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島根県の自然

■益田平野の古地理の検討

1.はじめに

 益田は雪舟庭園や柿本人麿伝承など,文化的な歴史に彩られた地域である.近年,益田平野では益田道路の建設にともない遺跡の発掘調査が継続的に行なわれ,文化史に関する考古学的資料が蓄積されつつある.歴史的にみると,中世に益田氏の支配のもとで繁栄を迎え,その経済的地盤として海外との交易を含む海運があった.その拠点として使われた港湾や,平野の一角に存在したと推定される港町の消長は,当地の古地理変遷との関わりが予想される.筆者は,益田市教育委員会および島根県教育委員会によって実施された発掘調査に関連して,地質的手法により自然史につながる資料の収集を試みた.現段階は調査途中であり,古地理を詳細に検討するに足るだけの情報は得られていないが,予察的に概要を報告する.

2.地形・地質概要

 益田平野は島根県西部に位置し,高津川と益田川の下流部に発達する沖積平野で,南北約2.5km,東西約2.8kmの広がりをもつ(fig1).日本海に北面し,海岸は直線的な砂質海岸で,その内側には砂丘が発達している.平野の周囲は標高200m程度までの丘陵地で,頂部は定高性が明瞭である.

調査位置案内図

fig1 調査位置案内図
益田平野は、山陰西部に位置し、日本海に北面する。 この平野はおもに高津川と益田川の三角州性堆積物によって構成される沖積平野である。

 平野の西部を流れる高津川は流域面積約1,090平方キロメートル,東部を流れる益田川は流域面積約127平方キロメートルで,いずれも急峻な西中国山地を源流とする急流である.
 平野を構成する堆積物は,高津川と益田川の三角州性堆積物で,礫,砂,泥からなる.平野周辺の丘陵地には更新世の堆積岩類が広く分布する.この地層は大田市以西に断続的に広く分布する都野津層に属するもので,石見瓦の陶土を産出する地層として知られている.平野の南側には,第三紀の堆積岩類および三郡変成岩に属する片岩などが分布している.
 高津川と益田川の流域は,以下のような地質構成である.
 高津川の源流域(旧六日市町域)には中生代の堆積岩類が分布する.その下流側の旧柿木村域から支流の匹見川の源流〜上流域にかけての広い範囲には中生代の火山岩類が分布する.西部を流れる支流・津和野川の流域には,50万年前頃まで活動していた第四紀火山の青野山火山群の噴出物が分布する.日原付近から益田平野の南に広がる横田盆地一帯にかけては中生代の堆積岩類が分布する.
 益田川の流域は,源流域は高津川上流域から連続する中生代の火山岩類,その下流には三郡変成岩に属する片岩などが広く分布する.下流域には古第三紀の火山岩類,支流の一部には古第三紀の花崗岩類が分布している.

3.歴史的背景

 遺跡からは,益田平野付近の歴史は縄文時代までさかのぼることができる.その数は多くはないものの,益田平野の縁辺部で縄文時代の遺跡の存在が知られている.弥生時代になると,平野の中心付近で人の生活が営まれはじめたとみられ,益田川右岸の沖手遺跡では土器等の遺物や丸木舟が出土している.古墳時代には,平野を取り巻く丘陵地に前方後円墳としては島根県内最大級の大元1号墳をはじめ,多くの古墳が築かれ,当地に拠点とする集団の出現がうかがい知ることができる.
 飛鳥時代には,歌聖と呼ばれる万葉歌人の柿本人麿が当地を訪れたとされる.人麿の生涯については諸説あるが,晩年を石見で過ごし,益田市沖にあった鴨島がその終焉の地とも言われている.
 奈良時代に律令制が敷かれると,当地は石見国美濃郡に属することになる.平安時代末期に益田荘と長野荘が成立し,益田荘は中世に当地を拠点として勢力を有した益田氏につながると考えられている.室町時代になると,益田氏が七尾城,三宅御土居を本拠として活躍する.益田氏は益田川河口付近の港を拠点とした海外交易によって経済基盤を築き,医光寺や万福寺の庭園にその隆盛ぶりをみることができる.これらの庭園は,益田氏15代の益田兼堯に招聘された雪舟の手によるものとされる.雪舟は「益田兼堯像」を描いており,この絵は国の重要文化財に指定されている.
 戦国時代の動乱期を経て江戸時代になると,益田氏は毛利氏に仕え山口県の須佐に移り,海運拠点として栄えた益田の一時代に幕が下ろされた.

