰岩など)が広く分布している。地区の西部には、その地層を貫いて貫入したドレライト(玄武岩質の貫入岩)が分布している(図2)。

乙立町と周辺の地質図

図2 乙立町と周辺の地質図
本地域には新生代中新世の火山岩類が広く分布している。本図は新編島根県地質図(新編島根県地質図編集委員会、1997編)をもとに作成。

本地区に最も広く分布している岩石は、大森層に属する安山岩とそれに伴う火砕岩である。立久恵峡の絶壁に露出している岩盤は、激しい火山噴火で噴出した火砕流の堆積物が固結したもので、がさがさした安山岩の火山礫とその間を埋める火山灰から成っている(写真3)。立久恵峡の南側では、神戸川河岸部の丘陵に大森層よりやや時代が古い、久利層の流紋岩〜デイサイトが分布している。

立久恵峡の火山角礫岩

写真3 立久恵峡の火山角礫岩
拳大から人頭大の火山岩礫を主体とする岩石。この下位には安山岩溶岩が分布する。

神戸川沿いの河岸段丘は更新世から完新世の堆積物で構成される。高位の面では、地表付近によく円摩された円礫層が分布している(写真4)。礫は硬質であまり風化しておらず、礫間を埋める細粒分は未固結であることから、この面は最終間氷期かそれ以降に形成された可能性が高い。低位の面では、地表に三瓶火山の噴出物に由来するデイサイト礫が多く含まれている。

段丘上に分布する円礫層

写真4 段丘上に分布する円礫層
向名の高位の段丘。段丘が形成された時代の河床礫層。

乙立地区の地史

乙立地区に広く分布する火山岩類は、地質の時代区分では新第三紀中新世(2600万〜650万年前)に形成されたものである。この時代は、日本海が形成された時代として、日本列島の地史の中でも重要な意味を持っている。

2500万年前頃、地下深部から膨大な量のマグマが上昇し、アジア大陸の東縁で激しい火山活動が始まった。そのエネルギーによって、大地が裂けるようにして海が入り込み、形成されて間もない日本海の海底や海岸では活発な火山活動が断続的に繰り返された。その火山噴出物の一部が、本地区に分布する火山岩と火砕岩である。久利層は1800万年前頃、大森層は1500万年前頃に形成されたもので、大森層の時代頃に、日本海の原型がほぼ出来上がったと考えられている。しかし、当時の地形は現在とは全く異なっており、島根半島や中国山地の中ほどにあたる邑南町(瑞穂)から岡山県の備北地方にかけての地域に、当時の海底で堆積した地層が分布してる。すなわち、島根半島や中国山地が隆起して現在のようになったのは、乙立町一帯の岩盤が形成された時代よりも後の時代(後期中新世以降)である。中国山地の隆起に伴って、本地区の岩盤も地表に露出し、局所的な地盤変動や河川の浸食作用を受けて現在の地形が完成された。中新世以降の本地区は陸上の環境にあり、基本的には浸食作用が卓越していたため、中新世より新しい時代の地層は、河岸段丘としてわずかに更新世の地層が分布しているだけである。河岸段丘のうち高位のものは上記のように、10数万年前の最終間氷期以降のものとみられる。その後現在に至るまでの本地区とその周辺の地史上の大きな出来事として、次に述べるように三瓶火山の活動があげられる。

三瓶火山と神戸川の地形

三瓶火山は10万年前頃に活動を開始し、現在までに少なくとも7回の活動期が知られている。火山としてはそれほど大きなものではないが、初期の活動では大噴火を行っており、特に約10万年前と約5万年前には多量の噴出物をもたらしている。その一部は神戸川流域にも残存しており、本地区の南にあたる佐田地区では、この2時期の噴出物が地形面を構成する段丘がみられる。 完新世(1万年前から現在)になってからも、三瓶火山は4800年前頃と3700年前頃に活動している。三瓶山の主峰・男三瓶をはじめ、山体の多くの部分はこの2時期の活動で噴出された溶岩で構成されている。その溶岩は、流紋岩と安山岩の中間的な組成の火山岩「デイサイト」で、灰〜桃灰色のざらついた岩石中に、大きな鉱物の結晶が点在していることが特徴である。鉱物は、黒いものは六角板状の黒雲母、柱状の角閃石が大半で、白いものは斜長石である。

三瓶火山の完新世の活動では、溶岩ドームの形成と、その崩壊に伴う火砕流が繰り返されるタイプの噴火を行ったと考えられている。火砕流堆積物の一部は神戸川流域にもたらされ、河川水や地下水を含んだ土砂状の堆積物は土石流を発生させ、大規模な洪水が頻発した。その洪水堆積物は流域の各所に残存していて、本地区の低位の段丘面にも三瓶火山起源のデイサイト礫が多く分布していることから、地形形成に影響を受けたことがわかる。

また、出雲平野西部の広い範囲で、現地表直下に三瓶火山起源の洪水堆積物が厚く分布しており、その堆積時期が三瓶火山の活動期と一致することから、火山活動に伴う神戸川の洪水によって、現地形の原型が急速に形成されたと考えられる。このように、三瓶火山の活動は、神戸川流域の地形発達に大きく関与している。

※活動期の年代について、第2活動期、第3活動期、第4活動期を従来は約7万年前、約3万年前、約1.6万年前としていましたが、近年の報告にもとづいてそれぞれ約5万年前、約4.6万年前、約1.9万年前に訂正します。

「乙立町誌」の中村唯史執筆部分を転載

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