調査位置案内図

fig2 地形区分図

4.微地形の解析

益田平野の沖積面には、高津川の自然堤防列と旧河道列が顕著に認められる。1964年撮影の空中写真をもとに作成。図中のA-Bは図3の側線を示す。

 1964年撮影の空中写真の判読に基づいて作成した微地形図をfig2に示す.
 平野面の微地形では,平野南西部を扇頂とし北東へ向かって広がる高津川扇状地が明瞭である.扇状地上には,数条の旧河道と自然堤防列が認められる.高津川の左岸には明瞭な自然堤防が発達し,その西には西側の丘陵と砂丘に囲まれた後背低地の平坦面が広がる.高津川の河口部には,古川と呼ばれる水域が残存している.1964年当時は孤立した水域であるが,現在は高津川河口とつないで港湾として利用されている.
 益田川は高津川扇状地先端の一部を切って流れている.この流路は,1931年の河川改修によって直線化されたもので,それ以前は,扇状地を迂回するように東へ蛇行していた.この旧河道は,現在も一部が沼沢地として残っている.
 高津川扇状地と海岸の砂丘との間には標高1〜2mの低平な平坦面が広がり,大小の旧河道が認められる.

 砂丘についてみると,高津川と益田川の両河口間にある砂丘列と,高津川左岸の砂丘列に大別できる.前者は,その形状から海岸砂州の浜堤を風成砂が覆って発達したとみられる.この砂丘列は,中央付近が鞍部になって東西に分かれており,旧河道の状況から鞍部に河口が存在した時期があるとあると推定できる.高津川左岸の砂丘列は,海岸から少し離れた陸側にあり,西側の丘陵から伸びている.この砂丘列の付け根部分にある蟠竜湖は,砂丘によってせき止められた湖沼といわれている.

地下地質断面図

fig3 地下地質断面図
益田平野中央部の東西断面。本側線では、完新統の基底面は標高-10m前後にあり、西側は砂がちのH1層、東側では泥がちのH2層が分布する。H1層は高津川の三角州前置層、H2層はかつて存在した内湾的水域の湖底堆積層。H2層には貝化石が含まれる。
側線位置は図2参照。本図は、一般県道久城インター線の建設にともない、益田市が実施したボーリング調査と既存資料収集の成果をもとに作成。

5.地下地質

 益田平野の地質断面図をfig3に示す.
 平野を構成する堆積層の基盤となっているのは,新第三系とみられる堆積岩類である.側線位置における新第三系からなる埋没地形面は最深部で標高-35mのなべ底状の谷地形をなしている.この埋没地形面の直上には,最大層厚13mの礫層が分布する.この礫層は,概ねN値50以上を示し,いわゆる沖積基底礫層に相当するとみられる.
 標高-20m以浅には,N値が概ね30未満の緩い砂層と泥層が分布し,完新統と判断できる.完新統は4層に大別できる.以下,4層について,便宜的にH1〜H4層と呼ぶ.H1層は,完新統の最下位にあたり,砂および礫を主体とする.西で厚く,東にいくにつれて層厚が薄くなる.H2層は泥を主体とする.本層は東側を中心に分布する.本層には,巻き貝などの内湾生の貝化石が含まれている(photo4).H3層は礫を主体とし,H1,H2層を覆って広く分布する.H4層は,東側を中心に分布している.
 本断面位置上の,益田川右岸地区では,遺跡の発掘調査が行なわれ,H4層に相当する層準をトレンチで直接確認している.発掘調査では,弥生時代以降の遺物および遺構が出土している(国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会,2006).遺物の出土層準について,2000年前頃の弥生時代の層準は腐植を多含する湿地的な層相を示し,そこからは丸木舟も出土している(photo5).500年前頃の中世の層準には,住居跡が密集し町の存在が明らかになっている.

6.考察

(1)完新統の堆積環境

 三角州性堆積物から構成される臨海沖積平野の一般的な成長過程から,H1〜H4層の層序および堆積環境について,以下のように解釈できる.
 当平野下の完新統基底面(H1層またはH2層の基底面)の高度分布は海面高度以下である.完新世前半の急速な海面上昇により,当地は内湾的環境に変化し,そこへ流れ込む高津川と益田川の三角州が成長した.国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会(2006)において山田は,益田平野南西部のボーリングコアの解析から,7800年前から6000年前に内湾的環境の水域が存在したことを示している.H2層には貝化石が含まれており,これも内湾的水域の存在を支持する.水域の拡大には海面の上昇速度が関係する.当地における完新世の海面変化を示す資料は得られていないが,島根県東部では完新世初頭に-40m付近にあった海面は,6000年前頃に現在と同水準にまで上昇した(中村,2006).当地の水域がもっとも広がったのは,上記のボーリングで得られている年代と併せて判断すると,7800年前から6000年前の間と考えられる.

 海面上昇によって形成された水域に,高津川と益田川が堆積物を供給し,三角州が成長した.断面図に示したH1層は,西側で層厚が厚いことから,高津川三角州の前置層に相当するとみられる.この地層が基底礫層に直接重なっていることは,高津川三角州の前進速度が速かったことを示すと考えられる.H2層は,水域の底に堆積した泥質堆積物で,本断面ではH1層の上位に見えるが,H1層とH2層は指交関係とみるのが妥当であろう.すなわち,水域内で,土砂供給量が多い河口近くでは砂質堆積層が形成され,河口から離れた地点では泥質堆積層が形成された.当断面位置では,高津川の河口位置が変化したことである時点から土砂供給が減少し,泥質堆積層が形成されるようになったことを示していると考えられる.

 H3層は,三角州頂置面層に相当すると考えられる.水域が埋積され,河道および氾濫原に供給された粗粒な堆積物で,現地形の原形を構成しているといえる.H1層は分布範囲から高津川が供給した堆積物と判断できるが,H3層は高津川と益田川の両方の影響を受けていると考えられる.fig2に示すように,微地形からは益田川の左岸側は高津川扇状地の扇頂から伸びる地形列が明瞭である.その範囲では,H3層の堆積物は大半が高津川から供給されたと判断できる.益田川の右岸側は,地形的には益田川の氾濫原であるが,高津川扇状地の末端を切る形になっていることから,堆積物には高津川から供給されたものも含まれていると推定される.そこで,断面側線上とその周辺のトレンチ約50地点から採取されたH3層の礫を観察し,高津川の堆積物のマーカーとなる青野火山群の噴出物の有無を判別したところ,大半の試料でそれが含まれていた.このことから,益田川右岸のH3層は,益田川の河川作用によって形成されたが,高津川から供給された堆積物も取り込まれていると判断できる.

 H4層は,後背低地の堆積物とみられる.遺跡の発掘調査からは,本層は2000年前には堆積がはじまっており,次第に乾陸化したと考えられる.本層には粗粒な堆積物がほとんど含まれておらず,2000年以上の期間にわたって礫を供給する強い河川水流の影響をほとんど受けなかったとみられる.

(2)平野の地形発達

 平野下の完新統の堆積環境から,益田平野の地形発達について以下のように考えられる.
 完新世前半,海面上昇によって当地一帯には内湾が形成された.7800年前頃には平野南西部まで水域が拡大していた(国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会,2006).6000年前頃に海面上昇が鈍化,停滞に転じると,高津川三角州は急速に拡大をはじめ水域の西部は埋積が進んだ.水域の東部には層厚10mを超える内湾成の泥層が存在することから,数千年間にわたって内湾的環境が継続したとみられる.
 2000年前頃には,平野の中央付近で人の生活が営まれるようになった.当時は,平野の至るところに湿地的な環境が残存していたと推定される.

 600年前頃には,益田川河口付近を港として海運交易が盛んになった.江戸時代初頭の約400年前に描かれた石見国絵図(浜田市所蔵)に,高津川と益田川が合流して流れ,河口部にはある程度広い水域が存在する姿で描かれており,中世の段階でこの水域が港湾として十分な広さを有していたと思われる.この頃,益田川河口に近い平野面は安定した乾陸となっており,河川の氾濫の影響も比較的少ない環境だったと考えられる.

 高津川河口の古川が現在なお水域として残存している.2000年前頃までの三角州の前進速度からみると,このような水域はもっと早い時期に埋積して消滅してもおかしくない.これについて,河口位置が湾奥にあって,供給された土砂の大半が湾内に堆積する段階では三角州の拡大が進むが,それによって河口位置が前進して土砂が外海に直接排出されるようになると三角州の成長が鈍化するという解釈ができる. また,平野部の開発が進むと,治水による河道の固定が行われるようになり,このことも地形発達に大きく影響するようになり,さらに埋め立てや河道の付け替えの結果,現在の地形が成立した.

7.まとめと課題

 縄文時代の益田平野には潟湖が存在したことがボーリング試料から明らかになった。高津川の土砂供給量が大きいため、水域は比較的早い段階で縮小し、2000年前頃には平野のかなりの部分が陸化していたとみられるが、河口付近には水域が残存し、中世には港として益田の発展を支えた。考古学的な成果からも、沖手遺跡において港に関連するとみられる集落の遺構が確認され、地形発達史と文化史の関わりの一端が明らかになりつつある。
 現段階では、地形の変遷を時間軸に沿って詳細に明らかにするところまで至っていない。堆積時期を示す年代資料と層相から明らかにされる堆積環境について検討することで,詳細な地形発達史が明らかになると期待される。そのことは、中世の港の位置や町の成り立ちを解明する上でも重要な資料となると思われる。

謝辞:本研究は、益田市教育委員会ならびに島根県教育委員会によって実施された埋蔵文化財の発掘調査に参加する形で実施した。益田市教育委員会の木原光氏をはじめ、調査担当の皆様には、現地調査において便宜を図っていただくとともに、各種の資料を提供していただいた。ここに記してお礼申し上げます。

8.文献

国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会,2006,一般国道9号(益田道路)建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書2浜寄・地方遺跡.180p.島根県教育委員会.
国土交通省中国地方整備局・島根県教育委員会,2006,一般国道9号(益田道路)建設予定地内埋蔵文化財発掘調査報告書3沖手遺跡-1区の調査-.130p.島根県教育委員会.
中村唯史、2006、山陰中部地域における完新世の海面変化と古地理変遷。第四紀研究、45,407-420.

益田平野の遠景

photo1 益田平野の遠景
手前は益田川の水面、奥側は高津川扇状地で、地形面は奥に向かって緩やかに高くなっている。平野の向こうに見える台地状の平坦な丘陵地は更新統が分布している。

横田盆地を流れる高津川

photo2 横田盆地を流れる高津川
急峻な西中国山地を集水域とする高津川の流れは急で、横田盆地で匹見川と合流すると一気に水量を増して益田平野へ流れでる。

益田平野の発掘調査風景

photo3 益田平野の発掘調査風景
写真は益田川右岸の沖手遺跡。ここでは中世の港に関連すると考えられている町並みの遺構が確認されている。

ボーリングコア中の巻貝

photo4 ボーリングコア中の巻貝
平野下に分布する泥層には貝化石が多数含まれており、内湾的環境に堆積したことを示唆する。このコアは沖手遺跡の発掘に伴って益田市が実施した調査用ボーリングのもの。

沖手遺跡出土の丸木舟

photo5 沖手遺跡出土の丸木舟
弥生時代の丸木舟で、湿地的な環境の堆積物から出土した。弥生時代には出土地点の北側に潟湖の水域が残存していたと推定される。

(中村唯史)

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